荒野行動メインストリートミッド登り方。 アイスクライミングフェスティバルが主流に

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荒野行動メインストリートミッド登り方

閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細(アメリカおうだんウルトラクイズのかくたいかいのしょうさい)では、で放送された『』の各大会の詳細について記述する。 この項目で述べる地名およびクイズ名称の表記は、番組内での表記に従うものとする。 「 CP」は「 チェックポイント」の略記。 実際の大会では実施されたが放映されなかったクイズ(どろんこクイズの勝者決定戦など)や、席順決めのためのクイズ、、勝敗に無関係なクイズ(敗者予想クイズなど)は割愛する。 また、各クイズの参加・通過人数は放送上でのものであり、実際とは異なる場合がある。 「 決勝戦の結果」は放送上のポイントであり、実際と異なる場合がある。 また、名前の順はテレビの画面通り。 決勝戦進出者・機内1位・その他の参加者の氏名、年齢、職業は特記がない限り開催当時のものであり、現在のものではない。 各挑戦者にある番号は、 参加したときのネームプレートに書かれた番号を指す(第1回のみネームプレートではなく、ペーパークイズの勝ち抜け者を発表する時に使われた番号)。 その他の参加者については、出場回数や成績に関わらず、様々な面で大会を沸かせたり、視聴者やファンに強い印象を残した人物を挙げていく。 第1回(1977年) [編集 ] 日本テレビ開局25周年記念番組という形のとして開催。 そのため「第1回」という表記はなく、番組タイトルも「 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ」だった。 当初は1週のみの放送予定であったが、放送時間が不足したために2週連続に拡大された。 スタジオパートのアナウンサーは、この回のみ肩書は「アシスタント」であり、また第2週では国内リポーター(敗者の味方)・アナウンサーがこの回のみメイン司会・と共に「総合司会」であった。 そのスタジオでは観客に対して賞金付きクイズ王予想が行われた。 第一次予選の会場として押さえたのは、の練習が始まる前のということで、午前中に終わらせなければならず、挑戦者は午前9時集合厳守であった。 しかし午前8時頃になっても集まっていたのはわずか8人ほどで、急遽挑戦者を集めるために当時隣接していたの客に向けて、で参加を呼び掛けたほどだった。 また、この第一次予選が行われた9月4日は、読売ジャイアンツのが後楽園球場で通算756号本塁打の世界記録を達成した翌日のことであった。 各チェックポイントで行われたクイズの大半がであった。 当時は成田空港(新東京国際空港、現・)が未開港で、第二次予選は羽田空港()で行われた。 「バツ」と言う様になったのはグァムの敗者復活戦からである。 第一次予選の通過者は「80名」と歴代では最も少なく(100名を切ったのは唯一)、ジャンケンもこの回のみ「4勝先取」、「機内ペーパークイズ」も800問と多かった。 またこの回のみ「」が無く、優勝したクイズ王は各CPの通過で使う「 勝抜けメダル」を首に掛けるだけだった。 各チェックポイントでの勝者と敗者の場所に掲げられていた看板は、この回のみ白地に「東京直行」などの文字が青で書かれていた。 青地に白文字で書かれたボードが登場するのは次回から。 初代)が一切無かった(「日本テレビ」の「日」と地球をイメージした2代目のマークを採用したのは翌年から)。 関東地区での『』内の再放送は後述の通り第3回からだが、第1回は翌1978年10月14日と同年同月21日の2週にわたって、第2回の宣伝を兼ねて『ビッグサタデー』で再放送、「放送翌年に通常形態で再放送」という珍しい形式だった。 その後、クイズ王・松尾や準優勝者・藤原と共に日本テレビスタジオに現れ、福留から「4位賞」を授与されたが、それがびっくり箱だった。 決勝戦進出者• クイズ王 : (出身・No. 15・38歳・ 機内1位) 出身、材木店経営。 優勝時の年齢が歴代最年長。 収録のを中心に参加し、数多くの優勝歴も持っていた。 クイズ本番前に歌い出したりを吹くといったマイペースぶりを見せており、フェニックス以降2位通過で決勝へ進出した。 再挑戦は第7回・第12回と、当時の『ウルトラクイズ』上限時のみ(前者は45歳、後者は50歳)だったが、第11回準決勝ではゲスト「 ミスターX」として登場し、彼との勝負に勝てば決勝進出というクイズ形式が採られた。 その際、芸能人に関する問題 を自分の娘に近い年齢の挑戦者に正解され、芸能人に関する情報はで止まっていると告白。 後年は幾多の大型クイズ番組に出場している。 準優勝 : 藤原滋子 (出身・No. 74・27歳・機内8位(女性2位)) クイズ番組優勝歴を多数持っていた実力者。 グァムで敗者復活。 本土上陸後はフェニックス以外は全てトップ通過で決勝へ進出した。 後に結婚して「五島」と改名、『』で関西予選に参加した事もあった。 優勝賞品• の土地1 (のど真ん中・1226坪分) テレビ放送(全2週)• 第1週…(52年):サンディエゴまで• 第2週…1977年:「西部の大混戦」 放送時間は双方とも19:30 - 20:54()。 以後第7回までこの時間で放送。 第2回(1978年) [編集 ] 『史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ』が予想を上回る好評を得たことにより、年1回のレギュラー化が決まった。 準決勝のクイズ形式がの地元紙アクトン・ミニットマンに掲載される など、アメリカでも話題になった。 成田空港の開港により、第二次予選会場は羽田から成田へと移され、ジャンケンも「3勝先取」に縮小、以後このルールとなる。 本土上陸後のルートは、前大会がアメリカ合衆国南部を経由するルートであったのに対し、今大会ではアメリカ北部を経由するルートとなった サンフランシスコ初上陸でもある。 クイズにバリエーションを出し始めるものの、その後の本番組の原型になるようなものはまだそれほどなかった。 今大会より「機内クイズ」の判定機、通称「 ブーブーゲート」が初登場している。 決勝戦では、日本にいる挑戦者の親族(成田のジャンケンの会場で待機)とを用いた音声のみの衛星中継を行った。 そして今大会から「 優勝旗」が登場した。 男女の敗者が、敗者復活戦に回る。 決勝戦進出者• クイズ王 : (出身・No. 69・24歳・ 機内1位) (現・)出身。 それまで勤めていた建築会社を辞めての初参加。 妹である 北川洋子 東京都・No. 1・20歳 と共に、それまでにもクイズ番組の優勝経験を多数持つ実力者として知られていた。 サイパンで敗者復活を果たし、ハワイ以降はリノ(2位通過)と準決勝を除いてトップ通過の連続で決勝へ進出した。 共に後楽園予選を通過した妹は成田で敗退しているが、国際電話連想クイズで兄をサポートした。 2年後の第4回でも国内予選を突破、機内ペーパークイズも第2回と同じく機内トップとなるが、グァムでどろんこクイズ初挑戦者にして、不正解で泥まみれになった敗者第1号となってしまった。 その後も番組に参加するも第一次予選は通過出来ず、特に第15回ではあと3問残して失格となった。 準優勝 : 間下友美子(東京都出身・No. 42・27歳) クイズ番組ファンという一家の末っ子で、共に後楽園予選を通過した兄は成田で、姉はサイパンで敗退する。 本人もサイパンで敗れたものの、敗者復活を果たす。 国際電話連想クイズでは姉のサポートを受けて勝ち抜け、クイズ番組初挑戦ながら決勝まで勝ち残った。 旅行は数回あるが、アメリカ旅行は初めてだった。 優勝賞品• の最高級ホテル・宿泊権 (北川の母親と妹を呼んで1泊) テレビ放送(全3週)• 第1週…(昭和53年) 『日本脱出大乱戦』 :サンフランシスコ途中まで• 第2週…1978年 『西部の大混戦』 :デンバーまで• 第3週…1978年 『摩天楼の大決戦』 第3回(1979年) [編集 ] 番組が今大会から「 スタートレックのテーマ」となり、番組内で使われる他の楽曲の多くも今大会から使用された。 早押しテーブルなどの機材も今大会のものが基本になっているものが多い。 』 スーパーもこの大会から登場した。 機内ペーパークイズはこの回から「 400問」に固定、また体力系のクイズが行われ始め、 バラマキクイズや (ドボンクイズ)など、その後の番組の代名詞になるようなクイズが初登場し、クイズ形式の基礎が確立された。 この他、2度の国内予選終了時の「敗者による」がこの回から行われた。 ルートは第1回よりも更に南側のコースとなり、ロサンゼルスとに初上陸した。 また、機内トップの挑戦者が途中で敗退、途中で女性が全滅、全編を通じて敗者復活戦が行われなかったのは、いずれも今大会が初めてである。 この回からスタジオパートの「電飾ルート」にくどう昭()によるイラストが初めて登場した。 第5CP・グランドキャニオンの「罰ゲーム」パート開始時のジングルに、の『Big City』が初使用された。 この後はしばらく使用されなくなるも、第6回のアラスカ(第3CP)・ロサンゼルス(第4CP)・ダラス(第7CP)で3年振りに使用、そして第7回から本格的に使用される。 関東地区では、この回から土曜昼の単発再放送枠『』で本放送直後に再放送を開始した。 また翌1980年には第4回開催直前に同枠で本大会のダイジェストを放送、以後大会開催前には前回開催分のダイジェストを放送する様になる。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 宗田利八郎(出身・No. 17・29歳・機内5位) 出身、の。 大学時代は研究会に所属しており、高座名は当時から無類の好きだったことから「狂亭競馬」。 クイズ番組での優勝経験があったものの、眠気と胃痛に悩まされることが多く準々決勝までトップ通過は無かった。 ハワイで敗退した挑戦者 から、悪役のにちなんだ「 ブッチャー」というあだ名で呼ばれたのがきっかけで、他の参加者もそう呼ぶようになり、司会の福留までそう呼ぶようになった。 2年後の第5回 でも国内予選を突破するが、この時はハワイでクイズ前日にで豪遊していた他の挑戦者たちと共に敗れた。 優勝賞品の競走馬は、契約事項がとても難しかった上にオーナーになるのに色々な制約もあったなどのことから、後に売却したという。 本人は競馬好きなことから「ぴったりの賞品だと思っていたのに」と話している。 2019年1月24日、心不全のため死去。 69歳。 準優勝 : 田上 滋(京都府出身・No. 69・18歳・機内5位(宗田と同点))。 宗田とは対照的に、本番組がクイズ番組初挑戦であった。 体力系に強く、バラマキクイズとリ・タイヤクイズでトップ通過している。 10代での決勝進出を果たしたのは後にも先にも田上だけである。 機内1位 : 岩崎悠一(サイパンにて敗退)機内トップの挑戦者で、初の敗者となった。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• 一頭(第8CPヒューストンにて発表された。 ダラスにて贈呈。 数え年で8歳、人間でいうと45歳程度の老馬だった。 ヒューストンまで進出した女性挑戦者の名前「千春」から「サウザンド・」(の「サウザンド」との「プランタン」を組み合わせた)と命名) テレビ放送(全3週)• 第1週…(昭和54年) 『脱出激闘編』 :ハワイまで• 第2週…1979年 『熱砂猛闘編』 :ヒューストン・第1問の3択表記まで(正解は第3週で公開。 第3週はヒューストンの最初から改めて放送された)• 第3週…1979年 『栄光死闘編』 第4回(1980年) [編集 ] は歴代2位を記録。 成田での敗者復活戦が今大会から始まり、ジャンケンに負けた人にも国外脱出のチャンスが与えられるようになった。 また、 どろんこクイズが初登場、更に通せんぼクイズの前身・ 通過クイズが登場し、各クイズ形式にも一ひねりを入れ始めた。 ルートでも横断の要素に加え縦断の要素が強い回となる。 準決勝では全大会で唯一、自治連邦区に上陸した。 そのプエルトリコに駒を進めたのは4名とも女性で、グァムから勝ち抜いて以降、誰一人脱落しなかった(うち1名は、歴代唯一の夫婦そろってアメリカ本土上陸を果たした夫婦の妻だった)。 歴代で唯一、男性が途中で全滅する とともに、女性がクイズ王となった大会であり、決勝戦は初めてクイズ番組未経験者同士の対決となった。 この回から第1問は関連問題で定着するようになった。 また、この回から第一次国内予選冒頭で「優勝旗返還」のセレモニーが行われる様になり(第5回と"今世紀最後"は除く)、冒頭、前回のクイズ王・宗田利八郎が優勝賞品・競走馬に乗って登場し、審査委員長(総合演出)に優勝旗を返還し「選手宣誓」を行うと、故郷である「福島県」解答者列に移動した。 だが宗田は第1問目でいきなり失格(過去のクイズ王が第1問で失格は初)、更に宗田を頼って不正解側に移動した福島県挑戦者が第1問目で全滅してしまった。 一方、第2回クイズ王・北川宣浩は第一次予選を突破し、その後も順調に勝ち進んだが、どろんこクイズに初めて挑戦するもいきなり失格となった。 勝ち抜き者の「バンザイ」場面で『crazy rhythm』のBGMが使用されたのはこの回が初。 だがその子供は人間ではない」という呪いを受ける。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 上田由美(出身・No. 高校時代にで優勝の経歴を持つ。 本番組唯一の女性優勝者で、他のクイズ番組出場経験はない。 成田のジャンケンで対戦相手からもらったを締めて以降のクイズに臨んだことから「 ハチマキ娘」と呼ばれた。 当初、コンピュータ予想の評価は高くなかったものの、イエローストーン以降は全てトップ通過で決勝まで進出した。 優勝決定後、クイズ会場のパンナムビル屋上から日本の恋人に「 勝ったの、私!! すごいでしょ!! 」と絶叫、その恋人と(昭和61年)に結婚して姓が「山口」となる。 後にの国際線(アシスタントパーサー)になり、その職業柄日本にいないことが多く、優勝以降は本番組へ参加できない時期があったが (『』では、クイズ王連合軍として参加した)、第14回から再び参加するようになった。 "今世紀最後"にも出場したものの本戦映像では映らなかったが、事前番組『今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ ㊙密着ドキュメント』では娘(当時4歳)を連れてインタビューに答えている場面が放送、『史上最大の敗者復活戦』以来16年弱振りの『ウルトラクイズ』映像となった(番組ではハチマキをもらった場面 と優勝決定の瞬間も放送)。 番組史上唯一、正式な女性のクイズ王である。 放送してから36年後のに日本テレビで放送された『』に出演、当時を振り返った。 2020年5月25日放送分では『ウルトラクイズ』の番組名は伏せられていたが第4回に優勝したことや、『今世紀最後』でインタビューを受けていた娘(現在はバイオリニストとして活躍)も出演した。 準優勝 : 松澤典子(東京都出身・No. 51・20歳) クイズ番組初挑戦。 初の親子での予選通過を果たすが、母親は機内ペーパークイズで脱落。 長旅の疲労で体調を崩し、丸2日間食事が喉を通らず水しか飲めない状況ながらもニューヨーク行きを決める。 機内1位 : 北川宣浩(東京都出身・26歳・グァムにて敗退) 勤務。 第2回に続いて、2度目の機内1位。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• 1人乗り小型 (第8CPアルバカーキにて発表。 最新型の飛行機と紹介された。 にて贈呈。 部品の状態で渡され、自分で組み立てなければならなかった) テレビ放送(全3週)• 第2週…1980年 『爆笑号泣編』 :コロラドスプリングスまで• 第3週…1980年 『栄冠争奪編』 第5回(1981年) [編集 ] 第1問が球場前で発表されるようになった。 アメリカ以外の国であるメキシコに上陸した初めての回である。 大会5周年を記念して近畿日本ツーリストがメキシコ国内3つのCPを進呈したため前期ウルトラクイズの中では最もチェックポイントの多い大会となった。 以後、第6回と第16回を除き、第7回以降はアメリカ以外の国へ上陸することが定着した。 』のゴシック体のスーパーが初登場。 空席待ちクイズ、奇襲クイズ、通せんぼクイズが初登場。 一方、罰ゲームはますます厳しくなり、「72歳の老婦人と強制的に結婚」(ラスベガス)、「」(メキシコシティー)、「のフルコース料理を食べる」(テオティワカン)、「」(フェニックス)、「ゴムボートで川下り」(ノックスビル)などが登場、その厳しさに批判的な意見が新聞(など)の投書欄に出るようになった。 この年から後楽園球場のスクリーンビジョンが「」に変更、そのため、一次予選の正解発表のフレーズ「 オーロラビジョンに聞いてみよう!! 」が定番となった。 また放送最後の口上「 勝てば天国、負ければ地獄…『史上最大! 」がこの回から始まった。 前回のクイズ王・上田由美は本大会不参加のため、「優勝旗返還」は行われなかった。 優勝旗が誕生し、「優勝旗返還」セレモニーが始まって以降、「優勝旗返還」が行われなかったのは、本大会と"今世紀最後"だけである。 前回グアムまで勝ち進んだ第2代クイズ王・北川は第1問目を正解するも途中で失格、一方の第3代クイズ王・宗田は第一次予選突破、宗田はその後も勝ち進んだがハワイで失格、アメリカ本土上陸はならなかった。 準決勝地ノックスビルで行われた「通せんぼクイズ」は前期ウルトラクイズで最も激しい戦いが繰り広げられ、第10回・決勝戦や第13回・準決勝の激戦が行われるまでは大会最大の名勝負と位置付けられていた。 この回より放送が4週に拡大されるが、後述の通り第3週と第4週の間に『』(この年の『』は日本テレビが制作放送権を持っていた)ノミネート中継が編成されたため、1週間が空いての放送となった。 放送継続中に別の特番で中断したのはこの回が唯一である。 放送時には明かされなかったが、この老婦人は俳優であり、実際は強制結婚という体裁のドッキリであった。 なお、当CPで女性挑戦者が敗退した場合、どのような内容になっていたかは不明。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 真木法男(出身・東京都在住・No. 6・24歳) の学生。 番組初の現役大学生クイズ王。 クイズ番組の優勝経験が複数回ある実力者であったが、サイパンでの敗者復活を皮切りにテオティワカンとフェニックスで苦戦しラスト通過、腹痛にも悩まされた末、全大会で唯一となる決勝以外で一度もトップ通過が無かった優勝者となった。 細身の体形と眼鏡をかけていたことから「 メガネカマキリ」と通称された。 優勝した後は「 石油王」の称号がついた。 準優勝 : 杉山 眞(東京都出身・No. 73・32歳) 武蔵工業大学(現・)出身、電気会社勤務。 真木と同様に、クイズ番組の優勝経験が複数回ある実力者だった。 実力派が多かった当大会にあって常時3〜4位前後通過が多く、安定感では真木を上回っていた。 義兄弟で国内予選を通過し(杉山は義弟)、義兄 はハワイまで進出した。 真木とは『』の優勝賞品でヨーロッパ旅行を共にした間柄。 機内1位 : (出身・No. 69・19歳・メンフィスにて敗退) の学生。 「学生クイズ王」として名を馳せており、多くのチェックポイントでトップ通過を繰り返し優勝候補と呼ばれていたが、ラスベガスの3択クイズではラスト通過であり、同じ3択クイズのメンフィスで、に関する問題を多く集めたクイズでライバル(機内2位のの学生)共々敗退した。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• の採掘権 (第10CPエルパソにて発表された。 で贈呈。 しかし掘り当てても獲得配当の割合が微少のため、相当の大鉱脈が当たることを期待するしかない) テレビ放送(全4週)• 第1週…(昭和56年) 『海外大脱出編』 :サイパン・敗者復活戦の前振りまで• 第2週…1981年 『本土上陸大激戦』 :アカプルコまで• 第3週…1981年 『国境突破進撃編』 :エルパソまで• 第4週…1981年 『栄冠争奪大逆転編』 (は『決定!! 第12回入賞者』放送のため1週空いての放送となった) 第6回(1982年) [編集 ] 番組の総合演出が佐藤孝吉から、制作協力の取締役副社長・に交代した事で、審査委員長も佐藤から白井に交代する( - 第10回)。 福留の冒頭のキャッチフレーズ「 ニューヨークへ行きたいかーっ!! 」が初めて使用された回。 後楽園球場の第一次予選で番組のテーマソング『 ウルトラ音頭』(『』の)が披露、『ウルトラ音頭』は準決勝地ワシントンの罰ゲームでも使用されたが、結局この回だけの使用だった。 なお『東京音頭』のは第一次予選のアイキャッチBGMにも使用された。 成田第二次予選ではクイズ(ただしジャンケンで3勝した挑戦者が解答権優先)が行われた。 ルートはアメリカのみだったが、常夏のサイパンから極寒のアラスカへと駒を進めるといった工夫がなされた。 クイズが初登場。 準決勝参加者が5名だった唯一の大会である。 今大会から早押しクイズの(解答権取得・正解・不正解)がからに変更された。 勝ち抜き時の万歳三唱もこの大会から定着する。 また第一次予選第1問正解発表後、放送では福留(福澤)の解説にBGM(主にアメリカ『』 )と解説場面を放送するのが、この回から始まった。 この他、罰ゲームのパートでは手書き風による「罰ゲーム」テロップ が表示さた。 司会の福留が旅の途中でになったこと や、制作費の一部を持った がに襲われ、またそのADが優勝賞品の旅行のロケに同行中に体調を崩し 、帰国後に感染していたことが判明、本人と優勝者らが保健所に行く事態になるなど事件が多発したことから、福留自身「 呪われた回」と述べている。 優勝旗返還が2年ぶりに登場。 前大会クイズ王・真木法男と共に北川宣浩と宗田利八郎も入場、以後「 歴代クイズ王の入場パレード」は恒例となる。 しかし第一次予選では宗田が2年振りに第1問で失格、北川と真木は第1問と第2問は正解するも、第3問目で北川が失格、続く第4問目で真木も失格し、初めてクイズ王全員が第一次予選で失格した。 以後第12回まで歴代クイズ王は第一次予選を突破出来ない事になる。 不正解の場合ジャンケン敗者に解答権移動。 敗者が正解すればジャンケンの勝数に関わらず敗者側が通過。 不正解の場合は両者敗者復活戦に回る。 推理小説の犯人を当てられなかった場合は、小説最後部にある袋綴じを開くことが許され、犯人がわかり次第再度推理小説解答者列の最後尾に並び解答、再度間違えた場合は正解するまで繰り返す。 早押しは1問正解で通過だが、お手つき誤答の場合は待機列最後尾に並ぶ。 なお銀行強盗役は俳優だが、警官役はダラス警察の現役警官による演技だった。 なお全15組中1組のみ3つ子のため、3つ子の1人を選んだ場合3人とも当てられなければ不正解。 早押しクイズ! 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 高橋直樹(出身・No. 59・29歳・機内3位) 父親が経営する事務所勤務。 決勝時点で2児の父。 体重が100キロという巨漢であることから、愛称は「 さん」。 強気な姿勢にもかかわらず準決勝までトップ通過はなく、サイパンの「ウルトラクイズ殺人事件」では好きを活かし犯人を真っ先に当てたものの、続く空席待ちクイズでは誤答のため一旦最後尾に回った結果残り2席の状態で通過、ロサンジェルスでも11人中7番目の通過、バーストーでも開始早々の誤答で解答権のないゴーストに暫く回り、ニューオリンズの双子神経衰弱ではラストで通過するなど苦戦もあった。 結婚式をまだ挙げていなかったため、スタジオで披露宴(ケーキカット)を挙げた。 3年前の第3回でも後楽園予選を通過していたが、成田で敗退している。 この後第8回の後楽園予選ではあと1問残して失格となった (歴代クイズ王が勝ち抜き者決定後に失格となったのは初)。 優勝賞品のから帰った時点で4歳だった娘とウルトラクイズに参加するという夢が、"今世紀最後"で実現した("今世紀最後"にて後述。 なお、娘が生まれたのと相前後してアメリカ横断ウルトラクイズが開始された)。 しかし、高橋は2011年秋に末期のが発覚し、それを自身のブログで公表。 発覚直後より2012年夏頃まで入退院を繰り返していた が、翌2013年に死去。 死去は高橋が当時開設していたホームページ(現在閉鎖)内で親族が公表していた。 準優勝 : 高木 剛(茨城県出身・No. 70・21歳・機内2位) の学生。 都内の大学に通いながらもが抜けないこともあり、愛称は「田舎っぺ」ということから「 カッペ」、準決勝以降は「 」。 コンピュータ予想では常時トップにいて、ロサンジェルスで11人中9位、ニューオリンズで6人中4位だったことを除けば、ダラス、ルイビルでのトップ通過をはじめほとんどのチェックポイントを上位で通過していた。 