三好長治 麒麟。 【麒麟がくる】三好三人衆とは?三好長逸・三好宗渭・岩成友通それぞれどんな人物?

戦国時代 三好長慶の勢力拡大を支えた優れた弟たちと室町時代の名家 細川氏の没落

三好長治 麒麟

今回は 細川晴元と 三好長慶の 覇権争いが主体の話でしたね。 この2人の関係を見るには、まずはこの時代の 政局について知る必要があります。 足利義輝が将軍職に就いていたこの時代、 室町幕府の権威は 地に落ちたも同然の状態でした。 この時代より80年ほど前に起きた 応仁の乱を幕府が収拾できなかったことで、 将軍の存在意義がなくなってしまっていたんですね。 代わって実権を握ったのが、 幕府ナンバー2のポジションにあった 管領、特に 細川氏でした。 室町幕府の管領は当初、 斯波氏、細川氏、畠山氏の三家(三管領家)が 持ち回りで務めましたが、これも応仁の乱以降、細川氏以外の二氏は急速に勢力を失い、細川氏が 独占するようになっていました。 本来、管領は 将軍を補佐する立場だったのですが、いつしか彼らは将軍の言うことなど聞かなくなり、むしろ、歯向かえば逆に攻撃してくるほど 力関係は逆転していた状態で、義輝の祖父の代には、将軍家は京を追われて 近江国に逃れていました。 そのため、義輝が生まれたのも、近江国だったといいます。 そんな細川氏の中でも、 権力争いが絶えませんでした。 父の死によって7歳で家督を継いだ 細川晴元は、13歳のとき、父の政敵だった 細川高国打倒の兵を挙げ、この戦いに勝利します。 このとき晴元の力となったのが、三好長慶の父・ 三好元長でした。 三好氏は 阿波細川氏に代々仕える 譜代の臣で、この功績により、更に重臣としての地位を高めます。 しかし、その関係も長くはつづかず、三好元長が細川高国との和睦を図ったことによって 不仲 となります。 その後も両者は勢力争いのなかで 対立、和睦を繰り返しますが、やがて元長は晴元によって 自害に追い込まれます。 そうすると、今度は元長の嫡男・長慶と和睦して配下に組み入れます。 この晴元と長慶の関係も、 ひっついたり離れたりを繰り返すのですが、ドラマのこの時期は、 関係が悪化していた時期ですね。 ネタバレになりますが、晴元はやがて長慶によって 失脚させられます。 まあ、長慶にしてみれば、 父の仇ですからね。 当然の反逆だったといえるでしょう。 なぜ晴元は、対立と和睦を繰り返しながらも三好氏を配下に組み入れたかというと、激しい覇権争いの続くなか、政権を維持するには 三好氏の武力を頼るしかなかったんですね。 将軍・ 足利義輝は、父の 足利義晴とともに晴元によって京を追われていましたが、ドラマのこの前年に晴元と和睦し、京に戻ってきていました。 ドラマで三好長慶と 松永久秀の襲撃計画を聞きつけた 明智光秀が、 三淵藤英と 細川藤孝に助けを求めにいったところ、三好も松永も 昨年までは争っていた間柄で、駆けつける理由がないと断っていましたが、そういう背景からの台詞だったわけです。 ドラマでは三好長慶と松永久秀を助けるために家臣を現場に向かわせた義輝でしたが、この翌年には長慶と対立することとなり、これもネタバレになりますが、この15年後、松永久秀と三好一族の 三好三人衆によって 殺害されます。 まさに、 昨日の友は今日の敵。 誰と誰が味方で誰が敵か、わけのわからない時代でした。 つくづく、こんな時代に生まれなくてよかったと思います。 いちばん 恐るべきは隣国の敵よりも有力な家臣、そんな時代だったんですね。 その 秩序の乱れを、 「何かが違う」と憂うドラマの光秀。 もっとも、明智光秀その人こそ、 日本史上最も有名な反逆事件を起こすことになるんですけどね。 ブログ村ランキングに参加しています。 よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。 また、お叱りや反論、批判はかまいませんが、批難、誹謗、中傷とみなされるもの、その他不適切と判断したコメントについては、管理人の権限で削除させていただく場合がありますので、あらかじめご了承ください。 応援クリックいただければ、励みになります。