しかし決勝戦では自滅、ほぼ逆転不可能な状態まで点差が開いた。 翌年の第7回でも後楽園予選を通過するが、成田で敗退。 機内1位 : 石倉由美子(東京都出身・No. 90・25歳・モニュメントバレーにて敗退) 勤務。 女性で初の機内トップ。 モニュメントバレーにて同じ区役所に勤務する女性とともに敗退した。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• 世界一周の旅 (第9CPルイビルにて発表。 途中では無許可撮影でスパイ容疑をかけられ逮捕拘禁された。 その後出国を許されことなきを得たが、このハプニングは放映されなかった) テレビ放送(全4週)• なお「10月7日放送」は歴代で最も早い。 第2週…1982年 『激突・アメリカ本土縦断編』 :ロサンジェルスまで• 第3週…1982年 『ああ西部名勝負編』 :ニューオリンズまで• 第4週…1982年 『心技体激闘の優勝決定戦』 第7回(1983年) [編集 ] 福留が「 歴代ベスト」と評した大会。 参加者が1万人を突破し 、視聴率も歴代で最高を記録した。 敗退後も「あの岩瀬の仲間の」と福留の言葉に登場したほど名前を記憶されていた 岩瀬明彦(東京都出身・No. 7・20歳・レイクパウエルで敗退)をはじめ、番組のムード盛り上げに貢献した挑戦者が複数存在し、多くが終盤、最終週まで勝ち残った。 前回大会における福留の食中毒事件を踏まえ、今大会からサポートアナウンサーが同行するようになり、第8回まではが担当した。 綱引きクイズと ダブルチャンスクイズが初登場。 ルートはアメリカ合衆国本土への上陸の前と途中()でを経由、番組では初めてカナダへ上陸した(正確には、第2回でを訪れているので、カナダ経由は2回目である)。 またアメリカ初のチェックポイントはそれまではグァムかサイパンのどちらかと一定していなかったが、今回よりグァムに固定、同時にクイズも2年ぶりにどろんこクイズが復活、以後第14回・第16回・"今世紀最後" を除いて毎回行われた。 スタジオの電飾ルートのセット形式(CPからCPの丸みのあるフォルム)がこの回より定着する。 全大会で唯一、アメリカ上陸後に急病による脱落者 が発生した。 第一次予選は8月14日に開催、当日はが接近中のため、珍しく悪天候でのスタート、第1問の挑戦者の中にはをさしている人も大勢いた。 この回、それまで再挑戦しなかった初代クイズ王・松尾清三が、当時の参加者上限である45歳になったのを機に初めて再挑戦、優勝旗返還で前回のクイズ王・高橋や、第3代の宗田・第5代の真木と共に入場(第2代の北川は初めて不参加。 また第4代の上田は今回も不参加)、第1問では全員正解したが、続く第2問目で松尾以外の3名は失格、唯一残った松尾も第3問目で失格し、クイズ王は全員敗退した。 また、前年末に開催された『史上最大の敗者復活戦』の優勝者がシード権によりグァム空港から参加したが、合流クイズで機内最下位同点の挑戦者に敗れ敗退した。 2016年7月7日からファミリー劇場にて4週連続で再放送された。 初回放送の翌週に、後追いで再放送するも行われた。 この場合、ジャンケンに3回負けた者が勝ち抜けで3回勝ってしまった者は敗者復活戦に回る。 また、この時成田に来た挑戦者は男女とも50名だったため、全てのジャンケンが「男性」対「女性」の組み合わせで行われた。 キャンセルの問題を凍結席の挑戦者が正解すれば解答席の中から1名を選び、入れ替わる。 なおクイズ開催時の気温は摂氏47度。 決勝戦進出者• クイズ王 : 横田尚(東京都出身・No. 37・25歳・ 機内1位) 南口、現在の前に番組当時あった桂屋(旅館は2007年に撤去され現在は別の店舗となっているが、他の場所で経営を続けているかは不明)の若旦那。 183cmの長身で、コンピュータ予想では常時トップにいたが、グァムの敗者復活戦では残り最後1つに辛くも滑り込んだり、オルバニーでのパラマキクイズでは真っ先に2問正解しながら3問目に苦戦しラスト通過、同クイズでクラシック音楽の問題を誤答した際には、福留から「ばっかり聞いているとこういう事になる」と揶揄された。 本番組以外のクイズ番組の出場経験はない。 決戦前には決戦前夜に食べた食事の献立がアナウンスされた。 優勝決定後はグリニッジ・ビレッジ・ハイスクール・バンドの学生たちによる万歳三唱で讃えられ、うち4人から担ぎ上げられた。 下戸のため、映像では優勝者に与えられるシャンペンに口をつけただけ程度にもかかわらず、その後「急に酔いが回ってきた」と発言。 なお、オルバニーで敗れた当時18歳の女性挑戦者とは遠い親戚同士であったことを後になって知ったと、『アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本』の中で横田自身が明かしている。 準優勝 : 渡辺晶夫(千葉県出身・No. 42・29歳) 勤務のサラリーマン。。 彼もグァムで敗者復活を果たした以外は各チェックポイントのほとんどを上位で通過しており、安定感では横田を上回っていた。 決勝前日には会社の同僚に国際電話をかけ「まだロッカーある? 」と確認していた。 決戦前には決戦前夜に食べた食事の献立がアナウンスされた。 決戦当日は緊張で朝ごはんが喉を通らなかった。 敗者になった時、負けたことよりも、やっとクイズから解放されたという安堵感の方が先立った。 笑顔で横田と握手を交わし勝者を讃えた• その他の参加者 この節のが望まれています。 岩瀬明彦(東京都出身・No. 7・20歳・レイクパウエルで敗退) 優勝賞品• カナダ産 (第9CPセントルイスで発表される。 カナダ西部ので贈呈。 材木と建築技術のみで土地も与えられず、自身が別途購入した土地に自分でを切って組み立てなければならなかった) テレビ放送(全4週)• 第1週…(昭和58年)『海外大脱走編』 :グァム・ドロンコクイズ数名挑戦まで• 第2週…1983年10月27日『快汗爆笑涙編』 :ジャスパーまで• 第3週…1983年『地獄の西部スパルタ編』 :セントルイスまで• 第4週…1983年『栄冠争奪激突編』 第8回(1984年) [編集 ] 初めて全都道府県から参加者が集まった。 今大会から第一次予選での敗者復活戦が行われるようになった。 予選の段階での優勝賞品発表が唯一行われた大会でもある。 大学生のクイズ研究会の進出が、今大会から本格的に始まった。 社会人・主婦は最終週まで二人が勝ち残っていたが、主婦はキーウエスト、社会人はバハマで準決勝進出者の一人 に敗れて散っている。 大声クイズと ()クイズ初登場。 準々決勝ではに上陸し、「クイズ史上初」 と銘打たれ、当時の最新鋭の技術を駆使した海底クイズが実施された。 で決勝戦を行った最後の大会である。 放送は第1週のみ、『』を休止して初の2時間枠で放送、以後は通常の90分枠で放送された。 2017年からファミリー劇場で再放送が行われた (2016年に放送された第7回同様方式を本番組においても採用)。 クイズ王 : 石橋史行(東京都出身・No. 63・27歳・機内2位) の学生。 クイズ番組の優勝経験を複数回持つ実力者で、第4回から後楽園予選に参加しており、5回目で予選通過を果たす。 歴代クイズ王の中では最も危なげなく各チェックポイントを勝ち抜け、グアムでの奇襲クイズは寝起きながら余裕を持って解答し一発勝利、ゲストクイズや体力系のクイズも余裕を持って上位通過を果たした。 準決勝フィラデルフィアでは最初に通過クイズに挑戦するも失敗、苦戦するが別の挑戦者 の通過クイズ誤答、宍戸の通過後二度目の通過クイズ阻止を狙った挑戦者のニアピン的な誤答 によって通過クイズの権利が持ちこされ、この二問目で決勝進出を決めた。 なお優勝決定後の「凱旋入場」で、彼について福留は「決勝戦で、画面向かって右の解答者が優勝したのは初」と述べたが、これは間違いで、「2人目」が正しい(初は2代・北川)。 準優勝 : 宍戸浩明(福島県出身・東京都在住・No. 5・22歳・機内3位) の学生。 石橋とはクイズを通して知り合った友人同士で、第5回から後楽園予選に一緒に参加していた。 ラピッドシティーではラスト通過だったものの、他は石橋と各チェックポイントのトップ通過を競い合っていた。 準決勝フィラデルフィアでは通過クイズ二度目で一抜けを果たした。 オリンピックに造詣が深く、1992年(平成4年)のNHK『クイズ難問即答』のオリンピック編で優勝し、その後2017年末のNHK第一のラジオ特番のオリンピックのコーナーにも出演した。 機内1位 : 道蔦岳史(神奈川県出身・東京都在住・No. 28・22歳・ハワイにて敗退 ) 第5回に続き2度目の機内1位を達成するが、ハワイの綱引きクイズでは解答権を取ることなく敗退した。 現在はクイズ作家(今世紀最後ではクイズ作家のひとりに名を連ねた)。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• 高級 (第一次予選で発表された。 マイアミで贈呈。 部品の状態で渡され、自分で組み立てなければならず、しかもエンジンを自前で調達しなければならなかった) テレビ放送(全4週)• 第2週…1984年『汗激突絶叫編』 :リノまで• 第3週…1984年『大陸強行突破編』 :インディアナポリスまで• 第4週…1984年『今夜日本一クイズ王決定編』 第9回(1985年) [編集 ] 当時のパリ市長の招致で今大会はパリが決勝地になり、ニューヨークは北米大陸最後のチェックポイント となっていた。 それに伴い第1問もパリのである関連の問題が出題された。 それまで例年第二次まで行われた予選は、「敗者の味方」徳光の提案により第二次予選が全員通過。 全員第1CPに行けると思われたところで、突如として第三次予選が出現し、結局は例年通りジャンケンで第1CP進出が決まった。 アメリカ横断後、を越え、ヨーロッパの、に上陸。 チェックポイントの数も増加し、1人が通過するチェックポイント数は17と歴代最多、ニューヨークに到達した挑戦者および男性の人数が最も多い(7人、うち5人が男性。 女性の2名は第4回大会と並ぶ最多タイ)回でもあり、これまで以上にスケールの大きい大会となった。 団体戦クイズが初登場。 また、歴代では唯一アメリカ西海岸の2大都市・との双方に行った回であり、ニューヨークのクイズ会場がパンナムビル以外となった初めての回でもあった。 この回から、成田や一部のCPでの「敗者復活戦」で復活出来た挑戦者に、「 敗者復活タスキ」というを装着する様になった。 この襷は敗者復活戦が一切行われなかった第15回を除き、最後まで使用された。 また手書き風ロゴでの「 失格!! 」というテロップが使われる様になったのもこの回から。 随所のハプニングが演出であることをカミングアウトするなど開き直った展開、機内ペーパークイズのベスト3が本土上陸前に全員敗退(1、2位はハワイで、3位はグァムで敗退)し、本土上陸後最年長挑戦者(アナポリスの時点で次に年長の挑戦者より10歳年上の34歳)かつ正解率トップを誇り優勝最有力と目され、特にナッシュビル以降アナポリスで金子に次ぐ2位だった以外ニューヨークまで全てトップ通過していた女性が、ロンドンで方向音痴だったため迷路から解答席に1度しか戻れず 敗退するなど波乱含みの大会となった。 番組制作サイドは常々「知力・体力・時の運」を銘打っており、第4週エンディングのナレーションでは、クイズ番組で活躍を重ねる人でなくても勝てることが強調された。 5 奈良県出身 19歳)と共に出演した際、勤務先だったの企業から解雇されていたことを公表、一方で石川アナが、伊澤を雇いたいという問い合わせが日本テレビに多数あったことを併せて公表していた。 第9回の決勝戦は、第10回までの最長の収録時間で、挑戦者が誤答を連発してなかなか決着しなかったため、優勝決定時には既に日が陰っていたという。 この年の10月より直前のアニメ枠が廃枠されたのに伴い、『木曜スペシャル』が2時間枠に拡大されたため、第11回まで毎回2時間枠で放送された。 当初10名敗者復活となっていたが、解答権のある挑戦者が1組キャンセルが出たため1名分減らされた。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 金子孝雄(東京都出身・No. 73・20歳・機内31位) クイズ研究会所属。 同研究会全員でウルトラクイズに参加することになったため参加したものの、大半の参加者が間違えた第一次予選の3問目で「うっかりしていて、みんなとはぐれてしまい」、結果勝ち残ることとなる。 愛称は、顔が似ていることから「 」、ヨセミテの大声クイズでの絶叫フレーズも林真理子にされた。 優勝時の年齢が歴代最年少。 成田ではじゃんけんに1度も勝てず敗退するも、「お母様が梅干しや目覚まし時計やインスタントラーメンを作る電熱器まで詰めてくれた」ため、荷物が重い方から順に解答席につけるという敗者復活戦ルールが幸いし、敗者復活 (を経験した初の優勝者となる)、アルバカーキのバラマキクイズではハズレを何度も引き当てた結果、背後に次の回答者 後楽園の敗者復活者。 ロサンゼルスの3択クイズでは「昔からテレビばかり見ていた(中略)テレビっ子のぼくにはピッタリの問題」だったこともあり同率でトップ通過、アナポリスでは本人曰く「ファミコンで指先を鍛えてあった」ことが幸いし早々にトップ通過 などもあったものの、福留からはそのアナポリス以外は「超低空飛行」「運が彼をパリまで連れて来た」と評され、ロンドンで「『』の悲劇の舞台で、ロンドンの海の玄関口ともなっている港は? 」という問題に「」と解答した際には(正解は)福留に頭を押さえつけられながら叱られたり、スタッフからも「今年は知力には期待してない、体力でがんばってくれ」と言われていた。 優勝後には「 やりました、お母様! 勝ってしまいました! 」と叫び、トロカデロ広場の噴水に入り喜びを表したが、噴水に入ったのはスタッフに促されたためで、本人は嫌だったが仕方なく入ったとのこと。 本放送のスタジオ収録で優勝者紹介の際には、「お母様」と父も出演した。 第9回本放送終了の翌週の『』に福留と共に出演し(ただし新聞には記載なし)、との早押し対決が企画された(実際の早押しハットやテーブルなどの機材を持ち込んでの3問勝負。 結果は金子は誤答し、近藤が1問正解で勝利)。 準優勝 : 長谷川威夫(東京都出身・No. 77・23歳・機内10位) リクルートフロムエー(現リクルートジョブズ)の。 勤務先が発行していた「週刊就職情報」の名前が記載された法被(別の機会には「」の名前入りTシャツを着用)姿でクイズに臨むなどしていたこともあり、同誌ののキャッチフレーズ「ヤリガイ満々」から「 ヤリガイ」「 バカガイ」と呼ばれていた。 グァム・ハワイと2度連続で敗者復活。 特に2択3択の選択問題に強かった。 一方で体力系のクイズではアルバカーキでは思考力が鈍って、「の料理、にヒントを得て日本で始められたのは何料理? 機内1位 : 永田研自(出身・神奈川県在住・No. 8・19歳・ハワイにて敗退) 早稲田大学の学生で、同大学のクイズ研究会所属。 ハワイで後にオーランドまで勝ち残った挑戦者に敗退。 ハワイでは機内2位の東大の学生も社会人挑戦者 運輸省職員、第8・11回ではグァムで敗退している に敗北したほか、機内3位の男性もグァムで敗退し、機内ベスト3全員がアメリカ本土に上陸できなかった。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• 1人乗り小型 (サイパンで贈呈。 性能諸元:全長:2. 初名はウルトラ9号、金子が優勝時に叫んだ言葉から「 お母さまヤッタ号」と命名。 「ウェット型」という形式で潜水艦内部に水が入ってくるため乗員は等の潜水具が必要になる。 エンディングではほとんど罰ゲームのような優勝賞品と言われた。 金子は、パリで噴水に入ったため台無しになったスーツの代わりに「お母様」が新調してくれたスーツでこれに乗り込んだが、再び濡れて台無しにすることとなった。 翌年の第10回の優勝旗返還にも登場した。 ) テレビ放送(全4週)• 第1週…(昭和60年)『嵐呼ぶ3万キロ大旅行いざ出陣編』 :グァムまで• 第2週…1985年『泣き笑い脱線上陸編』 :ラスベガスまで• 第3週…1985年『大陸イッキ暴走編』 :アトランティックシティまで• 第4週…1985年『栄光のパリ大決戦』 第10回(1986年) [編集 ] 10周年 記念大会となった今大会は、後楽園球場での第1問出題前に、同年7月4日に100周年を迎えた自由の女神像への万歳三唱で始められた。 飛行機を2機用意して日本で第1チェックポイントが行われたり(うち1機には徳光が同乗)、途中から1本のルートが北米コースと南米コースに分岐され、それぞれのチャンピオンがニューヨークで合流するという初の試みが取り入れられた。 またスタジオパートでも「電飾ルート」の南北分断部分は「」のセットで覆い、視聴者や観客には秘密にさせる(アトランタまで)演出をとらせた。 総移動距離5万キロは第12回に次いで2番目、総チェックポイント数18は歴代大会で最も多い(1人が通過するチェックポイントは15で歴代3位)。 福留が担当する北米ルートは通称「 組ルート」と呼ばれ、や、上などでクイズが行われた。 チェックポイントはアメリカ合衆国のみだが、クイズの無い日にはバハマも訪れている。 なお、南米ルート第14チェックポイントは最初、北米第14チェックポイントのに対してで行われる予定だったが、当日、現地がなどコンディション不良だったなどのこともあって、に変更された。 全大会で唯一、第二次予選が「 」で行われ、機内ペーパークイズが2機で同時に行われた。 ロサンゼルス、アトランタではギャラリーの雑音・騒音に恐怖して敗者になる挑戦者が出、エルパソでは焦りから作戦をミスした挑戦者が敗退するなど、精神的なタフさが勝負を分けた戦いが多かった。 中盤戦のモニュメントバレー、エルパソ、ダラスは3連続で体力クイズ が続き、体力面のタフさも求められた。 女性最後の1人の挑戦者が最終週を待たずに敗退して全滅するなど、この頃から女性挑戦者の弱体化が目立ちはじめるようになった。 今大会と翌年の第11回では・の前で決勝戦が行われた。 前年とは一変して機内ペーパークイズの上位5名が全員本土上陸を果たした。 決勝戦では実力者同士の激戦が繰り広げられ、第5回・第13回の準決勝と並ぶ名勝負とされている。 今大会はのに全4回とも保存されていて視聴可能。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : (出身・東京都在住・No. 20歳でのチャンピオンとなって以来、、など、ウルトラクイズ優勝前に計8つのクイズ番組を制覇していた実力者。 モハーベ砂漠の三択クイズではラスト通過、回答権が大声組の後となる念力組に回ったロサンゼルスでは15人中9番目の通過、ダラスのばらまきクイズでも10人中8番目の通過と苦戦したが、モニュメントバレーでのトップ通過など、早押しクイズでは常に上位で通過し、アトランタでもトップで通過、そのアトランタでルートの南北分けを選択する際、同地がにおける側であったことから「南行かなきゃどこ行くのよ? 」と南米行きを選択したものの 、ボリビアでは風邪をひき、39度近い高熱と腹痛、に伴う頭痛などに苦しみ、南米ルートの他の挑戦者がサポートを行った。 これによって挑戦者間の連帯感が強まり、準決勝では挑戦者間で「 お互い全力を尽くして、勝者を南米ルート代表として快く送り出そう」「 南の方から優勝者を出そう」という約束が交わされた。 しかしそこから5ポイント連取(1問キャンセルを挟む)で南米ルートを制し、勝利を祝うサンバ隊からキスの嵐による祝福を受けた。 なお北米ルートとの合流前、南米ルートスタッフ全員から手厚い激励を受けたという。 優勝した際に、南米に同行した同い年の日高アナウンサーと抱擁し喜び合い、森田が飲み残した勝利のを日高が森田の頭からかけ手荒い祝福をする姿や、福留から自由の女神に向けて何か一言と問われ「愛してます」と言う様子も放送された。 優勝直後にクイズ引退を表明するが、後スタジオでV2宣言をして撤回。 福留からは「 10年目にふさわしい実力派のクイズ王」と評された。 しかし第11回以降は後楽園・ドーム予選を突破できなかった。 準優勝 : 西沢泰生(神奈川県出身・東京都在住・No. 14歳でウルトラクイズ第1回の放送を見て衝撃を受け、18歳からクイズ番組に挑戦、、など数多くのクイズ番組を制覇した、森田同様のクイズの実力者。 福留からは、その見た目から「 とっちゃん坊や」と呼ばれた。 「 勝負は何でも勝たなければ駄目。 人に好かれる人物は絶対に勝てない。 」という哲学の持ち主。 機内の成績は、森田とはわずか1点差であった。 ロサンゼルスではトップ通過、エルパソでは森田に次ぐ3位通過。 アトランタで再び森田に次ぐ2位で通過した際、「に行きたいので」と北米を選択したが、その際福留から「ひょっとすると森田を避けたか? 」とコメントされた。 帰国後、スタジオで「 永遠に縮まらない2ポイント」と語っている。 優勝賞品贈呈に際して「もう本当に二度とクイズに出るなョ」とマジックで書いた水色のTシャツを森田に送った。 準優勝ではあるが、第11回大会では「北米チャンピオン」という肩書きで紹介され、(「第1回FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦! 」でも当大会での最終成績として紹介された)北米ルート決勝を戦った挑戦者と共闘して後楽園を突破したが、成田予選は辞退している。 現在もクイズサークルに所属しており、会社員のかたわら執筆活動も行っている。 機内総合1位 : 山本道夫(茨城県出身・No. 25・35歳・南米ルート・リオデジャネイロにて敗退) 結城病院勤務で、成田空港以降クイズの際には病院名が記されたシャツを頻繁に着用していた。 第二次予選の腕ズモウで敗退したものの「敗者復活なぞなぞ団体戦」で、同グループにいた挑戦者が正解し敗者復活。 南米ルートでは決勝リオデジャネイロまで進出するが、森田に徹底マークされ減点の集中攻撃を受けたために1問も正解することが出来ず最初に敗退が決まった(唯一解答権をとった問題は不正解だった。 なお、機内1位の挑戦者で唯一準決勝での敗退となった)。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• (アルバカーキで贈呈。 アメリカ製3人乗りガスボンベ付きの本格派で、ウルトラクイズのロゴの入ったバーナー付。 本人は「これで東京に帰りたい」と飛び立ったが、ゴンドラからは「 南米直行」の垂れ幕がぶら下がるというオチがついた) テレビ放送(全4週)• 第1週…(昭和61年)10月30日『日本脱出大作戦』 :グァムまで• 第2週…1986年11月6日『米本土上陸作戦』 :モニュメントバレーまで• 第3週…1986年11月13日『天国地獄大合戦』 :南米ラパス・北米オーランドまで• 第4週…1986年『南北激突決勝戦』 第11回(1987年) [編集 ] 後楽園球場での第一次予選及びが制作協力に携わった最後の大会であった。 福留が引退を宣言するが、敗者の味方・と総合司会のの説得により宣言は保留され、結果的には翌年も登場しているため事実上の撤回となった。 また大会審査委員長が、テレビマンユニオンのから日本テレビプロデューサーの高橋靖二に交代した。 この回、当時の上限である45歳の参加者を集めた「 敬老団」が登場、通常では数問正解しないと踏めないグラウンドを最初から踏んで参加、高島も「敬老団」の添乗員的な扱いとして参加した。 「優勝旗返還」では前回のクイズ王・森田敬和、そして第2回・第5〜9回のクイズ王がトラックに積まれた早押しテーブルと共に入場 、その後高橋委員長に優勝旗を返還した森田と共に、歴代クイズ王による早押しが行われ、挑戦者を唸らせた。 しかし森田を含む歴代クイズ王と高島は、いきなり第1問で全員失格となった(クイズ王が第1問目で全員失格は史上初)。 敬老団も大半が第1問で敗退した。 成田へ行く前に(現・)の久伊豆神社(正式な読み方は「ひさいず神社」だが番組中では「クイズ神社」と呼ばれていた)で第二次予選を、また敗者復活戦を名古屋近郊()でそれぞれ行った。 このため、成田での予選は今大会に限り第三次予選となった。 今大会も成田からの飛行機を勝者機と敗者機との2機を用意し、勝者機はそのままグァムに直行して機内で400問ペーパークイズを実施したが、敗者機の方では単なる敗者復活と銘打たず、 敗者復活 名古屋縦断ミニトラクイズ と称するなど、日本国内からグァムに至るまでの行程において一工夫が施された。 敗者復活戦には第二次予選での敗者も参加した。 また、成田での第三次予選に際しては挑戦者代表に 柳井秀人(No. 87、マイアミで敗退) が予選方式(ジャンケンか腕ズモウか)の決定の鍵を握る存在として登場し、日高直人と腕ズモウを行うが、敗北したという趣向もあった。 