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三好長慶と一族が長生きしていたら?: ニッコリン

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この記事の目次• 1ページ目• 2ページ目• 本圀寺を襲撃するが・・ 上洛した信長ですが、美濃に一時帰還、その時、足利義昭は明智光秀を中心とする近江、若狭の僅かな国衆に守られて本圀寺にいました。 巻き返しを図る三好三人衆は、これを勝機と見て美濃を信長に追われた 斎藤龍興 さいとうたつおき も加えて襲撃しますが、織田方は明智光秀等が奮戦、小さな本圀寺は容易に落城しません。 日没を迎えても三好三人衆は本圀寺を落とせず、一旦退いて翌日の攻撃に備えます。 しかし、翌日には摂津方面より織田方の池田勝正、 細川藤孝 ほそかわふじたか 、三好義継らの3000人の軍勢が到着、三人衆は 桂川 かつらがわ で迎撃しますが激戦の末に敗北。 これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまいました。 徐々に三好三人衆からツキが逃げていく様子がわかります。 野田城・福島城の戦いで織田軍を撃退 元亀元年、織田軍が畿内から移動した隙を突き、三好長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめ6月には、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した 荒木村重 あらきむらしげ ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めます。 三人衆軍は摂津中嶋に進出し、野田城・福島城を築城して籠城します。 当時この地域は西側が海、北・南・東は川に囲まれた島のような場所で三人衆はそのような場所に堀を掘り、壁をつけ 櫓 やぐら を建てて防備を固め、さらに 細川昭元 ほそかわあきもと や紀伊の 鈴木孫一 すずきまごいち 等が率いる 雑賀衆 さいかしゅう の援軍も到着し総数1万3千までになりました。 織田軍は自軍30000人さらに雑賀根来の鉄砲衆20000人を動員し、付城を築いて、野田城・福島城を包囲し、一日中、双方で鉄砲数千挺を撃ち合います。 数と物量に勝る織田軍は有利で、三好三人衆は窮地に追い込まれますが、ここで摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃し石山合戦が始まります。 これにより、三好軍は紀州勢や 一向一揆 いっこういっき の参戦、さらに織田方の後方から浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げます。 しかし、辛うじて本願寺に救われた三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれて和睦しました。 頼みの武田信玄が病死、三好三人衆全滅 元亀二年、和議は 破棄 はき され、三好三人衆は、反織田包囲網に参加。 摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携し信長包囲網の一角を担います。 しかし、その矢先、本国阿波で 三好長治 みよしながはる が篠原長房を殺害。 家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えます。 元亀4年、信長と不和になった足利義昭自身が決起。 これに信長の 筒井順慶 つついじゅんけい 優遇に不満を持つ、三好義継・松永久秀らが呼応、三好一族の足並みが反織田で一致します。 いよいよ、悲願の織田追放が成るかと期待した矢先、武田信玄が上洛途中病死しました。 反織田方にとって信玄の死は致命的で、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に崩壊。 足利義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は 淀城 よどじょう で討ち死。 浅井長政と朝倉義景も電撃的に織田軍に討たれ、三好義継は足利義昭を庇った事で若江城を攻められ部下に殺害され、松永父子は信長に多聞山城を差し出し降伏します。 生き残りの三好長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できるのを最後に父子共に行方不明。 三好宗渭も病死しました。 三好三人衆の末路はハッキリ確認できないものの、その後歴史の表舞台に出ず、力を失ったのは間違いありません。

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nhkの歴史番組で松永秀久が特集されてたんですけど足利義輝を殺したのは三好の...

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この記事の目次• 1ページ目• 2ページ目• 本圀寺を襲撃するが・・ 上洛した信長ですが、美濃に一時帰還、その時、足利義昭は明智光秀を中心とする近江、若狭の僅かな国衆に守られて本圀寺にいました。 巻き返しを図る三好三人衆は、これを勝機と見て美濃を信長に追われた 斎藤龍興 さいとうたつおき も加えて襲撃しますが、織田方は明智光秀等が奮戦、小さな本圀寺は容易に落城しません。 日没を迎えても三好三人衆は本圀寺を落とせず、一旦退いて翌日の攻撃に備えます。 しかし、翌日には摂津方面より織田方の池田勝正、 細川藤孝 ほそかわふじたか 、三好義継らの3000人の軍勢が到着、三人衆は 桂川 かつらがわ で迎撃しますが激戦の末に敗北。 これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまいました。 徐々に三好三人衆からツキが逃げていく様子がわかります。 野田城・福島城の戦いで織田軍を撃退 元亀元年、織田軍が畿内から移動した隙を突き、三好長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめ6月には、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した 荒木村重 あらきむらしげ ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めます。 三人衆軍は摂津中嶋に進出し、野田城・福島城を築城して籠城します。 当時この地域は西側が海、北・南・東は川に囲まれた島のような場所で三人衆はそのような場所に堀を掘り、壁をつけ 櫓 やぐら を建てて防備を固め、さらに 細川昭元 ほそかわあきもと や紀伊の 鈴木孫一 すずきまごいち 等が率いる 雑賀衆 さいかしゅう の援軍も到着し総数1万3千までになりました。 織田軍は自軍30000人さらに雑賀根来の鉄砲衆20000人を動員し、付城を築いて、野田城・福島城を包囲し、一日中、双方で鉄砲数千挺を撃ち合います。 数と物量に勝る織田軍は有利で、三好三人衆は窮地に追い込まれますが、ここで摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃し石山合戦が始まります。 これにより、三好軍は紀州勢や 一向一揆 いっこういっき の参戦、さらに織田方の後方から浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げます。 しかし、辛うじて本願寺に救われた三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれて和睦しました。 頼みの武田信玄が病死、三好三人衆全滅 元亀二年、和議は 破棄 はき され、三好三人衆は、反織田包囲網に参加。 摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携し信長包囲網の一角を担います。 しかし、その矢先、本国阿波で 三好長治 みよしながはる が篠原長房を殺害。 家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えます。 元亀4年、信長と不和になった足利義昭自身が決起。 これに信長の 筒井順慶 つついじゅんけい 優遇に不満を持つ、三好義継・松永久秀らが呼応、三好一族の足並みが反織田で一致します。 いよいよ、悲願の織田追放が成るかと期待した矢先、武田信玄が上洛途中病死しました。 反織田方にとって信玄の死は致命的で、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に崩壊。 足利義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は 淀城 よどじょう で討ち死。 浅井長政と朝倉義景も電撃的に織田軍に討たれ、三好義継は足利義昭を庇った事で若江城を攻められ部下に殺害され、松永父子は信長に多聞山城を差し出し降伏します。 生き残りの三好長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できるのを最後に父子共に行方不明。 三好宗渭も病死しました。 三好三人衆の末路はハッキリ確認できないものの、その後歴史の表舞台に出ず、力を失ったのは間違いありません。

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