大陸上陸後では、途中のチェックポイントを免除できるルールが採用 、その部分はスタジオパートでも前年に引き続き伏せたが、今回は「」のセットを使用した。 ルート中盤では第5回以来6年ぶりにメキシコに上陸し、を経由。 タイムショッククイズ(タイムレース)が初登場。 ベスト8にグァム泥んこ復活組が4人 、ハワイ敗者復活、後楽園敗者復活、名古屋敗者復活組が1人ずつランクインするなど敗者復活者が健闘し、上位5名は全員敗者復活者であった。 準決勝では第1回クイズ王・松尾清三との対決クイズが行われた結果、全大会で唯一3名が決勝戦に進出した。 準決勝会場がをはさみマンハッタン対岸のであったため、ニューヨークが決勝会場でなかった第9回大会を除けば、決勝進出者以外の参加者がマンハッタン島を見ることが出来た唯一の大会でもあり、準決勝と決勝戦が同日に収録された大会でもあった。 またこの回から、決勝戦開始前名物の「ニューヨーク上空の飛行シーン」には、挑戦者の今大会のハイライトシーンがインサートされる様になった。 決勝戦終了後の「クイズ王の凱旋スタジオ入場」は、クイズ王・稲川だけ入場、他の決勝戦参加の2名や準決勝敗者、そして稲川の親族は入場しなかった("今世紀最後"を除けば唯一)。 2016年5月は4日連続)。 ここの敗者は名古屋の敗者復活戦に回る。 凶の3名は第1CP:機内ペーパークイズまでの段階で全滅した。 結果復活組3名が通過し、宴会の果てた直後を狙われた勝者側は1問も解答権を得ることなく敗退(押した者はいたが押し負けた)。 弾の入っていない戦車を指定すると「ハズレ」と書かれた小さな旗が掲げられた。 通過者が出た場合は再度指名権を争う早押しクイズから再開。 [ 要出典]• 結果、通過を果たしたのは3名だった。 決勝戦進出者・敗者機1位• クイズ王 : (岐阜県出身・大阪府在住・No. 94・25歳・ 機内総合1位) 立命館大学出身、勤務。 立命館大学クイズ研究会(正式名称「立命館大学クイズソサエティ」・通称RUQS)の設立者にして初代会長。 「」「」優勝経験あり。 ウルトラクイズには第5回で初参加し、第7回からはRUQSを引き連れて後楽園予選に出場していた。 出場前に申請していたは6日、それを遥かに超え、上司から「君の将来に良くない」と言い渡されるなど、会社を解雇されるかも知れないという状況の中で当大会に臨んだ成田で敗退したが、「名古屋縦断ミニトラクイズ」では真っ先に正解し敗者復活に挑戦を開始、復活条件の2,000発を大きく上回る3,499発を叩き出し、敗者機内での400問ペーパークイズで勝者機を含めた総合1位を獲得、グァム深夜トレードクイズで2抜けと四連勝し敗者復活・合流を果たした。 中盤ではバッドランドでの一足飛びクイズに勝利しリンカーンをスルー。 優勝を果たした後は、優勝者へのシャンパンを飲みかけた残りを自ら頭に被り、その後リバティ島から海()に飛び込み、喜びを表現した。 カンクンでの日の出タイムショッククイズなど早押しクイズでは他を圧倒し、バッドランドの一足飛びクイズやワシントンでのクイズサミットなどでは勝負師に徹して早々に勝ち抜けを決めていたが、その反面、決勝戦での重要な局面など的外れな解答 をすることも多かった。 なお、一般企業の社員で決勝進出を果たした挑戦者は数名いるが、優勝を果たしたのは稲川だけである。 パームスプリングスでの「強風かけこみ大声クイズ」で絶叫する言葉を「 辞表覚悟」にされていたように、稲川は帰国後、解雇されているものと思いながら出社したところ、上司の配慮により解雇されてはおらず、日本テレビも、優勝後のスタジオ収録の際に石川が「(勤務先の)名を世に知らしめたことを広告費用に換算すると数億円に上る」と述べたり、福留も「大変な営業マンだと思いますよ」と稲川を擁護した(ただし稲川は翌1988年には凸版印刷を退職している)。 2年後の第13回でも国内予選を突破するが、この時はグァムで敗退、敗者復活逆ドロンコクイズでも敗れて敗退している。 後年「」や「」に常連で出場。 現在は地元岐阜のイベント会社に勤務。 準優勝 : 山賀恵美子((現・)出身・No. 86・20歳・機内総合6位(勝者機5位)) 7年ぶりの女性決勝戦進出者。 2年生だったため、ニックネーム、および大声クイズの絶叫フレーズは「 青短」。 グァムで敗者復活。 この年の上位進出を果たした彼女と他の女性2名と合わせて「 三人娘」と呼ばれ、放送当時は番組視聴者の間で非常に人気があった。 参加中に短大の同級生が全員就職先を決めたことを知り、焦りを隠せなかった。 リンカーンでは 温井和佳奈(東京都出身、No. 52、19歳・リンカーンで敗退)との三人娘対決 の末にラスト抜けを果たした。 歴代最後の女性決勝進出者。 決勝では一問だけ正解することができ、その際にはグリニッジ・ビレッジ・ハイスクール・バンドの学生たちから歓声があがった。 第3位 : 高橋充成(神奈川県出身・No. 22・21歳・機内総合8位(勝者機7位)) 電気工学科4年生で、同大学のクイズ研究会元会長。 ハワイで敗者復活。 クールかつ、福留に「旅の間、いつもウンチングスタイルで座っている孤独な高橋」「声を出すのはクイズに答える時だけ」と評されたほどの無口で、和気藹々としていた第11回の挑戦者の中にあって孤独なキャラクターだが、久伊豆神社に奉納した絵馬には「勝つ」と9つも書いていた。 ととが苦手なことが愛称となり、パームスプリングスでの大声クイズの絶叫フレーズとして取り上げられた。 バッドランドでの一足飛びクイズでトップ通過しリンカーンをスルー。 マイアミ、ワシントンD. でもトップ通過。 後年「」に出場、11問正解という成績を残している。 勝者機1位(機内総合2位): 高橋麻里子(東京都出身・No. 68・19歳・カンクンにて敗退) 2年生で前述の「三人娘」の1名。 グァムでは強制送還を恐れてなかなかブーブーゲートをくぐれず、ステップを団扇の柄でツンツンとつつく、指で押すなどした後、思いきって飛び降りたところ通過。 この時は「機内1位」と紹介され、泥んこクイズでの敗退時には「実力No. 1、今散ってしまいました」とアナウンスされたが、稲川が成績で上回ったため放送の泥んこクイズ挑戦のテロップでは「機内女性1位」と紹介され、以降「機内女性1位」で定着したが、そのグァムで敗者復活した。 のファンだったため、中畑のキャッチフレーズ「絶好調」にちなみ「 絶好調娘」と呼ばれ、パームスプリングスでの絶叫フレーズも「 絶好調」、他の挑戦者からは、「 チャリンコ姉ちゃん」略して「 チャーリー」とも呼ばれていた。 リンカーンではトップ通過、パームスプリングスでも2番目に通過するなどした一方、デビルスタワーのバラまきクイズはラスト通過、チチェンイツァでも通過者7人中6番目と出入りが激しかった。 最終的に、カンクンで序盤に連発した早とちりの誤答が最後まで尾を引き-1ポイント、全く解答できず0ポイントだった挑戦者に1ポイント及ばず敗退した。 その他の参加者 この節のが望まれています。 温井和佳奈(東京都出身・No. 52・19歳・リンカーンにて敗退) 「三人娘」の1人。 剣道2段の腕前を持ちながら、在学中は剣道部キャプテンを務めた。 大会参加時は勤務、現在IT関連会社の女性取締役でもある。 矢野由利子(神奈川県出身・No. 55・ロサンゼルスにて敗退) リビング・コンピュータ勤務。 当時にとして派遣されていた。 フジテレビの許可を得て他局製作のこの番組に出場し、予選を突破し、アメリカ本土上陸を達成しロサンゼルスまで進出した。 優勝賞品• カナダ東部の沖に浮かぶ (カンクンでクイズ前に発表された。 最初は通常の島に上陸して味噌汁を作って食べたりしたが、実際の賞品として贈られた島は、その島の隣にある岩礁で、満潮時には畳一畳分を残して水没してしまう。 干潮時は最初に上陸した島と岩礁の間を歩いて行き来ができる。 稲川が名古屋のパチンコで敗者復活したことから「 パチンコ島」と命名して、敗者復活のタスキをこの地に埋めて記念とした。 放送最後は雨の中岩礁に取り残されるというほとんど罰ゲームのような終わり方をした。 稲川のによれば、実際には最初に上陸した島も含めて賞品として貰えたという。 現在も稲川はこの島を所有している)。 テレビ放送(全4週)• 第1週…(昭和62年)11月5日『日本脱出民族大移動編』 :グァム・深夜トレード早押しクイズまで• 第2週…1987年『青息吐息・西海岸漂着編』 :パームスプリングスまで• 第3週…1987年『国境突破一万キロ進軍編』 :カンクンまで• 第4週…1987年『最終回NY決勝戦』 第12回(1988年) [編集 ] 「」最後の放送、高島と石川のコンビによるスタジオパートとコンピュータ敗者予想(同年の担当はこのコーナー唯一の女子アナ担当者ともなった、同年の新人アナウンサーだった)最後の回。 また同年4月、平日19:00に帯情報番組『』が設置されたのに伴い、『木曜スペシャル』は再び90分枠に戻ったため、全て90分枠で5週に分けて放送された(オール90分枠はこれが最後)。 なお第2週放送の11月10日では、直前の『追跡』でも宣伝を兼ねた特集「ウルトラクイズうらのうら」が放送された。 参加資格年齢の上限が45歳から50歳に引き上げられ、第一次予選が初めて東京ドーム(同年3月にこけら落とし)にて行われた。 敗者の味方が徳光から へと交代し、徳光は初めて一般挑戦者として出場した(第一問で敗退)。 また、第1回クイズ王の松尾も50歳になったのを機に5年ぶりの出場となったが、第4問目で敗退した。 この年から福留は徳光の後任として、『』2代目司会者に就任。 福留はズームイン司会就任が決定した際に上層部に本番組と『』はどうするのかと問いただしたら双方続投と言われあ然とした。 福留が本番組とズームイン司会を掛け持ちとなった為に、本大会から当番組ロケ期間中はズームインの正規の司会者不在という事になり、この間は系列局のキャスター等が司会を代行して、正規の司会者の福留は1ヶ月ズームインを離れることになる。 第13回、第14回も同様。 のバローからのフェゴ島まで南北アメリカ大陸を縦断し、アメリカ本土(フロリダ半島)へ再上陸。 総移動距離55,000kmという歴代で最も距離の長いルートを辿った。 南米ではブラジルとを経由した。 収録期間中に昭和天皇の病状が悪化したため、勝ち抜け時のバンザイがなくなり健闘を称える拍手に変わった時期がある(サンフランシスコ〜モハーベ砂漠)。 決勝戦は今大会からイースト川を航行する遊覧船「 プリンセス号」の船上で行われるナイター決勝となった。 機内1位の挑戦者がアメリカ大陸上陸を果たせず敗北し、第8回でもアメリカ大陸上陸を果たした2名が再度の本土上陸を果たしたり 、成田・バロー・フェゴ島と3度敗退するも、いずれも敗者復活で復活した 酒井敦子(東京都出身・No. 12・ワシントンDCで敗退) など女性が3名南米上陸し、本土上陸後のトップ通過者の顔ぶれが固定されておらず 、実力伯仲の戦いが続いた。 一方で年長者、若年者は不振であり 、20代の社会人挑戦者 が中心となった。 福留が挑戦者に対して説教をするシーンが多いのもこの回の特徴。 今大会はと、にで再放送され(2015年1月には、再放送がひと月に2度行われた)、オリジナル番組「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」(全3回)も併せて放送された(2014年8月の第12回再放送では「丸秘証言集」の放送は無し)。 主催の「2014」にて、上記の「史上最大! 他方の1名はヘリコプターに乗って再びアラスカ鉄道へと合流。 2か3か12は負けとなり、解答席に戻る(他の合計目の場合はサイコロを振り直し)。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 瀬間康仁(出身・大阪府在住・No. 1・24歳・機内4位) 立命館大学の学生で、RUQS4代目会長。 趣味はで、当大会参加前までに63回も行ったというその数の多さから、イグアスの大声クイズで叫ぶ言葉も「 何があっても献血」になった。 第一次予選では最後の問題で敗れたが、補欠繰上げ にて第二次予選に参加。 成田空港で「 これに勝ったら人生捨てます」と発言、公務員試験を捨てての挑戦だった(後年に改めて公務員試験を受験し、合格後に群馬県職員となり、群馬県庁に勤務していた)。 アラスカ鉄道ニナーナ(ネナナ)駅(第8回の準決勝進出者 に競り勝った)とブエノスアイレスではに苦戦したこともありラスト通過となり、モハーベ砂漠ではハズレを2回引き苦戦したが、サンフランシスコ、イグアス、フェゴ島などでは上位通過を果たし、ゲインズビル以降は全てトップ通過。 ゲインズビルでは、その前のチェックポイントまでの時点で正答率において瀬間を上回り1位だった挑戦者が、の予想を何度も外し敗退。 準決勝では二度目の本土上陸となる挑戦者から露骨にライバル意識を剥き出され 追随した大江からもプレッシャーを受けるも、これを退け通過クイズを一回で通過。 決勝戦はを着て臨んだ。 2年前の第10回の第一次予選も突破していたが、第二次予選の腕ズモウにて左利きであった瀬間は、右利きの相手と逆手で対戦し(利き手が異なる同士の対戦の場合、対戦前にじゃんけんをし勝った方が使用する腕を選べたため)、敗退した経歴がある。 土産を買うならニューヨークでと心に決め、途中のチェックポイントで一切土産を買わなかった。 近年(2018年)では練馬放送の「カメちゃんのザクザク雑学」(フェゴ島で敗退した平田由佳がパーソナリティーを務める)という番組に月一回「せまちゃんの酔いどれラジオ」のコーナーで準レギュラーとして出演している。 同局「TheRadioGrantHeights」での投稿ラジオネーム「謎の群馬県人」から、群馬さんとも呼ばれている。 準優勝 : 大江成人(千葉県出身・No. 69・22歳・機内2位) 早稲田大学の学生。 アラスカ鉄道でのクイズの誤答から、あだ名は「 ババピー」。 道中の酒の席で、その誤答を女性解答者にからかわれ、酔った勢いもあって首に手を掛けたり、イグアスの大滝びクイズではフレーズが「ババピー」となった(回想シーンも放送された)。 本土上陸当初は中、下位での通過が多く、ラスベガスの早押しクイズでは振り直しの末後ろ向きでを振りラスト通過だったが、トップ通過したサンパウロ以降はフェゴ島でラスト通過となった以外上位通過が多かった(特にフェゴ島では、自身の他人に対する優しさから自身が危機に陥る場面があり、フェゴ島通過の際も勝ち抜いたが葛藤から涙を流す場面があった。 その心情もあり、決勝まで勝ち上がった際には決勝の紹介では福留から「 彼ほど、この旅で逞しくなった男は過去に見当たりません」と評された)。 準決勝では瀬間の勝ち抜け後、通過席に立った挑戦者を阻止してチャンスを掴み通過クイズに進出、一問タイムオーバー となった後の二問目で先に阻止した挑戦者との早押し対決に押し勝って決勝に進出した。 第5週エンディングは自由の女神を見上げる彼の姿で締めになった。 のちに、この旅で出会った(前述のフェゴ島通過の際には直接対決で一旦は倒した相手でもある)酒井敦子と結婚。 機内1位 : 岩隈政信(東京都出身・No. 26・21歳・グァムにて敗退) 早稲田大学の学生で、同大学のクイズ研究会所属。 グァムのドロンコクイズで誤答して敗退 なお、機内トップの挑戦者がドロンコクイズで敗退となったのは第4回の北川と岩隈の2名のみ。 のちに日本テレビ報道局に所属。 「第2回」では準決勝で真っ先にリーチかけるもの猛烈な追い上げの前に決勝進出を逃した戦歴がある(「今だから話せるウルトラクイズ 秘 証言集「第12回に出演した皆様の巻」にてクイズ王の瀬間は「どろんこクイズ」で機内一位の岩隈が脱落した時点で自身が優勝できると思ったと語った)。 その他の参加者 この節のが望まれています。 酒井敦子(東京都出身・No. 12・ワシントンDCで敗退) 不動産会社勤務。 成田・バロー・フェゴ島と3度敗退するも、いずれも敗者復活で復活した女性参加者。 アラスカ鉄道では、2ポイント差がついた状態から3ポイント連取するという大逆転でのラスト抜け、パシフィカではトップ通過、イグアス、フェゴ島では女性対決を制してのラスト抜け、復活と、見せ場が多かった。 ワシントンDCではアメリカ合衆国50州の名前をほとんど知らなかった為、クイズに集中できずに敗退。 ベスト4進出にはならなかった。 優勝賞品• セット一式 (フェゴ島で発表された。 ので贈呈。 同時に2日間のトレーニングでインストラクター技術も伝授された。 「バイオマリンスポーツ」とは1頭の力によって引かれる「ホースウォータースキー」のこと。 馬も賞品に含まれる。 賞品地レポーターは小倉淳が務めた) テレビ放送(全5週)• 第1週…(昭和63年)11月3日『地球大縦断編』 :グァム・ドロンコクイズ数名挑戦まで• 第2週…1988年11月10日『気温差40度編』 :アラスカ鉄道まで• 第3週…1988年『西海岸南進編』 :モハーベ砂漠まで• 第4週…1988年『地球大縦断達成編』 :フェゴ島まで• 第5週…1988年『栄光の地球大制覇編』 第5週目の「12月1日」放送は歴代で最も遅く、「12月放送」も唯一(いずれも『史上最大の敗者復活戦』を除く)。 第13回(1989年) [編集 ] 「」初の放送。 第1回から続いたスタジオパートが廃止され、代わりにによるを用いたのルート紹介、スタッフや挑戦者による敗者予想など新たな趣向が試みられた。 第1問と敗者復活者が、第一次予選当日の紙上で発表された。 徳光和夫は前回に引き続き一般挑戦者として参加、1問目を正解し、続く2問目も正解して東京ドームのグラウンドに足を踏み入れたが、3問目で失格し予選通過はならなかった。 その一方、第11代クイズ王・稲川良夫が第5回での宗田利八郎(第3代クイズ王)以来8年振り(そして事実上最後)の「歴代クイズ王の第一次予選突破」、稲川はその後も勝ち進んだが、グァムのどろんこクイズで失格した。 本大会より、グァムのブーブーゲートでの効果音がブザー音声から電子音声(クイズ不正解時の効果音と同じもの)に変更になり、またグァムの泥んこクイズでは、問題が書かれた番号札(挑戦者は残っている番号札から任意のものを選ぶ)が廃止になり、挑戦者はあらかじめ用意された問題に答える方式に変更になった。 この他「機内ペーパークイズ」のワースト3名には、この回から「 ワーストハチマキ」というを装着する様になり、決勝前に『今年も多くの敗者が去っていった』とそれまでの敗者を振り返るコーナーが挿入された。 本大会では初めてに進出。 ルート前半ではとに上陸し、後半でアメリカ本土を横断。 ただし、オーストラリアでは、同年8月から年末まで続いたの影響で、当初の計画からルートを変更せざるを得なかった。 シドニーではがゲストとして出演し、敗者復活戦も行った。 また、前年からニュージーランドで初めて営業を開始し、当時まだ一般向けに公開されてから1年足らずだったが罰ゲームとして利用された。 前年とは異なり、学校勤務の女性教師が機内ペーパークイズ(筆記試験)で敗退、「ワースト3位」と書かれたハチマキを装着した女性参加者の 佐藤まゆみ(東京都出身、No. 全大会中でも、国内予選を通過した挑戦者のクイズ知識が際立っていた大会とされ、特に後半のチェックポイントで激戦が繰り広げられた。 さらに準決勝ボルティモアの通せんぼクイズではが通過席に8度立ち、準決勝用に用意された問題が使い果たされるなど、第5回ノックスビルにも勝る激戦が繰り広げられ、福留も「 13年の歴史の中で、最も素晴らしい戦いだった」と評した。 この大激戦の模様を放送する為最終第5週のみ『』を休止して19時からの2時間番組として放送された。 準決勝ボルティモアで敗者となった2人に対し、大会が始まって以来、初めて「3位決定戦」が行われた。 ただ、あくまで罰ゲームの延長線上でという位置付け。 1814年の当時、言うことを聞かない兵士へのお仕置きとして行われていた罰を真似たもので、1800年当時のアメリカ15州の名前をリレークイズで順番に答え、誤答もしくは制限時間内に答えられないと体の前に付けられた大きな袋にレンガを5個ずつ入れられるというルールで、先に袋が地面についた方が負け。 3位の賞品として、「 アメリカ合衆国州ジグソーパズル」が贈られたが、ニューヨーク州のピースは没収された。 第12回の再放送に続き、今大会もで〜と、〜に再放送され(1月〜2月は5週連続、3月は5日連続。 6月〜7月は再放送が2度行われた)、各週の再放送後にはオリジナル番組「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集 PART II」も併せて放送された(全5回)。 マリックによるハンドパワーで、敗者復活戦で出てきた15個の単語を、順番の番号も含めて永久的に記憶させられる 第8CP マウント・ニコラス牧場 Mt. Nicholas まァ! 決勝戦進出者• クイズ王 : (京都府京都市出身・No. 60・24歳・ 機内1位) 立命館大学の学生だったが、休学して第一次予選の参加直前まで南米旅行をしていた。 RUQS5代目会長。 ポイント通過時にプレゼンターの女性をハグする、プレゼンターのいないチムニーロックで通過した際には南米旅行中に出会った女性の写真にキスをするなど、極めて豪快な性格と言動が特徴。 第12回にも出場したが第一次予選で敗退している。 翌年の第一次予選終了後に南米旅行時に感染したで入院したが、第二次予選直前に退院して参加した。 第二次予選と機内クイズは髭面での姿で臨み、グァムで髭は剃り落としたものの、決勝戦も再びパジャマ姿で臨んだ(スーツも持参していたが、メンフィスで着用した)。 トップ通過はクイーンズタウンとボルティモアのみで、グァムで敗者復活、チムニーロックとメンフィスでラスト通過、ボルティモアでは通過席に8度も立つ(特に6度目に阻止された時は、相手に早押しボタンを先に押された瞬間正解だと確信したのか、自分のウルトラハットを相手が答える前に外している)など、後半は苦戦の連続だった。 準決勝で敗退した とライバル的な扱いをされ、ショットオーバーでの絶叫フレーズはお互いに「長門帰れ」「秋利帰れ」となっていた。 決勝進出決定の際には、対戦相手の永田について「成田空港で(決勝進出を)考えた時の最高の相手」「そのために僕は残って来ました」と評した。 なお、肝炎の既往歴を考慮して、優勝者に与えられるシャンパンが見た目がシャンパン風のジュースに差し替えられていたが、オンエアでは「お酒ってこんな味やったんですね」と発言。 「 クイズはスポーツ」が信条で、クイーンズタウン以降はののを着てクイズに臨む(着替えるシーンも放送された)こともあった。 また本番組において歴代最後の敗者復活からの優勝者でもある。 福留からは「 最強のチャンピオン」と呼ばれ、本番組のビデオでは「早押し0. 07秒」と紹介された。 第15回では冒頭この回で勇退する福留への労いの言葉を述べ、また"今世紀最後"では中断中に誕生した息子を連れて参加した。 現在はクイズ作家として活躍している。 準優勝 : (出身・No. 50・26歳・機内3位) 出身、。 第5回から第一次予選に参加しており、大学在学中はを利用しての電車旅行ついでに予選参加していたと言う、第2回クイズ王の北川と同じくであった。 シドニーでは、残り1枠で同時に正解した東大卒富士通の 田川憲治 (準決勝敗退)との勝者決定戦に敗れ一旦は敗退するも敗者復活。 クイーンズタウンから再合流して以降準決勝まで、クイズ挑戦時には常に、シドニーでの敗者復活時にからもらった「 ハンドパワーTシャツ」を着用し続けた(決勝ではTシャツは着なかった)。 決勝進出の際には、対戦相手の長戸を「最低の相手」「こいつとだけはやりたくなかった」と評した。 翌年の(昭和62年)からは、外部生ながらRUQSに所属していた。 長戸と違ってトップ通過が多く、シドニー以外は安定していた。 後に長戸と共にバラエティ番組に出演するなどクイズタレントとしても活動している。 優勝賞品• の会員権 (で贈呈。 賞品贈呈パートは罰ゲームのテーマで開始された。 東京ドームにて「」「」「」という3つのヒントが与えられていた) テレビ放送(全5週)• 第1週…(元年)『めざせ米豪2大陸』 :グァム・ドロンコクイズ1名挑戦まで• 第2週…1989年『激戦オーストラリア初上陸編』 :モーリーまで• 第3週…1989年11月9日『サイキックでニュージー突入編』 :クイーンズタウンまで• 第4週…1989年11月16日『アメリカ上陸!! 戦場どまん中編』 :ツインレークスまで• 第5週…1989年11月23日『勇者6人激突クライマックス編』 第14回(1990年) [編集 ] レギュラー放送で福留が全編担当をした最後の大会。 日本テレビがしていた映画『』に因み、「 バック・トゥ・ザ・フューチャー」がテーマとなっていた。 第1問が第一次予選当日、早朝のテレビ番組で発表された。 またその番組を見た視聴者の内、福留の年齢(当時48歳)以上である48歳〜50歳の人は飛び入りで参加出来る資格を設け、その結果16名が参加、全員「 黒の「特」の文字が振られた 赤のゼッケン を着けて参加したが、第一次予選3問目で歴代クイズ王もろ共全滅した。 その第一次予選では、「一旦100名未満の挑戦者が勝ち抜けし、不正解者で再びクイズ」という事が無く、いきなり100名決定するという珍しい事が起きた。 中には正解にもかかわらず記念的な意味合いで泥プールに飛び込んだものもいた。 その後はのタヒチに上陸。 アメリカ本土西海岸の上陸後は、準決勝・東海岸のキティホークまで全て チャーターのみで移動し、日本人があまり訪れない秘境でのクイズも行われた。 サンフランシスコやロサンゼルスで行わなかったのは初回以来、また歴代で唯一を訪れなかった大会でもある。 クイズ研究会対策として採用された「クイズ研殺し」の問題が一部の問題で出題されたことから、クイズ経験者や大学クイズ研究会の強者が多数勝ち残った前年とはうって変わり、学生はアーチーズで最後の敗者となる、レバノンでの逆転負けなど多くが振るわなかった。 前年同様、前半のオレゴン街道 ・グランドテートン・ソルトレークで女性が全滅し、後半に勝ち残ったのは男性ばかりであった。 後半に勝ち進んだ挑戦者には社会人やクイズ未経験者が多く、30代以上の本土上陸者、妻帯者や父親である者も多かった。 準決勝で、残っていた学生2人が敗れたことにより、決勝進出者は第10回大会以来4年振りに社会人のみとなった。 また、バスツアーや・番組史上初となる罰ゲーム以外での ・到着など、クイズ以外の場面での挑戦者の表情が映し出される場面が多く、全体的なの選曲も相まってヒューマン・ドキュメンタリー色の濃い大会となった。 バスツアーでありなおかつ秘境でのクイズが多かったため、失格者帰国のテロップには? マークがつくことが多かった。 第13回に続き、今回も準決勝キティーホークで敗者となった2人に対し、3位決定戦が行われた。 三択クイズで、正解した方が3位となった。 3位、4位両者に賞品が送られたが、中身は 掃除用具(モップとたわし)。 その掃除用具で、挑戦者ツアーバスの掃除をするのが、罰ゲームとなった。 前回・前々回と出場した徳光は、自局の番組『』のため出場出来ず、福留より早く『ウルトラクイズ』から身を引いた。 また第一次予選の「優勝旗返還」は、この年から前年のクイズ王のみが入場する様に変更された。 この回から最後となる第16回までは、第1週のみ『追跡』を休止して2時間枠で放送、以後は通常枠で放送された。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 佐藤光邦((現・)出身・神奈川県在住・No. 64・33歳) 出身、田園調布勤務。 血液型B。 口髭を生やしていることと、中学生時代から名前の「光邦」をに掛けて「 黄門様」と呼ばれていたことにちなみ、愛称は「 ヒゲの黄門様」。 クイズ番組への参加も海外旅行も全くの未経験だった。 アメリカ本土上陸時点で所持金が少なくなっていたこともあり、グランドテートンの大声クイズにおける絶叫フレーズは「 金欠黄門様」。 早押しクイズでは実力を見せたが、トマト戦争など体力系のクイズでは苦戦し、またエリーでは結果的にトップ通過はしたものの、OBSでの訓練中は、福留はじめスタッフから死ぬのではないかと心配されるほどだった。 2017年9月に刊行された『』Vol. 8に他の第14回本土上陸者と一緒に出演し当時の思い出を語った。 準優勝 : 高松康典(出身・No. 54・25歳) 卒、日本特殊機器勤務。 血液型A。 佐藤とは対照的にトマト戦争などの体力系のクイズを得意としていた(但し本人は体力には全く自信はないと発言)。 早押しクイズでの解答権取得の素早さも際立ったものの誤答も多く、エリーではラスト抜けを争い相手にリーチのかかった状態で誤答し一回休みと追い詰められたが、準決勝では放送上わずか6問目でトップ通過。 決勝戦では自分の勤務する会社の制服を着て臨んだ。 機内1位 : 土屋仁志(神奈川県出身・No. 18・28歳・タヒチにて敗退) 第9回でも第一次予選を突破していたが、この時は成田のジャンケンで敗退している。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• "ラスベガス"ののオーナー権 (第10CPレバノンへ向かう途中で発表される。 ではなく、ので贈呈。 ゲームは「牛糞」だったが、ニューメキシコ州では、以外による賭博開帳は禁止されているため、収益は全額寄付しなければならなかった。 牛糞ビンゴで使われた土地と牛2頭が佐藤に贈られた。 賞品地レポーターは小倉淳が務めた) テレビ放送(全5週)• 第1週…(平成2年)10月25日:『アメリカ大陸完全走破9000キロの旅いざ出発』 グァムまで• 第2週…1990年11月1日:『最後の楽園タヒチの勝者USA上陸編』 オレゴン街道まで• 第3週…1990年:『爆走!大西部を行く編』 アーチーズまで• 第4週…1990年:『大平原の戦場突破編』 エリーまで• 3年ぶりにスタジオパートが復活し、併せて第13回以降中断されていた電飾ルートも復活した。 総合司会は と 永井美奈子。 ただ、このペアでのスタジオパートは今大会限りだった。 補足()の多発など、当時のの演出が色濃く盛り込まれるようになった。 第一次予選通過者が130名に拡大されたが、出題者の交代と同時にマンネリ化を打破するため、敗者復活戦の廃止、敗者インタビューの減少、罰ゲームの過激化、更にはルールを大幅に改正されるなど妥協と甘えを許さないサバイバル性の強い大会となった。 この回から付いたキャッチフレーズは「 明るく楽しい生存競争」、「 一度負けたら、ハイそれまでヨ」。 また、ここ2年と違いベスト10まで2名、ベスト6まで1名女性が進出した。 ルートでは4年ぶりにハワイを訪れ、第3回同様、アメリカ本土の南側に加え、を経由している。 この回からテレビ放送が全4週に戻った。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : (埼玉県出身・No. 84・22歳・機内2位) 出身、埼玉県庁職員。 一橋大学クイズ研究会出身で、それまでクイズ歴は豊富なものの優勝経験が一度もない「 無冠の帝王」(一人で挑戦する『クイズ・タイムショック』では「10問正解」と表記された)で、幼少期からウルトラクイズに憧れ続け、エルパソでの大声クイズで与えられた絶叫ワードは「 クイズおたくと呼ばないで」。 『第3回FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦! 』の予選通過を辞退しての参加。 他のクイズ王と違い優勝直後から他局のクイズ番組の出演が多く、後にウルトラクイズにおける自身の体験談を『能勢一幸のクイズ全書1』(情報センター出版局、1993年)という著書として発表している。 第16回大会では予選第一問で敗退した。 能勢の優勝により、2年連続で公務員 がクイズ王となった。 準優勝 : 松原史和(神奈川県出身・No. 49・21歳) 一橋大学の学生で、同大学のクイズ研究会所属。 夢は軍人になることと公言、迷彩服姿でクイズに挑んだり、勝ち抜けると匍匐前進を披露したことなどから「 ゲリラ松原」と福澤から呼ばれていた。 能勢は大学の先輩にあたる。 松原は遅生まれで能勢は早生まれ(1月1日)のため、年齢は1つ違いだが能勢は社会人、松原は大学3年生であった。 機内1位 : 大石 禎(出身・東京都在住・No. 96・25歳・ドミニカ共和国にて敗退) 出身、。 クイズ研究会出身で、初代副会長だった。 ドミニカでは能勢と共に封鎖され続けた結果、能勢との直接対決でどちらかが落ちるという状況になり、最終的に敗退した。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• プライベート (で贈呈。 熱い源泉と川の水を自分で混ぜ合わせたもの。 近くにがいたので「かもの湯」と命名するが、"「おたく湯がいいのに」とスタッフは思った" とテロップが出されている) テレビ放送(全4週)• 第1週…(平成3年)11月7日:グァムまで• 第2週…1991年11月14日:サンシティまで• 第3週…1991年:ドミニカ共和国まで• 第4週…1991年 第16回(1992年) [編集 ] レギュラー開催最後の大会。 番組テーマ曲が従来の曲のアレンジバージョンに変更。 スタジオパートは再び無くなり、ルートの紹介は他大会のように事前には行われず。 番組冒頭に流れた前週までのプレイバックでのみ行われ、次のチェックポイントは挑戦者と同様に直前に発表されるまで視聴者が知ることはできなかった。 台風上陸の影響と司会者の交代、女性参加者の早期全滅にクイズ研究会の台頭、前回での敗者復活戦の廃止が響き、第一次予選参加者が前回よりも減少した唯一の大会でもある。 レギュラー放送全16回の中で最低の視聴率であったことが影響し、翌年(1993年)に今大会での打ち切りが決定された。 敗者復活戦が再開されるなどルールが前年より若干緩和されたが、第一次予選通過者が100名に戻されるなど、妥協と甘えを許さない姿勢は変わらず、女性はハワイで1人を除いて敗退、唯一勝ち残り本土上陸を果たした、勝ち抜けの度に福澤にキスをするため「 接吻マダム」と呼ばれていた主婦もサンフランシスコで敗退した。 アメリカ本土上陸した参加者11名のうち、10代が4名(うち社会人1名)、大学生が先述の10代含め6名、平均年齢24歳と福澤曰く「若さ漲る」構成で、キャメロンパークで最高齢の40歳男性が敗退した後は、準優勝した大西以外全員が22歳以下という若さであった。 チェックポイントが第6回以来のアメリカ合衆国内に留まり、スケールが縮小された。 前回の第15回は第1問のみ前任者の福留が担当したが、今回は第1問から福澤が担当した(史上唯一)。 そのため本大会は、唯一福留が出演しない回であった。 なお福留は開催前の同年4月2日に放送された、『木曜スペシャル』20周年企画『驚異と爆笑の決定版 初公開・世界の超能力から日光猿軍団まで…全部見せますTV』に出演、当時を振り返った。 第14回に続き、今大会でもグァムで台風の被害を受けた(ただし大会中の直撃ではなく、大会直前にグアム島に上陸し大被害を与えたの復旧途中)。 第1チェックポイント 機内400問ペーパークイズ の通過可否を、第15回までは空港に到着した飛行機から階段を降り、その先にあるブーブーゲートの床を踏むことで行っていたが、今大会は空港内では台風による緊急物資の輸送などが慌ただしく行われていたため、第15回までのように空港で通過可否はできなかった。 そのため、挑戦者を全員グァムに上陸させ、その後バスに乗り、ホテルに到着したところで、バスの降り口にステップ「 ブーブーステップ」を設置して、通過可否を行った。 この回ではグァムと決勝戦以外の不正解のペナルティが、すべて一回休みであった(グァムでは列の最後まで廻される、決勝では従来通りマイナスポイント)。 第一次予選には が参加していたが、第1問で敗退した。 その他にも前回クイズ王の能勢一幸が第1問で敗退した。 その一方で、初参加の第4回から連続出場しているものの、その第4回から12年連続第1問で敗退と言う珍記録を達成していた「 疫病神」の 蓑原弘豊 が初めて第1問を突破し、ついに第1問での連敗記録をストップさせ、第1問正解の瞬間、勝者の数人で蓑原を胴上げして祝福していた。 ただ本放送(開催時点)では「今年が最後」とは言われなかった。 これは放送時には翌年以降の開催も計画されていたためであり、それを裏付ける様に、勝者が敗者に「 来年また(東京)ドームで会いましょう」と声を掛けたシーンが放送され、最終週エンディングでも「 ドームへおいで下さい。 お待ちしております」という福澤のナレーションで締めていた。 この年から日本テレビのマークが「 」に変更されたため、第2回から使用された2代目マークに代わり「なんだろう」が第3週・第4週のエンディングクレジットに表記、また翌までの「開局40周年」が始まった年でもあるため、クレジットには「 40th」も併せて表記された。 2017年6月と7月、2018年3月ににて再放送が行われた。 クイズ王 : (大阪府出身・東京都在住・No. 14・22歳・ 機内1位) 3回生で、同大学のクイズ研究会所属。 サンフランシスコで福澤から、その容貌が似ていることから「 」と命名される。 は食べられるがそれ以外の肉が大嫌いなため、レイクパウエルでの絶叫フレーズを「 高いお肉はダメなんだ」にされた。 上位通過が多かったが、私がママよでラスト通過・次のマラソンクイズでトップ通過と浮き沈みもあった。 決勝の相手である大西とは本番組参加前から『 』()で知り合っていた。 決勝では最初の誤答お手つきで-2ポイントとなりながら盛り返し逆転した。 現在はクイズ作家。 準優勝 : 大西 肇(京都府出身・No. 7・34歳・機内2位) 出身、店店主で既婚者。 娘が2人と息子1人がおり、レイクパウエルでの大声クイズの絶叫フレーズはその3人の子供の名前にされていた。 第13回で準優勝した永田に誘われ、関西クイズ愛好会に所属。 社会人になってからクイズを始め、クイズ番組出場経験多数の実力者だった。 当大会参加時期に妻と旅行を予定していたが予選通過したためキャンセルし参加、「芸能神社」として知られるの御守をもらい持参、「 クイズは芸事です」が信条。 東京ドームからニューヨークまで一貫してクイズにはを着て臨んだため、サンフランシスコでは日本の映画俳優と勘違いされサインを求められた(ただし、移動時には普通の服を着ており、クイズ収録時に和服に着替えていたとのこと。 同時期の『 』『 FNSクイズ王決定戦』の本選でも毎回和服姿で挑戦していた)。 サンフランシスコでトップ通過、準決勝でも通過クイズを1問でクリアしトップ通過だったが、成田で敗者復活、ハワイでは2度誤答し、1問休みの間に対戦相手が正解すれば失格の窮地に立たされるも相手が答えられず次の問題で何とか通過、キャメロンパーク、レイクパウエルでは5番目通過、サンタフェでは4番目通過と苦戦続きだった。 後にに放送された「 」に家族4人で参加した。 優勝賞品• 用畑 (ので贈呈。 1列のみだが、それでも年間ビン500本分のブドウ酒を収穫できる。 造られたワインは「 ミニラチューチュー」と名づけられた。 維持費と税金の問題で畑を手放し、約300本のワインと交換した。 しかし本人を含め家族全員だったため、ワイン全部を知人縁者に配ったという。 テレビ放送(全4週)• 第1週…(平成4年)10月22日:グァムまで• 第2週…1992年10月29日:キャメロンパークまで• 第3週…1992年11月5日:アトランタまで• 第4週…1992年11月12日 "今世紀最後"(第17回・1998年) [編集 ] 日本テレビ開局45周年記念番組として、6年ぶりで1度限りの復活。 「 Mr. ウルトラクイズ」として福留が再登板し、"敗者の味方"も徳光が担当した。 復活したスタジオ司会は と が務め、ルート紹介はCGで行われたが、決勝地は衛星生中継となり決勝が行われる直前まで明らかにされなかった。 再登板した福留は、この年の8月限りで『』司会を勇退。 その為、東京ドームでの1次予選は福留がズームイン司会を担当する最終回の前日に実施され、福留がズームイン司会を勇退後に2次予選以降が行われた。 当初はの販売店である「トヨタオート店」がメインスポンサーであったが、トヨタオート店が「」として改組したことで「 ネッツトヨタ発足記念番組(ネッツトヨタスペシャル)」となり、当時のトヨタ・ネッツ系の自動車ディーラー(旧トヨタオート店)ではウルトラクイズの参加申込書が各営業所内に置かれた。 また、番組放送後に視聴者に優勝者予想クイズ(実際は番組終了後に応募可能のため、予想ではなく確定後に優勝者の名前を記入して応募)が実施され、当選者には が商品として贈られた。 第二次予選でのピカイチ技・ポン食い予選の導入および開催場所の変更、機内400問3択ペーパークイズの廃止と、それまでの伝統を一新した内容を取り入れた。 萩原は第1問を正解したものの、続く第2問で失格となったが、一旦は敗者復活となった。 しかし、萩原は第二次予選のポン食いに失敗して敗退した。 その他の60歳〜70歳代の挑戦者も国外チェックポイントまで進出したものの 、それに配慮して体力系クイズはグァムでの団体戦綱引きクイズのみ行い、バラマキクイズや大声クイズは行われなかったり、が敗退した時の罰ゲームを参加者の任意としたケースもあった。 「クイズの都」として歴代クイズ王を輩出したニューヨークは準決勝のチェックポイントとなり、決勝戦はので泥んこクイズを行い、その模様を衛星生中継で放送した。 女性挑戦者は上陸者11名の内2名で、内1名は成田空港からの「一足飛び」だったが、デュランゴで失格、残りの1名は準決勝地のニューヨークまで進出、「女性挑戦者が準決勝まで進出した」というのは第9回以来であった。 この回では他にも歴代のクイズ王が一部参加したが、第4回クイズ王の山口由美、第5回クイズ王の真木法男、第7回クイズ王の横田尚、第15回クイズ王の能勢一幸は全員第1問で敗退し、第6回クイズ王の高橋直樹が自身の娘である 高橋美穂(当時20歳)とともに参加(美穂は初出場)したが、父の直樹は第1問で敗退した(直樹にとっては結果的には生前最後のクイズ挑戦となった。 なお、美穂は第1問を突破したものの、続く第2問で敗退したため、第一次予選通過はならなかった)。 第12回クイズ王の瀬間康仁と第13回クイズ王の長戸勇人も揃って第3問で敗退した。 また、第16回クイズ王の田中健一も参加していたが、何問目で敗退したのかは不明。 全日本空輸からコンチネンタル・ミクロネシア航空に戻した理由は不明。 全体的に、アメリカの古き良き歴史をテーマにしたチェックポイントが多かった。 今大会も第10回とともに放送ライブラリーに保存されている。 なお第1夜放送前には事前番組『今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ ㊙密着ドキュメント』が14:00 - 15:25(『日曜特番』枠)で放送された。 ジャンケン勝者は一足先にサンフランシスコに行き(第1〜第3CPも免除)、敗者は敗者復活戦に回る。 ただし最後尾には解答権がなく、間違いもしくは解答できないと最後尾に回され、他の挑戦者が前に繰り上がる。 出発後の機内から挑戦者4名は目隠しをさせられ、それ以降「トイレ以外の場所で目隠しを外す」行為はいっさい許されなかった。 通せんぼクイズも目隠しをしたまま行われ、勝者2名だけが勝ち抜け後目隠しを外すことを許されニューヨークの摩天楼を見ることができたが、敗者2名は、帰国便がを離陸しておよそ30分後、ニューヨークが完全に見えなくなってからようやくアイマスクを外すことが許された。 決勝戦進出者・機内1位• クイズ王 : 小川圭太(出身・No. 93・21歳) 立命館大学中国文学専攻3年生で、RUQS所属(後に17代目会長に就任したことにより立命館クイズ研出身・所属の優勝者は全員歴代会長に就任したことになる)。 アルバイトで塾講師をしていた。 クイズには立命館クイズ研のを着て臨むことが多かった。 グァムの奇襲クイズで遅刻し最後に合流するというミスがあったが、シルバートン以降を全て上位で通過。 デュランゴでは清水とペアを組んでいた。 旅の途中で相部屋になった参加者が、立て続けに次のチェックポイントで落ちるというジンクスがあった。 ピカイチ技は「」であったが一次審査で不合格、優勝した際に改めて披露した。 優勝後、日本のスタジオに来ていた祖母と父親と衛星中継で会話した。 準優勝 : 清水耕司(No. 7・25歳) 4年生。 小川同様グァムの奇襲クイズには遅刻しており、その敗者決定戦で辛くも勝ち抜けた。 ハワイとニューヨークでは、勝ち抜けしたときに号泣した。 決勝前、RUQSに所属する小川との対戦となったことについて「 大学野球部に草野球チームが闘いを挑むようなもの」と評していた。 機内1位 : 村田栄子(東京都出身・No. 60・67歳・ハワイにて敗退) 過去、多数のクイズ番組で優勝の経験を持つが 、ウルトラでは年齢制限オーバーにより一度も参加が叶わなかった。 福留からは「 クイズの女王」と呼ばれ、第二次予選のピカイチ技は「クイズ」 だった。 ハワイで敗退した際、クイズに負ければ罰ゲームのスカイダイビングが待っているという状況が「(精神的に)厳しかった」と述べたため、年齢も考慮して福留がスカイダイビングを拒否することも可能だと伝えたものの、「降ります」と躊躇なく参加した。 クイズサークル「」会長。 その他の参加者 この節のが望まれています。 優勝賞品• 高級 (マイアミ沖に浮かんでいたが、魚のためのハウスボートだったためにすぐさま爆破されてとなった) テレビ放送(2夜連続)• 第2夜…1998年11月23日()20:00 - 22:24(JST):生放送 2週放送は初回以来だが、「非単発枠での放送」 と「2時間越え」は史上唯一。 また初回のみだがも唯一。 なお「22:24終了」は歴代でも一番遅い。 史上最大の敗者復活戦(1982年) [編集 ] (昭和57年)に日本テレビ開局30周年記念特番として、「 ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦」という特別企画が行われ、同年()18:30-21:48(JST)に『』・『』・『』などのとして放送された。 全国各地で予選を実施し、その地域に密着したユニークなクイズを出題しようという試み。 この大会は、18歳以上であれば高校生も参加することができた。 応募人数は77,779名、これまで後楽園球場に行かなければ予選に出場できなかったものを地方ごとの予選にしたことが大きかった。 過去の「アメリカ横断ウルトラクイズ」で勝ち残った挑戦者もクローズアップされた。 司会は福留が務め(関西地区予選のみ司会は、リポーターは。 ただしOA分では羽川の出番はなし)、徳光 もリポーター・敗者の味方として登場した。 そしてクイズは準決勝と決勝は生放送で行われた。 「複数の個所で予選を行う」というのは、「ウルトラクイズ」の企画段階「ジャンボクイズ大会」規約に「関東・関西・福岡・札幌で予選を行う」と記載されており 、5年目にして日の目を見た事になる。 クイズが全て日本国内で行われたこともあり、ウルトラクイズの番外編扱いをされていた。 「アメリカ横断」というフレーズが番組タイトルになかったのもそのためである。 この企画を受けて、出場資格がなかった高校生を対象として、翌(昭和58年)に「 」(高校生クイズ)の第1回大会を実施するきっかけを作った。 この高校生クイズでも、関東・関西地区同時予選やどんでん返しなどのアイデアが引き継がれた。 高校生クイズは、当初、夏・冬の年2回に渡って行われたが、(昭和61年)以降は夏の年1回のみの開催となり、ウルトラクイズが終了した現在も続いている。 なお関東地区では、翌1983年2月5日の『ビッグサタデー』で放送枠を13:00 - 16:00 に拡大して再放送したが、放送枠が3時間弱であるため、内容を再編集して放送された。 内容 [編集 ]• 北海道地区予選の第1問は、2カ所のサークルにいる幼稚園児のどちらが人数が多いかというものだった(理論的には数えればわかる問題であった)。 後年第11回で行う「」の前身)。 また「第1問A」と「第1問B」が同時に発表されて4カ所のスタンドに分かれるという企画が行われ、挑戦者は次の様に移動した。 そして両会場6名ずつが決定した時点で初めて第1問の正解が発表された。 勝ち抜け者はの石段から上300段を使ってのバラマキクイズに挑戦、石段両脇の土産屋から封筒を入手し、福留のいる最上段まで持って行って答える(オリジナル版同様「ハズレ」もあり)のだが、封筒を入手する時にはその土産屋に決められた「指令」を実行しなければならない(の扮装をして写真撮影する、を2本分飲む、を1杯食べる、土産用を食べる、など)。 九州地区予選では、温泉につかりながら頭につけたボタンを押すという早押しクイズが行われた。 それまでの、解答席に座るという概念を覆す画期的な企画だった。 24,642名が挑戦した各地の予選通過者82名が全国大会に進出し、でペーパークイズなどさまざまなクイズに挑戦。 通過者8名が日本テレビのスタジオで、2ポイント取ると通過席で過去6回のアメリカ横断ウルトラクイズ優勝者と直接対決する(を2個振って、出た目の回の優勝者と対決する。 例えば1と2が出た場合、第1回優勝者松尾と第2回優勝者北川の2名と対決することになる。 の場合は1名とだけ対決 )というクイズに挑戦し、そこで勝ち上がった4名がで行われたでの7分間早押しクイズ(準決勝。 後の「」の原型)、さらに勝ち上がった2名が7ポイント先取のジャンケン(決勝。 家族も参加)に駒を進めた。 高尾山でのペーパークイズの結果発表は、名前を呼ばれた挑戦者が前に出るように言われ、最後に僧侶が振り向くとそれは徳光で「という以上の皆さんが私のお友達(=敗者)でございます」と発表する形式だった(これが史上初の どんでん返しであり、「高校生クイズ」に継承された)。 高尾山で、勝者8名に対して「罰ゲーム」ともいうべき滝修行があった(なお、高尾山では各クイズの敗者にもすべて罰ゲームがあった)。 このとき徳光も一緒に滝に打たれた。 準々決勝を行う前に、歴代クイズ王がどれだけすごいのかを見せるべく、クイズ王によるマッチを行った(第11回第一次予選よりも前に今回が早く行われていた)。 準決勝の結果は、1位が14問ポイントとダントツだったのに対し、5ポイントで次点が2名いたたため、同点決勝として早押しクイズを行ったが、片方が誤答したため、もう片方が何も答えずに決勝進出となった。 決勝戦の演出は、2名が早押し機についている状態で「 ウルトラクイズ史上最大の敗者復活戦でまだやっていないのはどれ? ジャンケンで決勝戦をすることにした!! 」と言い、早押し機を撤去してジャンケンのセットに替えるというものだった。 優勝者は北海道の主婦・ 佐藤麻利子 百八問ペーパークイズ女性1位 だった。 優勝者は「自由の女神」を模ったを獲得、また家族そろってニューヨーク旅行に招待されるとともに、翌(昭和58年)ののシード権(国内予選と機内ペーパークイズの免除)を獲得した。 この大会は番外編(アメリカ横断ウルトラクイズの)扱いであったため、佐藤は歴代のクイズ王扱いにはならない。 しかしながらウルトラクイズ関連の優勝者としては、第4回の上田由美に次いで2人目の女性優勝者となった。 また、上田は第4回当時「独身」であったため(結婚は1986年)、「主婦」は唯一となる。 この大会では準優勝者の 門田雅志(百八問ペーパークイズ総合1位。 の学生。 後に『』()、『』()の常連出演者)にも、の名誉島民権という賞品が出た。 結局、ペーパークイズ失格者と共に帰国した。 佐藤は本戦のグァムで敗退し帰国したため、「敗者」となるところだが、第15回冒頭の「福留の勇退発表」での福留の台詞では、「今まで私は 158,772人の敗者 を作ってきました」と言っており、「『ウルトラクイズ』本戦の敗者」扱いはされなかった。 ルートとクイズ内容(放送順) [編集 ] 史上最大の敗者復活戦では、地区大会全体が第一次予選と称された。 これは初期の高校生クイズの参加規定にも引き継がれた。 九州地区予選 [編集 ]• 対象都道府県 - ・・・・・・・・• 対象都道府県 - ・・・• 対象都道府県 - ・・・・・• 対象都道府県 - 全域• 参加1,183名 会場 クイズ 人数 史上初!! 数えればわかる!! 対象都道府県 - (関東)・・・・・・・・・・• 対象都道府県 - (関西)・・・・・・・・・・・・・・・• 『昭和40年男』2018年8月号(クレタパブリッシング)p. 126-129「アメリカ横断ウルトラクイズ 第1回大会開催 前代未聞のクイズドキュメンタリーを生んだ「頭のいい奴だけが偉いのか!? 」という反骨。 ただし第一次予選の最終問題では、すでに「バツ」と言っていた。 松尾が9問正解に対し、藤原は11問正解(8問目を不正解)してチャンピオンとなり、『ウルトラクイズ』のリベンジを果たした。 ただしこの回は12問全問正解者が2名もいたため、藤原はトップの成績ではなかったのだが、その全問正解者の1人が「今世紀最後」で機内ペーパークイズトップだった村田栄子である。 また番組では松尾の紹介時、当時の司会者だったが当番組の事を紹介していた(ただし番組タイトルは言わず)。 正解は• 後に藤原の子供もクイズ番組に出場し、『アタック25』の小学生大会で優勝している。 この情報は準決勝が放送される前、スタジオに福留が現れて高島・石川両司会に教えた。 なお国外レポーターが「クイズ王の凱旋入場」以外でスタジオに現れたのはこれが唯一。 北川が失格した時点では116名が勝ち抜け(この回は第一次予選勝ち抜き人数が130名)、そして北川が入った不正解側が64名であるのに対し、正解側は15名で、あと2名少なかったらルールに基づき不正解側で再びクイズをやるところだった。 1978年12月9日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1978年12月16日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1978年12月23日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 50 - 51• この挑戦者は第1回でも、同じハワイでクイズ王・松尾に敗れている。 北川宣浩のホームページ--QUIZ. 2017年9月6日閲覧。 この回では婚約者も参加、共に第一次予選を突破したが、第二次予選のジャンケンに敗れた(因みに彼女を破った勝者は準決勝のノックスビルまで進出した)。 アメリカ横断ウルトラクイズ 虎の巻(日本テレビ・編 1998年7月・刊)p. 136「宗田利八郎COLUMN」• 2019年1月27日 福島民報• この日は「」の組閣が行われた日(翌に同内閣が発足)で、番組では「ハワイ」パートの後半、「NNN組閣速報」が放送された。 1980年4月26日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1980年5月10日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1980年5月24日 信濃毎日新聞 テレビ欄• ニューオリンズで最後の一人が敗退した。 その結果、プエルトリコは全大会で唯一、男性挑戦者が訪れなかったチェックポイントとなった。 決勝地がパリだった第9回は関連の問題だった。 北川宣浩のホームページ--QUIZ. 2017年9月6日閲覧。 なお第14回では、第一次予選の第3問目で前回(第13回)クイズ王の長戸勇人と共に映されている場面がわずかながら存在、長戸共々クイズ王を表す「の」も付けていたが、記章には何故か「上田由美」と旧姓で書かれていた。 「ハチマキをもらった場面」は、第10回前に放送された総集編『アメリカ横断ウルトラクイズ 史上最大の傑作選』でも「挑戦者の不運と運」コーナーで勝ち進む場面と共に放送された。 この後母親は最終週で、クイズ王・上田のスタジオ凱旋入場の後、娘・典子と共にスタジオに現れた。 1980年10月30日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1980年11月6日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1980年11月13日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 北川宣浩「TVクイズまる金必勝マニュアル」• 口上自体は第3回第2週から始まったが、当初は「来週も『史上最大! 今だから話せるウルトラクイズ裏話(ウルトラクイズに参加した構成作家のブログ)• 義兄の小室周也(2016年4月死去)は第2回でハワイまで進出。 後の第13回では予選参加全13回皆勤ということで第一次予選で敗者復活し、ブルーマウンテンまで進出している。 第2回優勝の北川宣浩の公式ブログ「イケてる モノ・コト」のより。 1981年10月8日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1981年10月15日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1981年10月22日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1981年11月5日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 「ニューヨークへ行きたい」は第1回から行われていたが、第1回では「隣の人を蹴落としても、絶対にニューヨークへ行ってみるか!! 」とやや近かったものの、第2回は「どうしてもニューヨークへ行きたい ですか」、第3回から第5回までは「ニューヨークへ行きたい ですか」と、敬語の「 です」が付いていた。 人数の合計では、北米、南米各3人、計6人だった第10回の準決勝が最多だが、1都市で開催された準決勝の参加人数としては最多。 第9回は決勝地がパリなので、フランス国歌『』。 それまでのテロップはゴシック体で表示されていた。 第7チェックポイントのでのクイズ終了後にの付着したを水洗いせず、皮ごと食べたため。 福留がホテルから救急車で病院に運ばれる姿は挑戦者にも目撃された。 福留は予定より1日遅れで復帰したものの体調が万全ではなかったため、第8チェックポイントのでは福留の姿はカメラにほとんど映されなかった。 後に、第11回〜第15回と"今世紀最後"の総合演出を担当することになる日本テレビ・加藤就一。 香港投宿時から体調不良であった。 『ウルトラクイズ伝説』p. 146 - 162• サイパンからアラスカへのが無いため、勝者も当時アラスカへの直行定期便(オンエア映像では北回り便)が就航していた成田経由でへと旅立った。 放送では10ポイント勝ち抜けとなっているが、書籍『アメリカ横断ウルトラクイズ 6』には12ポイント勝ち抜けと記されている。 この時点では勝ち抜き者が92名決定、まだ決まってない挑戦者は66名だったが、不正解側が高橋を含めて55名、一方の正解側が11名だった。 この様子は閉鎖されたホームページとは別に開設していたで確認できる。 1982年10月7日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1982年11月14日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1982年10月21日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 1982年10月28日 信濃毎日新聞 テレビ欄• 読売新聞昭和58年10月20日号24面テレビ欄に記載あり。 "今世紀最後"ではグァムでは行っていないが、決勝の西インド諸島でどろんこクイズを実施。 ジャスパーに向かう途中で 金子正志(東京都出身、No. 71)がを患ったことが発覚しドクターストップとなった。 このため、この年の準決勝は3名で争われた。 アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本(クイズ王の会・編、日本テレビ・刊 1987年7月)p. 102 - 103•

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地球街道 : テレビ東京

荒野行動メインストリートミッド登り方

いくつもの「道」を走りました。 いくつもの「橋」を越えました。 快晴の中を、雨の中を、風の日も、雪の日も。 地球という舞台に刻まれた道を、懸命に走ってきました。 「その道を走れば、夢が叶う」。 そう言って走り始めた地球街道の旅も今回で終わります。 旅人75人、訪れた国37カ国、走行距離5万キロに及ぶ壮大な旅を振り返ります。 六平直政さんは、ベトナムの世界自然遺産、ハロン湾にて・・・。 カナディアンロッキーで、八木沼純子さんが目にしたのは・・・。 オーストラリアの広大な大地を駆け抜けたのは、勝村政信さん。 憧れのマダガスカルにやってきたのは、水野美紀さん。 高嶋政宏さんは、アイスランドで、神秘の大地に感動。 アフリカの大地で、命を賭けた絶景を目にしたのは、野村真美さん。 建築も私たちに驚きを与えてくれました。 ポルトガルで、林隆三さんは・・・。 ギリシャを走る草刈正雄さんが車を停めたのは、断崖の上に建つ天空の修道院。 旅の楽しさ、旅の喜びとは?地球街道ならではの旅の醍醐味・・・それは、音楽と寄り道。 衣笠祥雄さんがアメリカで立ち寄ったのは・・・。 高橋克実さんがスペインで見つけたお気に入りの風景は・・・。 カナダ一美しい紅葉の森、ローレンシャンを目の前に床嶋佳子さんは・・・。 西村和彦さんが旅したイタリアのラッツィオ州の小さな村は、雲海の上に。 中国の広大な竹林の中で、村田雄浩さんは・・・。 「地球街道」のはじめの一歩・・・ 中村雅俊さんが少年時代に憧れたアメリカ「ルート66」 私たちの前には、また新しい道が待っています。 道は続きます。 果てしなく、どこまでも。 3月21日放送分 南太平洋、ニューカレドニア。 旅人は、山本太郎さん。 天国に一番近い島、ニューカレドニア。 そこはまだ、私たちが知らない文化と美しい風景があります。 そこにはちょっと不思議な宿があり、伝統を守り続ける暮らしがあります。 <ヌメア> ニューカレドニア本島の町、ヌメアの夕暮れ時。 海沿いの広場では、男性たちが集まって人気のスポーツ・ペタンクに興じています。 ペタンクとは、2つのチームに分かれて、鉄の球を相手チームよりもどれだけ的に近づけられるかを競うゲームです。 カーリングの手投げ版といったところ。 ペタンク歴60年の技に驚きつつ、山本さんも挑戦してみます。 きれいな夕陽が海に沈んでいきます。 <マレ島> 本島から飛行機乗って、目指すは、「天国に一番近い浜」があるマレ島。 眼下には美しい南太平洋が広がります。 本島から飛行機で30分。 東京23区ほどの大きさのマレ島は、地殻変動で珊瑚礁が隆起してできた島です。 この島にはおよそ7500が暮らしています。 マレ島は手つかずの自然が残り、独特の文化を守り続けています。 島の南部に位置するエニ村は、マレ島の中でもとりわけ美しい村。 村のメインストリートを歩くと、山本さんがくるというので村中の人が集まってきました。 この村では、外部からきた人は、「コスチューム」という酋長への挨拶の儀式をしなければなりません。 来客はタバコとお金を布でくるみ、酋長への貢物にします。 まずはそれを長老に渡します。 すると、長老と村民から歓迎の意が示されます。 そうすると、いよいよ酋長の家へ向かいます。 山本さんも少し緊張・・・。 長老の手から酋長へ貢物が献上されます。 酋長からは歓迎のことばとともに、腰に巻くパレオがプレゼントされました。 浜では、村の女性たちが山本さんのために伝統料理のおもてなし。 伝統料理のブーニャは、サツマイモ、ヤマイモ、魚の上にココナッツミルクをかけ、それをバナナの葉で包み、蒸し焼きにしたものです。 食後は、こどもたちが昔から伝わる踊りを披露してくれました。 エニ村を後にした山本さん。 今夜は、伝統的な家屋「カーズ」に泊まります。 ニューカレドニアの民宿です。 山本さんが泊まる部屋は、なんと突き出た岩場に建っている日本の庵のような佇まいです。 <天国に一番近い浜・ジャバドラン> 天国に一番近い浜を目指す山本さん。 しかし、簡単には行けません。 足場は悪くサンゴが隆起してできた岩がどこまでも続きます。 岩場だけでなく、その道なき道は森の中へと続きます。 やがて目の前に、荒削りな岩肌が立ちはだかります。 一歩一歩慎重に足場を選んで歩みを進めます。 歩くこと2時間、ついに目の前に美しいビーチが!シャバドランのビーチ。 ここが、天国に一番近い浜。 美しきシャバドランには、波と岩場が作り出した小さな滝までありました。 <ニューカレドニア本島・ブーライユ> サーファー山本さんが、念願のサーフィンを。 ニューカレドニアきってのサーフスポット・ブーライユへ。 ブーライユの海は珊瑚礁で囲まれているため、その先までボートで行かないとよい波が来ないのだそうです。 沖に出て、さあ、初乗り! 3月14日放送分 東京から飛行機で8時間半。 「天国に一番近い島」といわれるニューカレドニアは、南太平洋に浮かぶ楽園です。 俳優の山本太郎さんが、驚きの絶景を目指し、ニューカレドニアを旅します。 <ヌメア> 人口8万人、ヌメアは島一番の都市です。 ニューカレドニアの正式名称は「フランス領ニューカレドニア」。 先住民であるメラネシア系の人々と、フランス人をはじめとしたヨーロッパ系の人々が暮らしています。 太郎さんがニューカレドニアに着いたのは日曜日。 早速色とりどりの野菜や果物が並ぶ、名物の朝市をのぞいてみます。 魚屋さんでマグロを試食させてもらったり、カフェでカフェオレとクロワッサンというフランスの朝食の定番を食べたりと、いよいよフランス気分が高まってきたようです。 <レニア島> ヌメアの人々の休日の過ごし方は様々ですが、その定番の1つがクルージング。 ヨットやクルーザーでとある場所に向かい、そこで家族とともに過ごすというのです。 クルーザーを持たない観光客にとっては、タクシーボートが便利。 太郎さんも、早速「とある場所」を目指します。 タクシーボートに揺られること20分。 沖合に見えてきたのは無人島です。 そう、ヌメアの人々は「ピクニック」と称して家族とともにこの島で過ごすのです。 島に上陸し「南の島に来た実感がわいてきた!」という太郎さん、ここで休日を過ごしているご家族のお話を伺いました。 週末のたびに島を訪れ、釣りをしたりリラックスして過ごすというご家族。 何ともうらやましいお話ですね。 ということで、太郎さんも、ニューカレドニアで最初のお楽しみ、シュノーケリングです。 透明度の高い海には、かわいい魚がたくさん泳いでいました。 <ヌメア〜> 今回太郎さんは彼女と同伴です。 その彼女とは…新しいサーフボード。 一緒に寝るほど愛しい「彼女」なのだそうです。 翌日、彼女を車に載せ、いよいよヌメアを出発。 海のイメージが強いニューカレドニアですが、ヌメアから国道1号線を北上していると、なかなか海は見えてきません。 「ずっと海沿いを走ると思っていたのに」という太郎さんですが、それもそのはず、ニューカレドニア本島の中心には南北に中央山脈が走っており、1000m級の山々がそびえ立っているのです。 青い海ももちろんですが、その雄大な山の表情もまた、絶景なのです。 太郎さんは、進路を東へと変えました。 その山脈を越えてみるためです。 北上を続ける太郎さん、森を抜けると、橋の上から網を投げる漁師さんを発見しました。 お話を伺うと「日本人が伝えた投網だよ」とのお答えが。 実は19世紀末、ニューカレドニアのニッケル鉱山で働くため、およそ6千人の日本人が移住してきました。 そしてこの地に住みついた日本人が、この投網の技術を伝えたのだそうです。 …それは意外。 皆さんご存知でしたか?というわけで太郎さん、日本人代表として投網にチャレンジです。 さあ、魚はかかっているでしょうか…(結果は0匹と残念でしたが「今は干潮だから魚は釣れないんだ」とフォローしてくれました)。 すると漁師のローランさん、朝獲れた魚を見せてくれました。 「食べたいなあ」という太郎さんのお願いに、ローランさん、快く昼食に招待してくれました。 釣った魚はどうやって調理するかと見ていると…衣も何も付けずにそのまま揚げるだけ。 実にシンプル。 テーブルには、サラダやアサリのボイルなど、豪華な食事が並びます。 ローランさんは、普段食べるものは海や自分の畑で獲れたものでほとんどまかなえると言います。 つまり、自給自足。 お金を使うのは、タバコや砂糖を買うときくらいだそうです。 究極のスローライフ、ですね。 すっかりご馳走になった太郎さん、ローランさんオススメの絶景を目指し、再び東海岸を目指します。 美しい海と雄大な山々。 どこか日本の風景と似ている景色は、かつてこの地に移住した日本人にとって、心和むものだったに違いありません。 その絶景は「海も山も両方好き!」という欲張りな太郎さんの心もすっかり満たしてくれました。 3月7日放送分 それぞれの人生の中で、人には、大切に思う場所があり、忘れえぬ人がいることでしょう。 中村雅俊さんの大切な場所は、山口県の萩と仙崎。 20代、30代の雅俊さんに大きな影響を与えた出逢いがあったからでした。 萩から仙崎へ。 それは、雅俊さんの永遠の記憶を辿る旅です。 <山口県萩市> 昭和52年、雅俊さんはNHKの大河ドラマ「花神」で、幕末の長州で奇兵隊を率いた高杉晋作を演じました。 初めての時代劇。 俳優・中村雅俊にとってターニングポイントとなったドラマでした。 長州藩の中心地だった萩は、今もそこかしこに幕末の風情が漂っています。 城下町の一角には、後に維新の立役者となる木戸孝允や伊藤博文など、多くの人材が集まっていました。 そんな町を歩き、雅俊さんが向かったのは高杉晋作の誕生地。 33年前にも一度、撮影の合間に訪れているのだそうです。 しかし、家は後世建て直され、当時から残っているものはほとんどありません。 菊が浜は、夕陽の美しい浜辺。 実は雅俊さんには、ここで撮影した思い出のシーンがあるそうです。 高杉晋作登場の場面、浜辺で木刀を振り回すシーンです。 雅俊さん、浜辺に落ちていた木の棒を拾い、当時のシーンを再現します。 高杉晋作ゆかりのものが残されていないだろうか?そんな思いで訪れたのは、萩博物館。 ここには「高杉晋作資料室」があり、様々なゆかりの品が観覧できます。 室長であり、高杉晋作の研究家でもある一坂太郎さんにご案内いただき、今回、展示されていない貴重なものを特別に見せていただくことができました。 それは、高杉晋作が自分で作った木刀。 当時の息吹を感じてみたいと、思わず木刀に顔を近づけてみた雅俊さん。 晋作の匂いはもう残っていませんが、じんわりとこみ上げるものがあったようです。 萩の町の北にある岬では、この季節ならではの光景が見られます。 笠山椿群生林は、東京ドーム2個分の広さを誇る、日本最大級の椿の群生林。 2万5千本もの椿は、すべて自生です。 林の中を歩く雅俊さん、遊歩道にはまるで誰かが撒いたかのように、椿の花が落ちています。 椿は花びらではなく花ごと落ちるのですが、その花、一体どこに咲いているかと言うと、高さ10mにも及ぶ木の上の方。 落ちた花は、地元の方々の手で毎日掃除されています。 ちょっともったいない気が…と思ったら、観光客のためにきれいな花を残してくれているのでした。 <山口県長門市> 萩に隣接する長門市の海沿いの町、仙崎。 ここも、雅俊さんにとって大切な人の故郷です。 1981年に発売された「心の色」の作詞家・大津あきらさんは、雅俊さんの1つ年上。 12年前、大津さんが47歳の若さでこの世を去るまで、まるで兄弟のように本当に親しくしていたのだそうです。 雅俊さんは、大津さんのご実家へ。 現在そこにお住まいなのは、大津さんのお母様。 東京にあった大津さんの仕事部屋を仙崎に移し、12年間そのままの状態で残してあるのだそうです。 コンサートで大津さんが作ってくれた曲を歌い続けているという雅俊さん。 今でも忘れられないのが、大津さんが亡くなった時のこと。 棺の前で、大津さんと雅俊さんを結びつけてくれた思い出の曲である「心の色」を歌ったのだそうです。 お母様も、その時のことは忘れられないご様子。 2階に案内していただき、思い出話に花を咲かせていると、雅俊さんも初めて聞くという「心の色」誕生のエピソードを聞かせてくださいました。 美しい夕陽に感動してできたという「心の色」。 それは、仙崎の風景から生まれたものでした。 雅俊さん、どうしてもこの町でも特に好きな場所で歌いたくなってきました。 大津さんが亡くなった翌年、友人たちの手で建てられた「心の色」の歌碑のそばで。 大津さんはその場にいなくても、きっとどこかで聞いていてくれるはずです。 大津さんへの思いがこもった「心の色」を。 2月28日放送分 60カ国以上の国をめぐり、現在登山家としてエベレストやマナスルなど、世界の最高峰に挑み続けている、元F1レーサーの片山右京さん。 今まで冬の北海道を訪れたことがなく、冬の北海道が織りなす神秘の風景にずっと憧れ続けていたのだそうです。 そんな右京さんが目指すのは「神の湖」と呼ばれる摩周湖。 右京さんが、雪の北海道で見たものとは… <釧路湿原> 釧路湿原は、東京・山手線内の3倍ほどの面積を誇る、日本最大の湿原です。 海外ではカヌーの経験があるそうですが、冬のカヌーは初体験。 しかも川面は、シャーベット状の氷で覆われています。 釧路川をすべるように進むカヌー。 そこは時折鳥のさえずりや、カヌーが水面をこする音が聞こえてくるだけの、静寂に包まれた世界です。 そしてこの季節、ここで見られるとっておきの風景があります。 それは、霧氷。 氷点下では、水の方が暖かいため、川から上った水蒸気が樹木に当たり、昇華します。 それが木の枝や葦にくっつき、幻想的な風景を作り出すのです。 それは、冬の湿原を彩る一瞬の輝き。 霧氷は、朝日が上るまでの気温に左右されるため、厳冬期の一瞬だけ目にすることができる現象なのです。 <鶴居村> 「鶴居・伊藤サンクチュアリ」は、タンチョウの給餌場。 タンチョウは、絶滅の危機にある鳥です。 現在およそ1000羽が確認され、越冬のために餌が与えられています。 タンチョウは、春夏を湿原で過ごし、秋になると鶴居村にやってきます。 冬の間、凍りにくい川を寝床としていますが、今の釧路湿原では冬を越すだけの餌を自力で取ることができないため、昼間だけ給餌場に飛来するのだそうです。 <摩周湖> 「右京さんは、摩周湖を目指します。 展望台から見ると、そこは深い霧に覆われていました。 「神の湖」と讃えられている摩周湖は、流れ込む川も流れ出る川もないカルデラ湖です。 しかし、年間を通じてその水位がほとんど変わらないのは、ここの水が、地下を通る伏流水になっているためです。 その影響は、半径100kmにも及びます。 ですから摩周湖は「神の湖」と呼ばれているのです。 <清里町> 神の湖・摩周湖のもうひとつの神秘を見るために、右京さんは清里町にある宿へ。 お世話になったロッジの名は「旅人の宿・風景画」です。 アウトドア関連の会社に勤めていた山下さんがこの地にひかれ、北海道に移住したのは10年前のこと。 そして自ら設計建築し、旅人を迎えるための宿を始めたのだそうです。 宿の名前を「風景画」とした理由は、2階に上がるとわかります。 それは、壁一面が窓になっており、その窓がまるで額縁のように風景を切り取るから。 窓から見える斜里岳は、まさに風景画のような美しさです。 夕食作りは、山下さんご夫妻の共同作業。 素朴ながらも、できるかぎり地元の食材を使い、心がこもった手作りの料理です。 翌朝、自然ガイドでもあるご主人の案内で山の中へ。 目指すは神の湖・摩周湖の力がもたらす奇跡の場所です。 雪深い道も歩けるスノーシューを装着し、森の奥へと進みます。 木が骨組みとなって天然のかまくらができている場所、森を流れる川に氷のオブジェ。 自然の恵みを目にしながら3時間ほど歩いた2人の目の前に表れたのが、「神の子池」です。 静かに、蒼い水をたたえる「神の子池」。 その中には、朽木が横たわっています。 実はこの池の源は摩周湖。 こんこんと湧く伏流水は、1日1万2千トンもの湧水量を誇り、水温は年間を通じてほぼ8度に保たれています。 神の湖・摩周湖の子どものようだからと、ここは「神の子池」と呼ばれているのです。 それは、地球が作り出した奇跡の場所です。 右京さんは、再び北海道の大地を走り始めました。 まだ見ぬ神秘の絶景がそこに待っているから。 それは、知床の深い森です。 2月14日放送分 スペイン西部、イベリア半島を南北に走る1本の道を、人は「銀の道」と呼びます。 およそ2千年前、古代ローマ人によって作られた軍事用の道。 その名の由来は諸説ありますが、古くから人を運び、物を運び、スペインの歴史そのものが刻まれた道なのです。 冬のスペインを訪れるのは初めてだという近藤正臣さんが、「銀の道」の終着地セビーリャを目指します。 <「銀の道」旧街道沿い> 「銀の道」沿いの旧道脇に立っているのは、「ミリアリオ」と呼ばれる古代ローマ時代の道しるべ。 かつてイベリア半島の中心都市であったメリダから、1マイル(古代ローマ時代=約1.5km)おきに置かれていたものだそうです。 近藤さんが立ち寄ったのは、とある羊小屋。 羊飼いのおじさんに「いいものを見せてあげるよ」と、小屋の中へ案内されると、そこには太い石の柱が何本も。 そう、なんとあの古代ローマ時代の道しるべが、羊小屋の大黒柱に変わってしまっていたのです!近藤さんが立ち寄った羊小屋はおよそ400年前に建てられたそうですが、どうやらその時、道しるべをあちこちから持って来て柱に利用してしまったらしいのです。 近藤さん、思わず「そんなことしちゃダメなんじゃないの?」と聞きますが、おじさんは「この羊小屋が建てられたのはすごく昔のことだから、よくわからないよ」とのこと。 そりゃそうなんですけど… <カセレス> 中世の貴族の住宅群がほぼ当時のまま残る旧市街は、その街並の美しさから、世界文化遺産に登録されています。 近藤さんは、名物を求めてカセレス郊外にある「ラ・ハリージャ」へ。 ここは、伝統的な手法でチーズを作り続けている工房です。 その作り方は、乾燥させた朝鮮アザミの花から作った天然の凝固剤を使って羊のミルクを固め、1つ1つ丁寧に型に詰めて、高い湿度を保った冷蔵庫で2ヶ月熟成させるというもの。 そうしてできあがるのが、名物、トルタ・デル・カサールです。 工房の方は「世界一おいしいチーズですよ」と言うのですが、実は近藤さん、チーズが大嫌い。 口に入れるまでにちょっと時間がかかりましたが、思い切って…!さて、「世界一おいしいチーズ」は、近藤さんのチーズ嫌いを克服させることができるでしょうか? 世界遺産の町、カセレスが最も美しいのは、夜かもしれません。 そこで近藤さんは夜の町を散策。 町の中心にある広場に出てみると、教会の塔の上にコウノトリを発見しました。 通常、冬はアフリカで過ごし、春再び戻ってくるはずのコウノトリ。 今ではすっかりここに住みついているようです。 ドライブ中、巣はいくつも見たけれど、中に本物がいるのは初めて見たと言う近藤さん。 世界遺産の町での、思いもかけない出会いでした。 <メリダ> 「銀の道」を何かすること1時間。 「小さなローマ」と讃えられる町、メリダです。 まるで遺跡の中にあるかのようなその町で近藤さんが訪れたのは、およそ6千人を収容できたという、半円形のローマ劇場。 近藤さん、思わずシェイクスピア(?)のお芝居のセリフを絶叫。 ナレーションの中村雅俊さんも、思わず「その気持ち、わかる!」と言ってしまうほどのはしゃぎっぷりを見せていただきました。 <モネステリオ> 再び「銀の道」を走り出した近藤さんの目に飛び込んできたのは「デエサ」と呼ばれる樫の木林。 広大なドングリの林には、たくさんのイベリコ豚が放し飼いにされています。 冬の時期、ドングリだけを食べさせて、さらに厳しい基準をパスしたイベリコ豚のみ、最高の生ハム「ベジョータ」になるのだそうです。 たくさんのイベリコ豚に囲まれた近藤さん、何をしているかと思えば、何と豚の大事な食料であるドングリを拾っていました。 そしてそのドングリをパクリ。 どうやらこの林のドングリ、近藤さんが子どもの頃に食べた椎の実と同じ味がするのだとか。 「この豚たち、こんなにおいしいドングリ食べてるんだ…」と納得の近藤さん。 …となれば、生ハムも絶対おいしいはず!と、町にあるバル・レストランへ。 そこに、最高級の生ハムの最高の食べ方があるというのです。 最高級の生ハム「ハモン・イベリコ・ベジョータ」ができるまでには、3年という時間が費やされます。 その生ハムをおいしくいただくには、切り方がとても重要なのだそうです。 レストランテ・マジョルカのデメトリオさんは、スペインの生ハム切りコンテストで優勝した達人。 その見事な包丁さばきは、まさに職人技。 近藤さんも待ちきれません。 ところがデメトリオさん、生ハムは出してくれたものの、フォークがない。 まさか、見るだけ…?と、心配になる近藤さん。 実は生ハムは、手で食べるのがスペイン流。 最高級の生ハム、お味はいかがでしょうか? <セビーリャ> 「銀の道」の終着点、セビーリャ。 ローマ時代、大航海時代と、貿易の重要な拠点として発展しました。 シンボルの「ヒラルダの塔」がある大聖堂は、世界遺産に登録されています。 「銀の道」を走り終えた近藤さんが最後に向かったところ。 それは、夜のバル。 夜の1時過ぎだというのに、皆さんフラメンコを踊ったりお酒を飲んだりで大盛り上がり。 スペインの、長く賑やかな夜はまだまだ続きそうです。 2月7日放送分 スペイン西部、イベリア半島を南北に走る1本の道を、人は「銀の道」と呼びます。 その名の由来は諸説ありますが、古くから人を運び、物を運び、スペインの歴史そのものが刻まれた「銀の道」。 冬のスペインを訪れるのは初めてだという近藤正臣さんが、ヒホンからセビーリャまでのおよそ820kmの道のりを走ります。 <ヒホン> 「銀の道」の起点は、カンタブリア海に面した町、ヒホン。 この町の名物は、日本人にとって非常になじみ深い食べ物だということを聞き、近藤さんは一軒のバルへ向かいました。 お店の方が「名物のオリシオがあるわよ」と出してくれたのは、なんとウニ。 しかも茹でたウニです。 ヒホン流のウニの食べ方は、丸ごと海水で茹でるというもの。 「生で食べた方がおいしいのに、もったいない!」と言いつつ、近藤さん、しっかり完食です。 <ブエニョ> スペイン北西部、人口130人ほどの小さな村、ブエニョ。 村を歩く近藤さんが見つけた不思議な建物は、「オレオ」と呼ばれる高床式の倉庫。 雨が多いスペイン北西部で、穀物を湿気から守るために生まれたもので、古い物では数百年ほど経つそうですが、未だに現役。 まるで頑固なおじいさんのような佇まいです。 引き続き村を散策していた近藤さん、ようやく村人のおばさんを発見。 勇気を出して「日本から来ました」と話しかけてみると、「はいはい、よくいらっしゃいました」と、つれない態度で逃げられてしまいました。 歩き去るおばさんの足音がぽこぽこと響きます。 「木靴…?」と不思議に思った近藤さん、めげずにおばさんの後を付いて行ってみることに。 しばらくすると、そのおばさんのご主人と思われる、木靴を履いたおじさんを発見。 お話を伺ってみることにしました。 「マドレーニャ」と呼ばれる木靴は、雨の多いこの地域だからこそ生まれた生活必需品。 ぬかるみの所を歩きやすいし、足がとても暖かいのだそうです。 どうしても木靴が欲しくなってしまった近藤さん。 さて、旅の間に見つけることはできるでしょうか? <レオン> サンティアゴへと続くかの有名な「巡礼の道」と「銀の道」が交差する、古くからの要衝レオン。 旧市街は、10世紀に造られた城壁に囲まれています。 町のランドマークは、レオン大聖堂。 13世紀に建造された、ゴシック建築の傑作です。 中へ入った近藤さんが目にしたのは、壁一面に施された、700枚を越すステンドグラス。 息を飲むその美しさは、ただただ「すごい」の一言です。 マヨール広場では、市が立っていました。 冬のヨーロッパ名物、焼き栗やみかんなど、買い物に夢中の近藤さんでしたが、偶然、木靴を履いているおばあちゃんを発見!聞くと、お店の場所を案内してくださるというので、お言葉に甘えることにしました。 教えられたのは、一見普通の靴屋さん。 意を決してお店に入ってみると…ありました!たくさんの木靴です。 中には豪華な彫刻が施された木靴も。 近藤さんは「彫刻は誰に教えられたわけでもなく、自力で学んだんだよ」と教えてくれた、御年80歳のアベリーノさんが丹念に彫り上げた木靴を迷わずお買い上げです。 念願の木靴の履き心地はいかがでしょうか? <ポルトガル国境> 近藤さんは「銀の道」を外れてちょっと寄り道。 ポルトガルとの国境を目指すことにしました。 車を走らせる近藤さんが思わず通り過ぎてしまった「セグラ橋」が、スペインとポルトガルの国境。 ということで、改めて橋の上へ。 2つの国境をまたいだ近藤さん、「俺は今2つの国にいるんだぞ!」と思わずピース。 まるで子どもみたい…ですが、わかりますよね、その気持ち。 <セグラ(ポルトガル)> 橋の上からふとポルトガルの方を見ると、丘の上に小さな村が見えました。 ポルトガルに入って最初の村です。 近藤さんは、ためらうことなくその村へ。 初めて出会ったポルトガルの村、セグラです。 近藤さんは、国境から見えた教会へ。 たどり着くと、そこには日没を待つおじさんたちがいました。 「ちょっと寒いよ」と言うおじさんたちと一緒に、ベンチに座って夕陽を眺めます。 翌日、近藤さんは再び「銀の道」を走り出しました。 終着点のセビーリャまでは、およそ300kmです。 1月31日放送分 江戸時代後期、新潟の商人・鈴木牧之が1冊の本を著しました。 雪国の暮らしを記した「北越雪譜」には人々の知恵と文化が綴られ、当時「里見八犬伝」と並ぶ大ベストセラーとなりました。 それから170年。 雪国の暮らしぶりはどう変わったのでしょうか?新潟県新発田市出身の三田村邦彦さんが見た、現代の「北越雪譜」の旅の始まりです。 <新潟県十日町市> 日本有数の豪雪地帯、新潟県十日町市。 旅の始まりは、松之山温泉。 草津、有馬と並んで「日本三大薬湯」の1つに数えられる名湯です。 湯煙漂う温泉街も、今はすっかり雪の中。 雪が降っている時期にここを訪れるのは初めてだという三田村さん、街を歩いていると、騎馬に担がれた2人の男性に出会いました。 「お婿さんが投げられる」というのですが…?「婿投げ」は、この地域に300年ほど前から伝わるお祭りで、前年結婚したお婿さんが、高さ5m以上のお堂の上から放り投げられるというもの。 もともとは、よそ者に集落の娘を取られた腹いせに婿を投げたのが始まりだとされ、お嫁さんが雪の中からお婿さんを助け出すことで、2人の絆がより深くなるよう願う行事なのです。 三田村さんがお話を伺った関根さんも、放り投げられて雪まみれ。 無事旦那さまを助け出した奥様、「旦那さまが投げられていかがでしたか?」と聞かれ、「素敵でした」…お2人の絆はますます深まったようです。 いつまでもお幸せに! 松之山は、日本有数の豪雪地帯です。 特に、昭和56年と59年には、山間部で6mを超す記録的な積雪となりました。 ここで暮らす人々は、日々、雪との格闘です。 三田村さんは、雪かきをしていた方にお話を伺ってみました。 ご自宅に案内してくれた丸山さん、屋根には3mの雪が積もったこともあるのだそうです。 外装に多少手を加えてあるとはいえ、築100年の立派なお宅。 太い梁や柱が、過去の豪雪に耐えてきたのです。 ひとやすみさせていただき、奥様が作ったというおかずまでいただいてしまった三田村さん。 そろそろ今日の宿へ向かいましょう。 三田村さんの今夜の宿は、一軒まるまる借りられる古い貸し民家。 雪国の暮らしを体験してみよう、というわけです。 この日の外気は2度。 とにかく寒い!!そこで三田村さんは、囲炉裏に火を入れることにしたのですが、問題発生!杉の枝や薪が燃える煙で家の中が真っ白になってしまったのです。 暖を取ったのに窓を開けなきゃいけないなんて、雪国の暮らしは楽じゃありません。 ここでの泊まりは自炊が基本。 新潟に来たからには、魚沼産のコシヒカリでしょう!ということで、薪を割って、お釜でごはんを炊きます。 待つこと40分、ほかほか、つやつやのごはんが炊けました。 おかずは先ほど丸山さんからいただいたもの。 サトイモやニンジン、ゴボウなどを煮てとろみをつけた、この地方の郷土料理「のっぺ汁」を温め、それをごはんにかけるのが、三田村流・おいしいのっぺ汁の食べ方です。 三田村さん、思わず「うまい!」。 心も体も温まる、おいしい新潟の味です。 <新潟県津南町・長野県栄村> 新潟県から長野県へ。 三田村さんが向かうのは、豪雪地帯の秘境、秋山郷です。 秋山郷は、平成18年、記録的な豪雪に見舞われ、唯一のライフラインである国道405号線が1ヶ月にわたり通行止めになり、13の集落が雪の中に孤立しました。 今年は、例年よりだいぶ雪が少ないようです。 秋山郷には、信号が1つもありません。 三田村さんがゆっくりと車を走らせていると、牛乳パックを1本持って歩いている人に出会いました。 三田村さん、「牛乳配達をしてるんです」とおっしゃる、お仕事中の阿部さんに付いて行くことにしました。 地元出身の阿部さんの本業は、商品の卸業。 しかし一般家庭からお願いされると、配達料なしで、食料品から電化製品まで、あらゆるものをお届けしているのだとか。 「待っていてくれる人がいるから、雪が降っても、腰まで雪に埋もれても届けなきゃいけない」と語る阿部さん。 助け合って暮らす、雪国の温かさです。 旅の終わりに三田村さんは、秘境・秋山郷の中でも最も美しい場所へと向かいます。 そこには、新潟県出身の三田村さんも見たことがない絶景が広がっていました。 1月24日放送分 元フジテレビの中村江里子さんと、元TBSの雨宮塔子さん。 現在パリに住むお2人が親しくなったのは、ごく最近のことなのだそうです。 江里子さんの思い出がいっぱいつまった場所、そして塔子さんが長年憧れていた美しき礼拝堂。 愛しのコート・ダジュールで、お2人を待ち受けていたものとは…? <ニース> この日、ニースは大荒れ。 実は江里子さん、ご家族に「嵐を呼ぶ女」と言われ、ここぞという時に必ずお天気が悪くなってしまうのだとか。 「今日の雨も私のせいかも…」と落ち込む江里子さんですが、気を取り直してニースの街を散策してみましょう! 街で最もにぎやかなのが、旧市街の朝市。 品揃えも豊富です。 パリではよく市場で買い物をするというお2人ですが、この朝市には、ニースでしかお目にかかれないものもあるのです。 お2人が見つけたのは「ソッカ」という大きなお好み焼きのようなもの。 ニースの名物料理で、小麦粉ではなくエジプト原産のひよこ豆をひいた粉に、水、オリーブオイル、塩を混ぜた生地を、250度の窯で8分間焼いてできあがりです。 さて問題は、そのお味。 どうやらソッカを売る名物おばさんのテレザさんが、豪快にコショウを振りかけすぎてしまったようです。 テレザさんは「日本人は辛いのが好きでしょ?」と、涼しい顔。 とても元気なテレザさん、「日本人男性が結婚してくれたら、エネルギーの全てを捧げるわ」とのこと。 元気をもらいたい独身男性の皆さん、ニースの朝市でテレザさんにプロポーズしてみては? <ヴァンス> 今回お2人が最も楽しみにしていた場所、それは、ある画家が手がけた礼拝堂です。 色彩と構図を徹底的に追及した、20世紀を代表する画家、アンリ・マティス。 その晩年の代表作である礼拝堂は、マティスが大好きだという塔子さんが長年望んでいながら「最後の砦」として、ずっと訪れずにいた場所でした。 中世の佇まいが残る街、ヴァンスはマティスが晩年の一時期を過ごした街でもあります。 その街はずれにさりげなく建っているのが「ロザリオ礼拝堂」です。 休館中だったため、予約を入れ、管理しているお隣の修道院に開けてもらうことになっていたのですが、担当の方は「問題が起きました。 中は無理です」の一点張り。 本当は終わっているはずだった礼拝堂の中のペンキ塗りに、思いのほか時間がかかってしまっているというのです。 あきらめきれないお2人は、礼拝堂の外へ。 目の前に憧れの礼拝堂があるというのに「絶対にダメです」とつれない返事。 結局お2人は予定を変更し、2日後に出直すことにしました。 <サン・ポール・ド・ヴァンス> サン・ポール・ド・ヴァンスは、ヴァンスの隣町。 中世の家並みが保存されており、コート・ダジュールの中でもひときわ美しい町、そして江里子さんのご主人の故郷でもあるのです。 江里子さんが塔子さんを連れて来たかったのが「ラ・コロンブ・ドール」というホテル。 現在は休業中ですが、かつてピカソやブラックら、名だたる画家たちが盛んに出入りしていた宿。 その時彼らが残して行った作品がいたる所に飾られているすごいホテルなのです。 塔子さん、残念!宿泊は、またの機会ということで… 街を歩いていると、江里子さんが結婚式当日、ウエディングドレス姿でくぐり、街なかへと入っていったという門があります。 何とその門も工事中!お2人の旅はトラブル続きです。 お2人は回り道して、教会に至る坂道へ。 ここは、江里子さんがドレスを着てお父様と共に歩いた、忘れることのできない道。 父と娘、そして家族がお互いのことを想う、美しい時間が流れていた、江里子さんにとってはとても大切な場所です。 坂道を登りきると、江里子さんが式を挙げた「サン・ポール・ド・ヴァンス参事会教会」に突き当たります。 完成したのは12世紀とも言われる古い教会。 その後改修を繰り返すものの、今も中世の姿をとどめる美しい教会です。 <ヴァンス> 旅の最終日、お2人は再びあの礼拝堂へ。 ドキドキしながら待つお2人のもとに、担当の方が笑顔で現れました。 どうやら中を見せていただけるようです。 ロザリオ礼拝堂は、マティスが晩年、看護を受けた女性の依頼に応え、手がけたものです。 4年近くの歳月を費やし、まさに心血を注いですべてのデザインに取り組みました。 ステンドグラスの色は、青、緑、黄色のわずか3色。 青は空と海を、緑は植物を、そして黄色は太陽を表しています。 マティスは、この礼拝堂のためにアトリエを改修。 長い棒(筆)を使い、巨大な壁画の制作に取り組みました。 試行錯誤の末に生まれた3点のタイル画は、一切の無駄がそぎ落とされています。 キリストの受難の過程を描いた「十字架の動行」は、何度も何度も描き直し、3年以上の歳月を費やしたのです。 そしてお2人が、この礼拝堂の中で最もひかれたのが「聖母子」。 幼いイエスを抱いた、聖母マリアです。 温かい気持ちが、体の中から満ちてくるような絵、ステンドグラスを通る柔らかな光。 モノクロームの絵にほのかに映る色は、色彩の魔術師と呼ばれたマティスの真髄ともいえる美しさです。 旅を終えたお2人は、共に言いました。 「年を重ねて、また来てみたい」と。 1月17日放送分 元フジテレビの中村江里子さんと、元TBSの雨宮塔子さん。 現在パリに住むお2人が親しくなったのは、ごく最近のことなのだそうです。 南フランスは何度か訪れているというお2人ですが、それぞれがオススメの場所を案内しながらニースを目指します。 初めての二人旅、その先に待っていたものとは… <エクス・アン・プロヴァンス> 超高速鉄道TGVでおよそ3時間。 エクス・アン・プロヴァンスは、2千年以上の歴史を誇る街です。 湧き水が多いこの街は、夏には豊かな緑に包まれます。 舗道には、「C」のマークが。 ここエクス・アン・プロヴァンスは、近代絵画の父、ポール・セザンヌの故郷。 「C」のマークをたどっていくと、アトリエなど様々なセザンヌゆかりの場所に行き当たる、というわけです。 お2人がここを訪れたのは、街がクリスマス一色のころ。 街の一角に、何やら皆さんが真剣に物色している出店がありました。 ずらりと並んでいるのは「サントン人形」。 この地方で採れる粘土で焼き上げた後着色して作られ、大きさは2〜30cmほど。 フランス革命で人形を飾ることを禁止された際、隠れて行うために小さくしたのが起源なのだそうです。 クリスマスの前後に、思い思いのサントン人形を家に飾ることが、プロヴァンスの人々の楽しみ。 3年前から人形を飾り始めたという江里子さんは、早速お買い物モードに突入。 全部で10体のお買い上げです。 実際に人形を飾っているところが見たいというお2人は、お店の方にコレクターのシリルさんを紹介していただき、早速ご自宅へ。 ごく普通の農家だと聞いていたのですが、そのスケールにびっくり。 何と、立体感を出すために壁に穴まであけてしまっているのです。 幅4m。 祖父の代から70年にもわたって集め続けたという人形だけでなく、草木や土を使って、一昔前のプロヴァンスの牧歌的な暮らしを再現しています。 デザインは毎年替え、今年は3日間かけて作り上げたというシリルさん。 サントン人形は、世代を超えて受け継がれるプロヴァンスの伝統なのです。 エクス・アン・プロヴァンスから東へと伸びる道は、絶好のドライブルートです。 その名も「セザンヌの道」。 彼が愛したサント・ヴィクトワール山へと続く道です。 セザンヌは、画材を抱えて何度もこの道を通り、個性的な姿を見せるサント・ヴィクトワール山を80枚以上も描きました。 お2人は車を停め、さらに近づいてみることに。 荒々しい岩肌を見せるその姿に圧倒されます。 <コート・ダジュール> お2人の車は、プロヴァンスからコート・ダジュールの山の中へ。 向かっているのは、江里子さんが「もう一度訪れたい」とずっと思っていた村です。 グルドンは、中世の頃、異民族の侵入から逃れるために、あえて崖の上の難所に作られた村。 標高720m、堅牢な石造りの家が並びます。 江里子さんは早速思い出の場所へ。 実はここ、今から10年ほど前、現在のご主人に連れて来てもらって、とても感動した場所なのだとか。 お2人の目の前に広がるのは、恋に落ちた江里子さんが見た絶景です。 今夜の宿は、塔子さんが以前取材で訪れながら、ランチしか食べられなかった因縁の宿「オステルリー・ドゥ・ラベイ・ドゥ・ラ・セール」。 18世紀のブルジョワの邸宅を使用した、のどかでアットホームなこのホテルに、いつかゆっくり来たいとずっと思っていたという塔子さん。 その夢がかないます。 用意されたのは2部屋。 お2人はそれぞれどちらかを選ばなくてはなりません。 1つは、教会広場と市場が見える「市場に面したヒマラヤ杉の部屋」、そしてもう1つは、軍人出身の英雄ド・ゴール大統領が、回想録を書くために何度も宿泊したという「ド・ゴール将軍の部屋」。 迷いに迷ったお2人ですが、塔子さんは「かわいらしくてほっとする」という理由でヒマラヤ杉の部屋を、江里子さんは「マスキュランなものが好き」という理由でド・ゴール将軍の部屋を選びました。 原稿用紙を持って来たという江里子さん、ド・ゴールが回想録を書いた部屋で、どんな文章が生まれたのでしょうか? この宿のご自慢は、夕食。 フランス屈指の名シェフ、アラン・デュカス氏がプロデュースする、シンプルで素材の味をいかした素朴な料理が並びます。 翌日お2人は、南フランスのリゾート地、ニースへ向かいます。 しかし天気は大荒れ。 ちょっと、嫌な予感です… 1月10日放送分 今から3年前、国道1号線を北上し、パースからシャークベイまでの西海岸を旅した勝村政信さん。 その壮大な絶景に魅せられ、いつしかふくらんだ夢が「国道1号線を走り、オーストラリア大陸を1週してみたい!」。 今回は東海岸、ブリスベンからケアンズまでのおよそ2500kmを走ります。 目指すは、2つの世界遺産です。 <タウンズビルとその周辺> タウンズビル周辺は、古くから砂糖の産地です。 19世紀末、この辺りのサトウキビ畑で働くために、多くの日本人が移住してきました。 彼らのために1896年、オーストラリアで最初の日本領事館がタウンズビルに作られたのです。 1908年まで使われていたその建物が、今も残されています。 勝村さんは、旧日本領事館を訪ねました。 建物は、この地方特有の建築、クイーンズランダー様式。 木造2階建てで、1階はガレージと納屋になっており、住居は2階部分のみ。 夏の暑さをしのぐため、高床式住居になっているのです。 現在こちらにお住まいのトンノワさんご夫妻は、当時ボロボロだったこの建物を、15年以上かけて自分たちで少しずつ修理してきたのだそうです。 この辺りには、とても珍しい動物が生息しています。 オーストラリア東部とタスマニアにしかいないその動物が見たいと、勝村さんは国道1号線を外れてちょっと寄り道。 その動物が棲みついているという釣り堀で、オーナーのピーターさんに「絶対に大きな声を出さないで」と注意された勝村さん。 とても警戒心が強いというその動物とは…カモノハシです。 哺乳類でありながら卵を産む珍しい動物で、水中で餌を捕獲するため、2分に1回ほど呼吸のために水面に上がってくるのです。 その間、わずか10秒。 勝村さんは、カモノハシを見ることができたのでしょうか? <ケアンズ> ブリスベンから1700km、ケアンズの町です。 勝村さんが向かったのは、1つ目の世界遺産。 ケアンズ周辺には、90万ヘクタールにも及ぶ広大な熱帯雨林が広がっており、世界最古の熱帯雨林の1つと言われています。 そしてここは、古くから先住民アボリジニたちが暮らしてきた森。 彼らは食料や薬など、すべてのものをこの森で調達してきたのだと言います。 勝村さんは、ガイドのロバートさんと共にその森へ。 燃料や石けんとして使うという珍しい植物や、別の土地からやってきた人に情報を伝えるための壁画が描かれた洞窟、そしてアボリジニたちが「教会のような神聖な場所」と崇めるイチジクの木を見せていただきます。 そこは、神々しくさえある太古の森です。 森を抜けて海に出ると、もう1つの世界遺産が広がっています。 ケープトリビュレーションは、熱帯雨林とグレートバリアリーフの2つの世界遺産が出会う場所です。 勝村さんは、水上飛行機で世界最大の珊瑚礁、グレートバリアリーフへ。 全長2千km以上、日本列島がすっぽり入ってしまう広さに珊瑚が群生しているのです。 勝村さんが向かったのは、小さな砂の島サドブリケイ島。 この日1時間だけ、勝村さんの貸し切りとなりました。 目の前に広がるのはエメラルドグリーンの海と水平線のみ。 夢のような贅沢な時間です。 5分も泳ぐと、そこは一面の珊瑚礁。 グレートバリアリーフには、400種類以上の珊瑚が生息し、その周りには1500種類以上の魚が生息していると言われています。 そこはまさに、珊瑚の海。 ブリスベンからケアンズ、およそ2500kmもの距離を走り切った勝村さん。 果たして、晴れてオーストラリアを1周できるのはいつになるでしょうか…? 1月3日放送分 今から3年前、国道1号線を北上し、パースからシャークベイまでの西海岸を旅した勝村政信さん。 その壮大な絶景に魅せられ、いつしかふくらんだ夢は「国道1号線を走り、オーストラリア大陸を1週してみたい!」。 今回は東海岸、ブリスベンからケアンズまでのおよそ2500kmを走ります。 そのゴールに待っていたのは… <クイーンズランド州> ブリスベンの町から走り始めた勝村さん、前回の旅で唯一の心残りがありました。 それは、コアラを見なかったこと。 「なんでみんなコアラを抱っこするんだろう?」そんなことを考えながら走っていると、勝村さん、「この国を代表する動物なんだから、もうちょっと愛らしく描いていただきたい」と思ってしまうほど微妙な感じのコアラの看板を発見しました。 実はこれ、「コアラ注意」の道路標識。 クイーンズランド州は、オーストラリアの中でも最も野生のコアラの生息数が多い場所なのです。 運が良ければ「野良コアラ」を見つけられるはず!…と、頑張って探すこと30分。 勝村さん、残念ながら野生のコアラを見つけることはできませんでした。 オーストラリアでは、野生動物はとても身近な存在です。 しかし近年問題になっているのが、人間が飼っているペットに襲われる動物たちが増えていること。 その野生動物の保護活動を支えているのが、たくさんのボランティアの方々です。 勝村さんはその中の1人、マリリン・スプレッターさんを訪ねました。 マリリンさんは現在、ご自宅で2匹のコアラの赤ちゃんを育てています。 コアラは新鮮なユーカリの葉しか食べないため、2日に1度、自生しているユーカリの葉を取りに行くのだそうです。 コアラにかかる費用はすべてマリリンさんの自己負担。 ここで2.5kgになるまで育てた後に保護施設に預けられ、自分で餌を捕る訓練を受けてようやく野生に返されるのです。 勝村さん、いよいよ念願のコアラとご対面。 初めてコアラを抱っこし、ミルクをあげた感想は…? 勝村さんは国道1号線を北上します。 走ること2時間、勝村さんの目に飛び込んできたのは「Driver Reviver」(ドライバー・リバイバー)の看板。 直訳すると「運転手を生き返らせる人」…?実はここ、長期休暇の期間だけオープンする、ドライバーのための休憩所。 少しでも車の事故を減らそうと、地元の人たちがボランティアでコーヒーやお菓子の無料サービスを行っているのです。 週末の3日間で500人もの人々が利用するというこの施設でコーヒーをご馳走になり、すっかり生き返った勝村さん、再び1号線を走ります。 <フレーザー島(クイーンズランド州)> 翌日、勝村さんがフェリーで向かったのは、世界遺産の島、フレーザー島。 オーストラリア本土から流れ出た砂が、数十万年という気が遠くなるような年月をかけて堆積してできた世界最大の砂の島です。 しかも不思議なのは、不毛なはずの砂の上に亜熱帯雨林が生い茂っていること。 これは、砂の堆積の仕方や気候条件が複雑に絡み合い、植物と地面との栄養循環が徐々に形成されていったからだと考えられています。 車が走るのも当然砂の上。 悪路を走ること1時間、ようやく反対側のビーチに出ました。 75マイルビーチです。 およそ120kmにわたって砂浜が続くこの道の別名は「ザ・ハイウェイ」。 クイーンズランド州のれっきとした公道なのです。 さらにある時は、ビーチは滑走路に早変わり。 シドニーやブリスベンからのツアー客がセスナ機でやってくるのだそうです。 フレーザー島には、湖まであるのです。 マッケンジー湖は、砂丘と砂丘の間のくぼみに雨水が貯まってできた湖。 この辺りは大気汚染が少なく、雨水がきれいなため、湖の水は透明度がとても高いのです。 勝村さん、しばしリゾート気分で泳いでいると、目の前に水着美女が!「来てよかったー」って、水着美女に会えたから、じゃなくて、フレーザー島が素晴らしい場所だから、ですよね?勝村さん。 <ロックハンプトン> 20世紀初頭の建物が今なお残る町、ロックハンプトン。 この町は別名「ビーフ・キャピタル」と呼ばれ、オージービーフの産地として有名な場所です。 …と聞いて通り過ぎるわけにはいかない勝村さん、一軒のお肉屋さんへ。 お店のお兄さんオススメのTボーンステーキを1kgお買い上げ。 これで約12ドルほど。 あまりの安さにびっくりです。 お肉を買ったはいいものの、そのお肉をどうしましょう?そこで勝村さんが向かったのはとある公園。 休日によくバーベキューを楽しむオーストラリアでは、公園に無料で使える電気式グリルが備え付けられているのです。 というわけで、早速お肉を焼き始めた勝村さん、「公園でステーキを焼く」とはなかなかシュールな光景ですが、お肉が焼けたようです。 味付けはシンプルに塩と胡椒で。 さて、お味はいかがでしょうか? オーストラリア、国道1号線の旅はまだまだ続きます。 ゴールのケアンズまで、あと1200km。 12月27日放送分 ボナセーラ!イタ〜リア!! 今月の地球街道は、4週にわたりイタリアを大特集! 4週目は、女優・高島礼子さんがイタリア中部の道カッシア街道を走り、悠久の歴史が降り積もる永遠の都・ローマを目指します。 <チヴィタ・ディ・バーニョレッジョ> ローマを目指す高島さん、車はラツィオ州へと入りました。 高島さんの目に飛び込んで来たのは、雲海の中、そびえるように立つ陸の孤島という驚きの風景。 一体どうなっているのか気になった高島さんは、村に入ってみることに。 まるで絵の中に入り込んで行くかのように橋を渡り、村の入り口へ… 断崖の村、チヴィタ・ディ・バーニョレッジョは、元々は1つの大きな町でした。 しかし、17世紀に大地震が起きると、粘土質の滑りやすい地形から大規模な地滑りを起こし、陸の孤島となってしまったのです。 以来村へと渡るには、一本の橋だけが命綱。 近年は村を支える崖の崩落が続き「死に往く村」と言われていますが、この美しい村を守ろうと、イタリアの資産家たちが家を買い、村に残るおよそ20人の村人たちはお土産屋さんなどの観光収入で生計を立てています。 「ここで生まれ育ったのに、どうしてここを愛さずにいられるでしょう」と語る村の人々。 チヴィタ・ディ・バーニョレッジョは、生き続ける天空の村です。 <スートリ> スートリの街に入りました。 ローマまでは、あと50kmほど。 ここに、カッシア街道沿いに残る数少ない古代ローマの遺構があります。 スートリ円形劇場は、およそ2千年前、ローマ帝国時代に築かれました。 中へ入った高島さんが気になったのは、劇場の客席部分に継ぎ目がないこと。 ということは…?実は3千人が収容できたといわれるこの劇場、なんとこの地にあった凝灰岩の大きな山から削りだして造られたもの。 一枚岩の、希有で壮大な劇場なのです。 <ローマ> フィレンツェとローマをつなぐ道、カッシア街道。 その終点が、ミルヴィオ橋です。 古代ローマ時代から続く街道の終点ですが、記念碑も何もなく、かなりさっぱりした感じの橋、でした。 フォロ・ロマーノは、19世紀の発掘以来、ここが古代ローマ時代の民主政治の中心であったことを、現在に伝えています。 そのフォロ・ロマーノと通りを挟んだ反対側にあるのが、フォリ・インペリアーリ。 ローマ帝国時代に造られたものですが、本格的に発掘が始まったのは1995年のこと。 その半分が未だ土の中です。 高島さんは、遺跡を触ってみることに。 まさに、イタリア2000年の歴史に「触れる」旅。 ローマは街のいたる所に古代の遺跡が残り、その遺跡もまた、現在と共存しているのです。 遺跡の街は、映画の街でもあります。 スペイン階段は、あの女優がまばゆい輝きを放った場所。 「ローマ」で「あの女優」といえば…そう、「ローマの休日」ですよね。 オードリー・ヘップバーン演じるアン王女と、グレゴリー・ペック扮する新聞記者が繰り広げる、たった一日の恋のお話。 公開から50年以上経った今でも色褪せることのない不朽の名作です。 では、高島さんもその街の中へ。 ジョリッティは、老舗の大きなジェラート屋さん。 「ローマに来たら絶対に行く!」と決めていたところです。 人気の秘密は、新鮮なフルーツやミルクをたっぷり使ったなめらかな作りたてのジェラートが、すぐに店頭に並ぶこと。 高島さん、50種類以上あるジェラートからだいぶ悩んで、ピスタチオ、ダークチョコ、ストロベリーの3種類をセレクト。 生クリームをたっぷり乗せてもらって、初めての本場ジェラートをいただきます!さて、念願のそのお味はいかがでしょうか? 日本のおじさま方は敬遠しがちですが、イタリアでは老いも若きも、ちょっとした幸せを求めてお店にやってきては、ジェラートをおいしそうに食べているのです。 高島さんは、いよいよとっておきの場所へ。 コロンナ宮の大広間は、「ローマの休日」のラストシーン、アン王女の記者会見が行われた場所です。 ヨーロッパ各国を歴訪し、その印象を尋ねられた王女が「何といってもローマです」と答えた、あの場所。 高島さんも、その壇上へ。 しかし、その壇上へ至る階段に、どうしても気になる鉄の玉が…実はこれ、1849年にジャニコロの丘から発射された大砲の玉。 イタリア統一軍とフランス軍が向き合っていた時に、宮殿の窓を破って打ち込まれたものなのだそうです。 ローマの人は風変わりな物が大好きなので、あえて残しているんだとか。 それには高島さんも納得です。 過去と現在、現実と非現実とが複雑に絡み合う街、ローマ。 それこそが、永遠の都と言われるゆえんなのかもしれません。 黄昏時の美しいローマの街並に、高島さんが感じたこととは…? 12月20日放送分 ボナセーラ!イタ〜リア!! 今月の地球街道は、4週にわたりイタリアを大特集! 3・4週目は、女優・高島礼子さんがイタリア中部の美しい丘陵を走る、カッシア街道を旅します。 ルネサンスが興った花の都・フィレンツェから、悠久の歴史が降り積もる永遠の都・ローマへ。 イタリアの文化、芸術の真髄ともいえる都市を巡り、その奥深い美しさを堪能します。 <フィレンツェ> およそ500年前、ルネサンスが発祥した地フィレンツェは、中世以降、偉大な文化や芸術家を育み続ける芸術の街です。 その美しい街を歩く高島さん、向かっているのは街のシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、通称ドゥオーモ。 1296年に着工し、140年以上の歳月をかけて築かれた、ゴシック様式と初期ルネサンス建築を代表する建築です。 「ドゥオーモ」とは、イタリア語で「街を代表する教会堂」のこと。 高さはおよそ100m、ドーム型の屋根には、見晴し台が設けられています。 せっかくフィレンツェまで来たならば…登るしかありませんよね、高島さん。 というわけで、早速出発!暗くて狭い階段を、ひたすら登り続けることおよそ20分、ようやくたどりついた見晴し台からは、世界文化遺産に登録された街並が一望できます。 「バラ色の輝き」と謳われるほど美しいその風景、実は街の美観を損ねないよう、様々な条例が定められているのです。 その1つがパラボラアンテナ。 通りから見えるものは、建物の外観と同じ色に塗らなければならないのだそうです。 違反をすると500ユーロの罰金も。 美しい風景は、住民のたゆまぬ努力によって守られているのです。 高島さんは、ルネサンスの香りが未だ息づく街の中へ。 看板やお店がなければ、まるで中世の街並を車で走っているような不思議な感覚です。 ウフィッツィ美術館は、世界有数にしてイタリア最高の美術館。 そこには、ルネサンス期の名画が数多く残されています。 高島さんのお目当ては、ルネサンスの巨匠・ボッティチェリ作、「ヴィーナスの誕生」。 高島さんが「鳥肌が立つくらい美しい」と絶賛したヴィーナスは、人間の女性賛美を描いた作品であると言われています。 この美術館には、知る人ぞ知る回廊があります。 美術館の裏手から、有名なベッキオ橋の上を抜け、対岸のピッティ宮殿に至るその回廊は、かつてフィレンツェを治めたメディチ家が造らせた秘密通路。 何が秘密かと言いますと、回廊の窓。 中から街の様子を眺めることはできても、外からは見えないよう、マジックミラーになっているのです。 高島さんが一生懸命外に向かって手を振ってみると…? フィレンツェは、ルネサンス時代からの工芸が連綿と続く職人の街でもあります。 高島さんが訪れたのは、イ・モザイチ・ディ・ラストルッチ。 驚異の絵画を作り出す、フィレンツェ・モザイクの工房です。 フィレンツェ・モザイクとは、天然の石が持つ色合いだけを使って作るモザイク画。 その精巧さは、一見すると、油絵具で描かれた絵画のようにしか見えないほどです。 必要な色を持った石に型紙を付けて切り出し、その石をはめ込んで絵を作って行く、息がつまるほど緻密で、気が遠くなるような作業。 絵画と同じ質感や色合いを石で表現する究極の職人技は、1460年代、フィレンツェを支配していたメディチ家の庇護のもと、ほとんど変わらず現代まで続いているのだそうです。 高島さんが「筆では描くことのできない何かが表現されている」と語るフィレンツェ・モザイク。 それは色褪せることのない「永遠の絵画」です。 <モンタルチーノ> いよいよ街の南にあるローマ門を抜け、カッシア街道へ。 フィレンツェの街を抜けると、イタリアワインの産地トスカーナの、美しく広大な大地が広がっています。 ここは、世界有数のワインカントリーです。 高島さんは有名なキャンティ地区を抜け、モンタルチーノにある老舗ワイナリー「コルドルチャ」へ。 ここは、トスカーナの長期熟成ワインとして名をなす「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」の醸造元のひとつです。 「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」は、法律により熟成期間が50か月と定められているワイン。 そのうち最低2年はオーク樽で熟成されます。 高島さんがオーナーのフランチェスコ伯爵に案内していただいたのは、コルドルチャの歴史がつまったヒストリカルセラー。 そこには5万本ものヴィンテージワインが貯蔵されています。 一番古いワインは1960年代初め頃のものだそう。 高島さんの生まれ年のワインは、ここに眠っているのでしょうか?さあ、高島さん、バースデーイヤーワイン探しです! ブルネッロ・ディ・モンタルチーノは、熟成すればするほどその本領を発揮すると讃えられています。 高島さんの生まれ年、1964年のヴィンテージとなると、市場に出回ることはほとんどありません。 伯爵の「ヴィンテージを味わうのは、唯一無二の経験なのです」という言葉からもわかるように、とても特別なワインを味わった高島さん。 一体どんなお味だったのでしょうか…? 翌日高島さんは、再びカッシア街道を走り始めました。 永遠の都・ローマを目指して。 12月13日放送分 ボナセーラ!イタ〜リア!! 今月の地球街道は、4週にわたりイタリアを大特集! 2週めは、俳優・西村和彦さんが、全長574kmのアウレリア街道を走ります。 ローマを出発し、目指すジェノヴァまで、残すところ250km。 そこには、驚きと謎と絶景が待っていました。 <ピサ> トスカーナ州、ピサ。 …と言えば、やっぱり「ピサの斜塔」。 正しくは「ピサ大聖堂・鐘楼」。 西村さんが「やっぱり傾いてる!」と驚いたピサの斜塔は、1173年の着工後、およそ100年経って傾いていることが発覚。 傾きを修正しながら建築を再開し、1360年に完成しました。 傾きは、約5度。 現在も壁のひび割れなどの修復を行っていますが、予約をすれば観光客も塔の上に登ることができるのだそうです。 というわけで西村さん、早速登ってみましょう!…ところが西村さん、なかなかスムーズに進めません。 それもそのはず、なんとピサの斜塔の階段は、1歩目から傾いているのです。 およそ300段の階段を登り、ようやくてっぺんにたどり着いた西村さんの眼前に広がるのは、あのガリレオも眺めたであろうピサの街並。 この鐘楼ができた理由、それは自分たちの街を眺めたかったからではないか?そこには、そんなことを思わせるような美しい街並が広がっています。 <カラーラ> トスカーナ州、カラーラの街並が見えてきました。 山脈を真っ白に染めているのは、雪…ではなく、大理石。 実はカラーラは、世界でも屈指の大理石の産地で、およそ500年前、ミケランジェロが作った「ピエタ」も、ここの大理石を使っているのだそうです。 西村さんは、とある石切り場へ。 見渡す限りの大理石ですが、カラーラにはそんな石切り場が200箇所以上もあるのです。 カラーラの大理石の特徴は、その透き通るような白さ。 その肌触りはまるで刃物のように冷たいのだとか。 「確かに大理石は限りある資源だけど、自分たちにはローマ帝国以前から続く伝統がある」と語る、オーナーのフランコさん。 連綿と受け継がれる大理石の文化を守るのが、カラーラに生きる男の誇りなのです。 <チンクエテッレ> ローマからおよそ450km、世界遺産チンクエテッレにやってきました。 「チンクエテッレ」とは「5つの村」という意味。 リグーリア海に望むほぼ均等に並ぶ5つの村の総称で、険しい断崖にひっそりと佇む、宝石のように美しい村々です。 観光客の車は、村には乗り入れ禁止。 車を止めた西村さんが向かったのは、リオマッジョーレという、色とりどりのブロックをつなげたようなかわいらしい村です。 港へ向かう西村さん、路地を抜けると見えてきたのは紺碧の海と、その入り江に作られた美しい家並み。 それは世界遺産の絶景です。 すっかりこの場所が気に入った西村さん、イタリア人のおじさんが「何やってるの?」と気にするほどの不穏な動き…実はご自身のブログに掲載する写真を、携帯電話で撮っていたのです。 どんな写真が撮れているかは、西村さんのブログでご確認ください。 <ジェノヴァ> 夕暮れのアウレリア街道をひた走る西村さんに、ようやくジェノヴァの灯りが見えてきました。 かつて大西洋航路の拠点として栄えたジェノヴァは、かのコロンブスの生まれ故郷。 イタリアでは「コロンボ」と呼ばれて親しまれ、両親と5人兄弟が過ごした小さな家も残されています。 西村さんが真っ先に訪れたのは、今ジェノヴァで1、2を争う人気のレストラン「トラットリア・デッタ・デル・ブルーチャヴォスキ」。 どうしても食べたいものがあったからです。 それが、ピカッジェ・マッテ・アル・ペースト。 「ジェノヴェーゼ」と呼ばれるバジリコペーストのソースでいただくパスタです。 ペーストの主役は、プラ産の最高級バジリコ。 大の料理好きでパスタをよく作るという西村さんも、ジェノヴェーゼだけは市販のものを使うのだとか。 さて西村さん、本場の味はいかがでしょうか? ジェノヴァ伝統の味を作り出すのが、シェフのマッテオさん。 1862年創業のこちらのレストランを家族で守り続け、5代目にあたるそうです。 実は西村さんのご実家も、150年以上も続くうどん屋さん。 奇しくも東西若旦那のご対面となりました。 そんなご縁で西村さん、本場生パスタの作り方を教わることに。 うどんとは勝手が違い、けっこう腕にくる重労働ですが、日本に帰ってご家族に作ってあげるため、パパは頑張るのです。 ジェノヴァには、明治時代、日本に渡った人物がいました。 画家であり、銅版印刷の権威として政府に請われて来日したエドアルド・キヨッソーネです。 キヨッソーネは、当時の大蔵省印刷局で新しい技術を指導、紙幣や郵便切手のデザインの他、明治天皇をはじめ、多くの肖像画を手がけた人物。 誰もが一度は見たことのある、西郷隆盛の肖像画もキヨッソーネが描いたものです。 エドアルド・キヨッソーネ東洋美術館には、日本を愛した彼が集めた膨大なコレクションが飾られています。 そこで西村さんが見つけたものは、何と西村さんの家紋が入った兜。 ジェノヴァと西村さんをつなぐ、不思議な縁です。 アウレリア街道は、ローマをジェノヴァを結ぶ全長574kmの古い道。 その道を走り終えた西村さん、一体何を感じたでしょうか? 12月6日放送分 ボナセーラ!イタ〜リア!! 今月の地球街道は、4週にわたりイタリアを大特集! 1・2週めは、俳優・西村和彦さんが、ローマと北部の町ジェノヴァを結ぶ全長574kmのアウレリア街道を走ります。 その道には、日本とイタリアの意外なつながりと、驚きの事実が待っていたのです。 <チヴィタヴェッキア> ローマからおよそ70km。 ラツィオ州・チヴィタヴェッキアは、人口5万人ほどの港町。 ローマに近いこともあり、地中海沿岸からたくさんの観光客が訪れます。 このチヴィタヴェッキアこそ、日本と深い関わりがある町なのです。 町を歩く西村さんの前に、サムライの銅像が…支倉常長像です。 仙台藩士・支倉常長は、1613年、通商を目的に、主君・伊達政宗の期待を一身に受け、遣欧使節団を率いて出発しました。 太平洋を渡り、途中スペインで洗礼を受けた常長は、1615年にチヴィタヴェッキアに上陸。 ローマを訪れ、教皇パウロ5世との謁見を果たします。 しかし、真の目的である通商交渉は決裂。 失意のうちに8年間の旅を終え、帰国した常長を待っていたのはキリシタン弾圧という非業の死でした。 イタリアの港町に凛と立つ二本指のサムライ、支倉常長像。 西村さんの目には、どう写ったのでしょうか? そしてこの地にもう1つ、日本と深く関わる場所があります。 日本聖殉教者教会です。 そこにはマリア様のフレスコ画が。 しかしこのマリア様、皆さんが思い浮かべるマリア様とはちょっと違うのです。 …それは、着物姿であること。 畳の上に立ち、お稚児姿のキリストを抱えるその表情は、紛れもなく日本人女性のものです。 周囲の壁に描かれているのは「日本二十六聖人」。 豊臣秀吉の命により捕らえられ、処刑された日本人20名、外国人6名のカトリック信者たちです。 描いたのは、日本におけるフレスコ画の第一人者、長谷川路可。 元々、日本の聖人を記念して建てられたこの教会が1951年に再建された際、殉教者の壁画を描いてほしいという神父のたっての願いで、路可に白羽の矢が立ちました。 路可は修道院に寝起きし、言葉もままならない中、4年の歳月をかけてたった1人で壁画を完成させたのです。 現在、その路可の絵に深刻な問題が発生しています。 専門家の赤外線調査により、ドームの裏側およそ2m四方の漆喰がはがれていることが判明。 海に近いこの教会では、潮風などの影響で壁がひび割れ、フレスコ画に大きなダメージを与えてしまうというのです。 完全修復には莫大な時間とお金が必要なのですが、現在は信者や観光客のお布施だけが頼り。 1日も早い修復が望まれます。 <グロッセート> 西村さんの車は、イタリアいちの農業地帯、トスカーナ州へ。 オリーヴ並木の先にある農園に立ち寄ります。 西村さんを迎えてくれたのは、トスカーナ原産の、大きな角の牛。 そしてその牛を追うのは「ブッテロ」。 いわば、イタリア版カウボーイです。 すると、ちょっと素敵なお兄さんから「乗馬ができるなら、俺たちとかかしゲームをしないか?」という意外な申し出が。 「かかしゲーム」とは、馬に乗って互いに反対側からスタートし、先にかかしの腕に通した布を引き抜いた方が勝ちという、仕事の合間に彼らが行うゲームです。 時代劇で乗馬の機会も多いという西村さん。 ウォーミングアップをし、馬と呼吸を合わせたら…サムライブッテロ西村と、ブッテロ歴7年のマルコの対決!結果はいかに!? 昔ながらの道具を使い、オリーヴオイルを作っているという農園ホテル、ポッジョ・オリヴェートを訪ねました。 ここでは約4千本のオリーヴを栽培しています。 良質のオリーヴオイルを作るには、完熟前に収穫し、その日のうちに加工しなければなりません。 西村さんは、農園のオーナー、エンリコさんに案内してもらい、オイル工場へ。 大きな石臼でオリーヴをすり潰し、ペースト状になったものを丸いシートに敷きつめ、幾重にも重ねていきます。 それに圧力をかけて絞り出し、遠心分離機にかけると、エクストラヴァージンオイルの完成です。 商工会議所でオリーヴオイルの官能試験を担当している奥様のヴァレリアさんに、良いオイルの見極め方を伝授していただきました。 まずオリーヴの香りを感じること。 そして味わうこと。 トスカーナのオイルは、若々しい香りに苦みと辛みが良質の証し。 西村さん、良いオイルを見極めることができたでしょうか? その夜西村さんは、エンリコさん一家のバーベキューパーティーに招待されました。 エンリコさんご夫妻と息子さんご夫妻、そしてその子どもたち。 素敵な家族に囲まれて楽しい時間を過ごした西村さん、ご自分のご家族を思い出し、ちょっとホームシックになってしまったみたいです。 翌日西村さんは再びアウレリア街道へ。 目的地ジェノヴァまでは、あと400kmの道のりです。 11月29日放送分 日本の秋の風物詩といえば、紅葉。 全国各地に紅葉スポットは数あれど、会津地方の紅葉は格別です。 今回は、紅葉を見るためだけに旅をするのは初めてだというチェリッシュのお2人が、磐梯吾妻スカイラインから磐梯吾妻レークライン、そして磐梯山ゴールドラインという3つの道を走り、知られざる絶景紅葉スポットを目指します。 その道の先に待っていたのは…。 <磐梯吾妻スカイライン> 磐梯吾妻スカイラインは、「日本の道百選」にも選ばれている美しい道です。 標高の高いところから徐々に降りてくるという紅葉ですが、お2人がつばくろ谷(標高1200m)を訪れた時には、少し葉の落ちた木が目立つ感じ。 …実はつばくろ谷の紅葉のピークは、お2人が訪れたちょうど1週間前だったのだとか。 秋はとても急ぎ足。 チェリッシュのお2人も、急ぎ足の秋を追いかけるように旅を続けます。 そして磐梯吾妻スカイラインは、作家・井上靖さんが愛した道でもあります。 荒涼とした大地が広がる浄土平や、遠くかすかに湖を望む湖見峠など、彼の命名による展望ポイントが道沿いに8カ所あり、吾妻八景と呼ばれているのです。 <猪苗代町> 磐梯吾妻スカイラインを下りたお2人は、ちょっと寄り道。 会津の秋の味覚といえば…そう、おそばです!今はちょうど新そばの季節。 その味と香りを心ゆくまで楽しもうとお2人が立ち寄ったのは、地元でも評判のお店「おおほり」さんです。 こちらのお店のご自慢は、すべてが自前であること。 そばの実の自家栽培に自家製粉、そしてそば粉100%の手打ち。 さらには天ぷらを揚げる油も、自家製の菜種油というこだわりよう。 松崎さんは天盛りそば、悦子さんはにしんそばを注文し、仲良くわけあっていただきます。 さてそのお味は? <磐梯吾妻レークライン> 磐梯吾妻レークラインは、その名の通り湖の間を縫うように走る道。 秋元湖、小野川湖、桧原湖の3つの湖を望むことができるのです。 レークラインの最初の見どころは、とある橋の上。 お2人が「きれい!」と感動したのが中津川渓谷です。 標高およそ800m、渓流沿いを鮮やかに紅葉が彩っています。 <磐梯高原> レークラインを下りると、磐梯高原。 1888年、磐梯山の噴火によってできた大小300以上の沼や湖が点在する、裏磐梯の景勝地です。 遠くに望むのは磐梯山。 民謡「会津磐梯山」にも歌われた、宝の山です。 お2人が歩くのは、五色沼自然探勝路。 五色沼とは、毘沙門沼周辺の数十個の沼や湖を総称した呼び名。 噴火による火山性物質の影響や水草によって、湖面が青、赤、緑など、様々な色合いを見せることからその名が付きました。 その散策を楽しむお2人ですが、同年代の観光客が多いためか、たちまち囲まれ、写真攻めに握手攻め。 とにかくすごい人気です。 <磐梯山ゴールドライン> 磐梯高原の先は、磐梯山ゴールドライン。 紅葉が美しい、まさに黄金ロードです。 紅葉のトンネルを抜け、お2人が目にしたのは「幻の滝」という看板。 「これは見なくちゃ!」と、車を止めて歩くこと5分。 落差18mの滝は、今も正式な名前がないため「幻の滝」と呼ばれているのだそうです。 以前はうっそうとした森に覆われていましたが、昨年遊歩道が完成したため、観光客が来られるようになったのだとか。 <会津若松市> 会津のシンボル鶴ヶ城。 お2人は、その近くにある飯盛山に向かいました。 お2人の前に、不思議な建物が…それがさざえ堂。 六角形で三層構造をしており、外観がさざえのような形をしていることからその名が付いたお堂です。 頂上まで登り、お堂を降りて来て「一体どうなってるの?」と混乱するお2人。 実はさざえ堂は上りの階段の上に下りの階段があり、二度と同じ道は通らないという二重の螺旋構造になっていたのです。 江戸時代には柱の溝に西国33カ所の観音様が祀られており、お堂を一巡りするとその地の観音堂を巡礼したのと同じご利益があるとされていました。 212年前に建立され、現在は国の重要文化財に指定されています。 <磐梯高原> お2人は再び磐梯高原へ。 どうしても行きたい場所があるからです。 曲沢沼は、紅葉写真を狙う人々にとって、聖地呼ばれている場所。 そのため、全国からカメラマンの方が集まってくるのです。 水面のもやと紅葉が映えるほんの一瞬は、とても幻想的。 しかし朝もやに煙る風景は、ほんの1時間もすれば気温が上昇し、消えてしまいます。 その美しい風景に「早起きしたかいがあった」と悦子さん。 湖を望む道、黄金に輝く紅葉を駆け抜ける道、裏磐梯、3つの道はまさに宝の山の絶景でした。 11月22日放送分 ゆっくり沖縄を旅したことがなかった父・林隆三さんと、沖縄は初めてという息子・征生さんが、沖縄の大動脈であり、あらゆる魅力にあふれる国道58号線を走ります。 離島へ赴いた隆三さんと、幻の鳥を追う征生さん。 2人の旅は、いよいよ「やんばる」の地に向かいます。 <伊平屋島> いったん別行動をとることにした2人。 隆三さんが向かったのは、運天港から北へ40キロのところにある伊平屋島です。 太平洋戦争末期、沖縄海域でさかんに敢行された、特攻。 その最後の突入現場となったのが、伊平屋島でした。 日本軍が駐屯していなかった伊平屋島の島民たちは、早々に投降していました。 占領という特殊な平穏の中で、伊平屋島は終戦の日を迎えます。 最後の特攻機が突入したのは、まさにその時でした。 最後の特攻機を操縦したのは中津留達夫大尉。 作家・城山三郎さんは、彼に特別な思いを抱き、「指揮官たちの特攻」という本を記しました。 厚い人望と、抜群の飛行技術を持っていたといわれている中津留大尉が、なぜか目標を外したからです。 隆三さんは、島の人の案内でその現場へ。 勝利に沸くアメリカ軍のキャンプ地と、突入地点との間は、わずか200mだったといいます。 最後の特攻機、中津留大尉は、なぜ目標をそれたのでしょうか?そこには今も63年前の痛切なる記憶が残ります。 <やんばるの森> 沖縄本島北部、やんばるの森。 今から27年前、この森で世紀の大発見がありました。 飛べない鳥、ヤンバルクイナです。 父・隆三さんと別行動をとる征生さんは、世界中でやんばるだけにしかいないこの鳥が見たいと、ちょっと早起き。 地元で動物の保護活動に携わる久高さんに案内していただきます。 いっこうに森の中へ入る気配のない久高さん。 すると、なんと車道にヤンバルクイナが現れました。 胸からお腹にかけての縞模様と、真っ赤なくちばしが特徴の、かわいらしい鳥です。 征生さん、どうしても見てみたかったヤンバルクイナとのご対面は、双眼鏡を持つ手が震えてしまうほどの感動だったようです。 近年、ヤンバルクイナは激減しています。 その理由の一つに考えられているのが、ハブを駆除するために移入されたマングースによる補食です。 また、道端にエサが多く、車道に出てきて事故にあってしまうこともあります。 そこで久高さんたちは、ヤンバルクイナが現れやすいエリアと時間帯を調べ、運転する人に注意を呼びかけているのです。 <謝敷> 再び、父と息子の二人旅。 やんばるに入った国道58号線は、青い海と深い森に挟まれるように北へと伸びていきます。 普段は会話の少ない父と息子ですが、美しい海を前にすると、いつもとちょっと違うようです。 その美しい海をのぞむ小さな集落が、謝敷です。 集落の、南国の村らしい雰囲気が漂う路地を歩くと、塀代わりに防風林の役割を持つ「フクギ」が植えられています。 集落に住む具志堅さんのお宅の縁側でシークワーサージュースのおもてなし。 実は具志堅さん、三線の師範。 ということで、もうひとつのおもてなし。 この集落の民謡を歌っていただきました。 <辺戸岬> やんばるの森に突然の雨。 2人は58号線を離れ、旧道を通ってみることにしました。 すると前方にそびえる岩壁が。 実はこの切り立つ岩壁は、削り取った後の姿。 険しい地形ゆえ、巨大な岩山を削り、ここに道を通すしかなかったのだそうです。 峠を越えると、沖縄本島最北端、辺戸岬に到着。 サンゴ質の絶壁からなる、絶景の岬です。 天気がいい日は与論島や沖永良部島を望むことができるのだそう。 国道58号線は、那覇の明治橋からおよそ123キロこの場所で、一度途切れます。 ところがこの先、海を越え、奄美大島、種子島を経て鹿児島市内へと続いて行くのです。 その遥かなる旅路を、また父と息子で走る日は来るのでしょうか? 11月15日放送分 通称「ゴッパチ」。 沖縄本島を縦断する国道58号線を、地元の人々は親しみを込めてそう呼んでいます。 時代を映し、暮らしを支えてきたその道を、林隆三さんと息子・征生さんが旅します。 目指すは、本島最北端の辺戸岬。 驚きと感動があふれる道で2人を待っていたものは…? <那覇> 国道58号線の南端は、那覇の明治橋。 ここから辺戸岬までは、約120キロの道のりです。 かつてこの道は、アメリカの道でした。 「軍用道路1号線」と呼ばれ、車は右側通行。 1972年の本土復帰後も、混乱を避けるため、右側通行のまま。 左側通行に戻ったのは、復帰から6年後のことでした。 <浦添> 那覇から走ること30分「お腹がすいた!」という征生さんのリクエストにお答えし、隆三さんが立ち寄ったのは1軒のドライブイン。 沖縄で最もよく見かける「A&W」です。 アメリカンスタイルのお店で、商品の受け渡し方法がとてもユニーク。 ドライブスルーではなく、わざわざ車まで運んでくれるのです。 そしてA&Wといえば、もちろんルートビア。 「ビア」という名前を聞いた隆三さん、征生さんに「ビールはダメだよ」と言うのですが…実はルートビアは、10種類以上のハーブを調合して作られるソフトドリンク。 運転する隆三さんも安心して飲めるのです。 さあ、お味はいかがでしょうか? <北谷> 国道58号線は、浦添から宜野湾を抜け、北谷へ。 隆三さんが車を止めたのは、道沿いにあるギャラリー。 隆三さんが、ぜひとも立ち寄りたかったという「ボクネンズ・アート」です。 作者の名嘉睦念さんは、沖縄の風土や暮らしを描く木版画の作者。 その版画作品は、裏手彩色と呼ばれる技法で制作されます。 綿密な下書きはせず、墨で大まかに「当たり」をつけます。 そして一気呵成に彫り進め、それが終わると墨色を摺り、その後紙を裏返して鮮やかな色彩を付けたら完成です。 そのダイナミックかつ繊細な作品に、隆三さんも征生さんも圧倒されてしまいます。 「いいものを見せてあげます」と、睦念さんが2人を連れて行ってくれたのは、ギャラリーのすぐ近く。 樹齢200年の「アコウ」の大木です。 アコウは、亜熱帯に自生する木。 他の樹木の枝から発芽し、根を伸ばして成長、最後には元の木に取って代わるという、強い生命力を持っています。 「木は登ってあげた方が喜ぶ」という睦念さんの言葉にびっくりしつつも、木に登ってみる征生さん。 睦念さんもそれに続きます。 隆三さんは、そんな征生さんを見て大喜び。 征生さんは、木が喜ぶ様子を感じることができたでしょうか? 北谷には小さな漁港があり、名人といわれる漁師さんがいます。 内間勝男さん79歳。 「タコ獲り名人」です。 今ではほとんど乗っている人がいないという「サバニ」という沖縄の伝統的な船で漁に出ます。 内間さんのタコ漁は、蛸壺ではなく銛で突いて獲るというスタイル。 「ぜひタコを獲っているところが見たい!」というお2人ですが、あいにくこの日は外海が荒れているため断念。 後日スタッフが、内間さんの漁を追いかけることになりました。 北谷の港を出港して2時間、内間さんはリーフの上で船を止め、海に飛び込みます。 タコの巣のありかを熟知する内間さんは、タコを見つけると、銛で一突き。 吸盤の力の強いタコを押したり引いたりしながら一瞬の隙を狙ってタコをしとめるのです。 その腕前は、とても79歳とは思えないほど。 80歳までは現役で、とおっしゃる内間さんですが、この船を受け継ぐ人がいないのが気がかりなのだそうです。 <嘉手納> 北谷を過ぎると、58号線沿いに嘉手納基地が見えてきます。 征生さんにとっては、初めて目にする沖縄の中のアメリカ。 町の面積の約83%に相当する敷地を持つ巨大な米軍基地です。 <今帰仁村> 隆三さんから運転を代わった征生さんは、国道58号線を離れてちょっと寄り道。 近年大人気のドライブスポットに向かうためです。 古宇利大橋は、屋我地島と古宇利島を結ぶ、長さ約2キロの橋。 通行料が無料の橋としては、日本最長の橋です。 エメラルドグリーンの海を貫く美しい橋に、隆三さん、思わず「ドライブの相手が征生じゃなかったらな…」とぽつり。 この橋は、素敵な女性を隣に乗せてドライブしたくなるほど、かっこいい橋なのです。 その帰り道、隆三さんがどうしても行きたい場所があるというので、2人は別行動をすることに。 隆三さんが向かうのは伊平屋島、征生さんが向かうのはやんばるの森です。 父と息子の二人旅は、沖縄のさらに奥へと進んで行きます。 11月8日放送分 パリ7区、堂々とそびえるアンヴァリッド廃兵院は、戦いに倒れた者たちのメモリアルです。 その中央ホール、荘厳なる棺の中にたった1人で眠るのが、希代の英雄ナポレオン・ボナパルトです。 ナポレオンの英雄伝説を物語る道が、フランス南西部の険しい山あいを走る「ナポレオン街道」。 南仏ゴルフ・ジュアンからグルノーブルへと続く、およそ340キロの道のりです。 <ディーニュ・レ・バン> コルシカ島の下級貴族の子として生まれたナポレオンは、鋭敏な決断力と軍事的才覚によって皇帝へと上り詰め、ヨーロッパ諸国を席巻しました。 しかしその栄光もつかの間、皇帝の座を追われ、エルバ島に流されたナポレオンが再起をかけてゴルフ・ジュアンに上陸したのが1815年3月1日のこと。 ナポレオンと千人の兵士たちは、パリを目指します。 行軍を始めてから4日目の3月4日正午、ナポレオンはディーニュ・レ・バンの町に到着します。 町の広場に着いて、ナポレオンが最初に見たのが市場でした。 なぜなら彼は、自らの健在と復活をアピールするために、人々が集まる市が立つ日にここにたどり着きたかったからです。 現在は公営住宅に建て替え中のホテル プチ・パリで休息を取ったナポレオン軍は、午後3時にこの町を出発します。 <マリジェ> ディーニュ・レ・バンからおよそ20キロ。 ナポレオンが現在は市役所になっているマリジェ城に着いたのは、3月4日夜のこと。 ナポレオンはここで短い仮眠をとった後、兵士たちが休んでいた城の庭で王党派の襲撃を警戒しながら夜明けまで過ごし、翌朝6時、1杯のコーヒーを飲んで出発します。 <ヴォロンヌ> マリジェを出たナポレオン軍は、デュランス川の左岸を北上し、ヴォロンヌの町で休憩を取ります。 その町外れに、ナポレオンがここを訪れたことを示すちょっと変わったプレートが。 そこに書かれているのは何と「1815年、ここでナポレオンが用を足した」。 朝の1杯のコーヒーのせいでしょうか…? <シストロン> 山道続きだったナポレオン街道は、この辺りから比較的なだらかな道へと変わっていきます。 山道続きの行軍が終わったナポレオン軍の前に新たに立ちはだかったのが、デュランス川にかかる1本の橋。 町に入るには、この橋を渡る以外に方法がなかったのです。 しかもシストロンには、12世紀からそびえる強固なシストロン要塞が建ち、ここで王党派の待ち伏せでも受ければひとたまりもない状況。 …しかしナポレオンは3月5日の昼頃、悠々と橋を渡り町に入りました。 ナポレオンは、当時ここにあったホテル・ブラ・ドールでシストロンの市長と食事をした後、早々に出発しています。 <ガップ> シストロンを過ぎた辺りから、ナポレオンに対する民衆の反応は徐々に熱狂的なものへと変わっていきます。 3月5日の夜、およそ60キロの行軍の末ガップに着き、熱烈な歓迎を受けた時のナポレオンの言葉があります。 「ついにだ!我々は確かにフランスにいるのだ!」 <モン・ドーファン> ここでナポレオン街道を外れてちょっと寄り道。 17世紀、ルイ14世に寵愛を受けた技術者ヴォーバンが手がけた、城壁に囲まれた要塞の町、モン・ドーファンです。 現在人口およそ140人の小さな町全体が、今年7月、世界文化遺産に登録されました。 町の美しさもさることながら、そこからの眺めも実に素晴らしいものです。 <コール> ガップからおよそ40キロ。 ナポレオン軍がコールの町に着いたのは、3月6日の夕方でした。 ここでもう一度寄り道。 コールから北へ15キロ、美しくなだらかな山道を20分ほど走ったところに、知る人ぞ知る巡礼地があります。 標高およそ1800m、ノートルダム・ド・ラ・サレット教会です。 羊飼いの2人の子どもの前に聖母マリアが現れたという逸話の地に、1851年、聖堂が建てられました。 ここには、世界中から毎年20万人もの人々が巡礼に訪れます。 <ラフレー> 3月7日早朝に、コールの町を出発したナポレオン。 この後最大のクライマックスが彼を待っていました。 1815年3月7日午後3時、ナポレオンは、この行軍で初めて王党派の軍隊と対峙することになります。 ナポレオン軍の兵士はおよそ千人、対する王党派は数倍の軍隊です。 戦闘が始まれば勝ち目はない中、ナポレオンは自らの兵を制し、一世一代の大芝居を打つのです。 「兵士諸君、私がわかるか。 もし諸君の皇帝を撃ちたい者がいるなら今だ。 私はここに立っている!」…すると王党派の兵士の中からあがる「皇帝万歳!」の歓声。 そう、ナポレオンは危険な賭けに勝ったのです。 そしてこの地は今「出会いの草原」と呼ばれています。 <ヴィジール> 王党派の軍隊も加わり、数倍にふくれあがったナポレオン軍は、怒濤の勢いでパリを目指します。 ヴィジールの町にある革命博物館に、ナポレオンがやって来た様子を描いた版画が残されています。 城の前にさしかかったナポレオンを、民衆は熱狂と歓呼で迎えました。 この時ナポレオンは、反乱軍ではなくなったのです。 <グルノーブル> いよいよナポレオン街道の終着地、グルノーブルです。 3月7日午後9時、ナポレオンはグルノーブルに到着しました。 町に入る為のボンヌ門は閉ざされていましたが、民衆の手によって開かれ、グルノーブルへと入っていきました。 その門はもう残っていませんが、この道をナポレオンが進むと、民衆は歌をうたって歓迎したのだそうです。 そして現在「オーベルジュ・ナポレオン」というレストランになっている当時のホテルで、3日間の休憩をとったと言われています。 希代の英雄ナポレオンは、当時としては奇跡ともいえる行軍を果たしました。 その後彼はパリへと入城し、再び皇帝に返り咲いたのです。 しかし、その絶頂もわずか100日、ワーテルローの戦いに敗れたナポレオンは、またも皇帝の座を奪われ、絶海の孤島であるセント・ヘレナへと流されてしまいます。 そしてこの島で、波乱に満ちた生涯を閉じたのです。 11月1日放送分 パリ・シャンゼリゼ大通りの先にそびえる凱旋門。 この門の建設を命じた男こそ、希代の英雄ナポレオン・ボナパルトです。 そのナポレオンの英雄伝説を物語る道が、フランス南西部の険しい山あいを走る「ナポレオン街道」。 南仏ゴルフ・ジュアンからグルノーブルへと続く、およそ340キロの道のりです。 <ゴルフ・ジュアン> ナポレオン街道の起点は、南仏コート・ダジュールにある、ゴルフ・ジュアンの海岸です。 ニースとカンヌのほぼ中間に位置する、人口1万人足らずの小さな町の海岸に、とある記念碑があります。 「1815年 ここにナポレオンが降り立った」…毎年3月、ここではナポレオンの上陸を記念した盛大な祭りが開かれます。 およそ200年経った今でも語り継がれるナポレオンの上陸とは、一体どんなものだったのでしょうか? 1814年4月、ナポレオンはヨーロッパ同盟軍の圧力によりフランス皇帝の座を追われ、地中海に浮かぶエルバ島に幽閉されます。 しかし、再起に燃えるナポレオンは、1年も経たずにエルバ島からの脱出を敢行しました。 1815年3月1日、ナポレオンはおよそ1000人の兵士を率いて、ゴルフ・ジュアンの海岸に上陸したのです。 <カンヌ> 南仏の高級リゾート地、さらに国際映画祭が開かれる場所として有名なカンヌ。 1815年3月2日の午前2時にカンヌに到着したナポレオンは、ここで3千人分の食料を調達し、ほとんど休むことなく夜明け前にはカンヌを出発します。 現在も残るその道は、国道7号線から国道85号線へ入ります。 <グラース> カンヌから車で30分ほど走ると、香水の都として知られるグラースの町です。 ナポレオンがこの町に到着したのは、3月2日の正午前。 この時、地元の住民たちは、兵士にはワインをふるまい、ナポレオンにはスミレの花を差し出した、と記録に残っています。 グラースでは、18世紀頃から盛んに香水が作られてきました。 この町で最も歴史の古い香水工房「ガリマール社」で、今回特別にナポレオンをイメージした香水を作っていただきました。 使われている香りのエッセンスは、ベルガモットやバニラ、グリーンティーなど14種類。 プロの調香師のカロリーヌさんいわく、柑橘系のフレッシュな香りに仕上げました、とのことです。

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東京ゲームショウにてコスプレパフォーマンスステージの祭典 「CosplayCollectionNight@東京ゲームショウ2013」に出演します! 私はファイナルファンタジー7チームで主人公のクラウド・ストライフを演じさせて頂きます。 出番は第一部の最後の方になります。 そして、今年からの変更点でカメラ映像の方に日本語の字幕がつくようになりましたね! これは今まで演技中に聞き取れない部分等もあったので良い配慮だと思います。 しかし気になった点として、字幕に誤字が多かったのと 面白い誤字があると演目に集中出来ないw どうせ字幕を付けてしまうなら、いっそ各国の代表は最初から母国語でやって貰って完全字幕バージョンの方が良い気もしました。 春巻龍 浦安鉄筋家族 泉孝介 おおきく振りかぶって 大岡忠祐 快刀乱麻 雅 獄寺隼人 家庭教師ヒットマンREBORN! 笹川了平 家庭教師ヒットマンREBORN! 三五十五 柔道部物語 速水たくみ スカイガールズ 衛藤快 switch 宮城リョータ SLAM DUNK 斉藤健 生徒会のヲタのしみ。 1 為我井さくら あまえないでよっ!! コードギアス 反逆のルルーシュ 中田鯖江 金色のガッシュ!! 網美隷 GetBackers-奪還屋- 唐之杜志恩 PSYCHO-PASS 出雲阿国 SAMURAI DEEPER KYO ウェダ ジャングルはいつもハレのちグゥ 蜂谷由佳 少女ファイト サシャ・ブラウス 進撃の巨人 刑部絃子 スクールランブル レインボー・ミカ ストリートファイター 三崎紫雫乃 (ゼーガペイン 斑鳩 閃乱カグラ ユウ・ヤマナミ Soul Link 松明屋紅葉 それゆけ! 宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ ユリ ダーティペア 光月未来 だぁ! 参考:アニメキャラの身長. com 池袋西口公園イベントレポ!! イベント: 2013年06月20日 21:29 こんばんは! ホリィです。 今年の日本予選はどのチームもめちゃくちゃレベル高かったですねー やはり競技である以上点数を付けて勝ち負けの結果が出てしまうわけですが、作品愛や情熱などの面でどのチームも優劣を付けられない内容でした。

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