ジオウ 夏 映画 ネタバレ。 ネタバレ注意!本日公開「劇場版 仮面ライダージオウ」に意外なゲスト

ジオウ夏映画感想(ネタバレあり)

ジオウ 夏 映画 ネタバレ

今年の夏の仮面ライダー映画 「仮面ライダージオウ Over Quartzer」 以下、OQ。 友人の評価も高くとにかく見てくれとのことで今日見てきました。 流れ的には「昨日の夏コミで久保ユリカさん本が完売御礼となった話」あたりを記事化するのが正しい気がしますが敢えてのジオウ映画に振り切ろうと思います。 いいのかこれで、、、 以下壮大なネタバレを含みます。 さて感想ですが、この記事を読んでくれているということでジオウや平成ライダーへの粗い知識がある前提で細かい注釈を省きながら進めます。 尚、私は平成ライダー全てを見ている訳ではありませんが顔(?)と名前は一応一致し、大まかなストーリーは各ライダーわかっているくらいの知識です。 通しで見たのはW以降が中心です。 仮面ライダージオウは「平成ライダーのチカラを集めながら進む物語」という毎週日曜日のテレビシリーズのシナリオを軸に進む「いわゆるジオウ」の部分が当然あります。 そして同時に「 平成ライダー20周年を記念する存在でありつつ、平成最後の平成ライダー」という文脈、「平成ライダーを概念的に総括するジオウ」という部分もあります。 この2つの要素は常に密接な存在であり、特に区別されるものではないという印象ですが今回は完全に後者を描いた映画だったと言えます。 「平成ライダーを概念的に総括するジオウ」に振り切った本作はテレビシリーズで濃厚に描かれる「平成ライダーのチカラを集めながら進む時空冒険物語」というシナリオに沿った要素は限りなく削られており、究極「テレビ見てなくてもなんとかなる」レベルに仕上がっています。 (テレビシリーズはそれはそれで面白いので見よう!) その代わりに「平成ライダー」と定義される仮面ライダークウガからジオウにつながるライダー達の概念的在り方を徹底的に担いでいます。 感想の前に超ざっくり流れを。 今回悪役は ISSA(本当は仮面ライダーバールクスという。 ISSA形態とライダー形態があるが便宜上ISSAとまとめます。 )を中心とした クォーツァーという一味。 彼らは超強烈な動機でジオウ達のまえに立ちはだかります。 それが 「平成ライダーをやりなおす」というもの。 曰く「 平成ライダーは設定や世界観などもバラバラでわかりにくく好かんのできれいにまとめる、ついでに平成の世も同じようになんかスッキリさせるわ」というすごい理由。 いままで色んな悪行の動機を目にしたけど「平成ライダーが気に入らない」という理由は初見で、しかもそれを平成ライダーの映画でやるとは流石にビビる、 いつのまにかこの記事が「ですます調」じゃなくなってるくらいにはビビる。 真顔で言うISSAもISSAだし真顔で受け止めるソウゴくんもソウゴくんだ。 しかも仮面ライダージオウとして頑張るソウゴ君はISSA達の大義に向けた替え玉であり 「作られた物語を遂行する駒」だったと告げられる。 ここら辺は映画を通じて展開されるメタシナリオの象徴だったりもするので大事と言えば大事なシーン。 まあとにかくクォーツァーは行動を起こし、平成ライダーをやり直す目標に向けて平成をぶっ壊しにかかる、NHKならぬ「平成をぶっ壊す!」だ。 その方法はきわめておおざっぱで 天空に吸引力の落ちない大きな穴を開けて 「平成生まれの存在」だけを吸っていく。 マジで物理的に吸っていく。 なので30歳未満くらいの若者や乗用車や携帯電話などが吸われていく。 むしろ残された昭和組はこのあとどうすれば良いのか。 この後、 木梨憲武に会う等とにかく色々あって(後半感想と一緒に書きます)、ジオウは強化フォームになり平成ライダー達と一緒に平成ライダー大集合キックで ISSAが防御用にかざした鉄板を「平成」という文字に蹴破り、穴で「平成」と書かれた鉄板を持つ 巨大な小渕恵三と化したISSAはついに粉砕されるのでした。 めでたしめでたし。 感想1 平成がやばかった件 そう、上記の通りまず やばい。 平成をピンポイントで狙う悪役なんて日本にしか生まれないわけで、平成ライダーという概念がいかに強力なものかを思い知らされる。 特に最後巨大化したISSAが平成と書かれた(穴だけど)鉄板を持って負けるシーンは 日本映画界に衝撃を与える凄いシーンだったと思う。 だってそもそももはや今は令和なわけで平成はもういいよという気持ちにすらなる。 まあそれはいい。 とにかくすごい。 あのシーンだけ見るために劇場に行くだけの価値がある。 あとあんなに「平成」を毛嫌いしていたISSAが「平成」と書かれた鉄板を持ちながら陥落していく様は 一種の背徳的なエロスすらあり、平成という概念を竿役にしたNTRと言っても過言ではない。 何をいってるか意味不明だが 劇場に行けばわかる、頼む行ってくれ。 平成を吸っていくシーンもかなりのエクストリームで、仮面ライダーマッハの剛くんが最初吸われずに佇んでいた時は「こいつ以外とおっさんなのかな」と不安になった。 その後吸われそうになって安心した。 そもそも平成を吸い上げて平成(ライダー)をやり直すっていうのが奇天烈でそこだけどうにかしてどうするんだ感がすごい。 あと見れば見るほど彼らクォーツァーが気に入らないのは平成ライダーであって平成ではなかろう!と思うのだがそんなことはクォーツァーにとってはどうでも良いのである。 平成を丸ごと対象にすると クウガの前にやってたロボコンとかも対象になるけどそんなことどうでも良いのである。 とにかくこの勢いがすばらしく、最後までジェットコースターのように楽しめるのだ。 このエンターテイメントさは本当にすごく是非劇場で体験してほしい。 感想2 ジオウとはなんなのかという件 急にそれっぽい見出しである。 でもこれが無ければこの映画はただの変な映画で終わってしまう、やはりここに触れないといけないだろう。 というかここがメインだ。 この映画は作品を通じて 「仮面ライダージオウとは」を問うコンテキストを持っている。 「平成ライダー20作品」を総括する性格を持ち、オールスター作品として時代の節目を盛り上げる。 そういった強い外郭の部分を背負って生まれたのがジオウだ。 作中ではその「平成をまとめる」という設定が鋭くジオウ=ソウゴ君に突き刺さる。 ジオウの役割=ジオウのシナリオ=ウォズの歴史書という構造により「平成ライダーというこれまでのシリーズをまとめる存在」であるジオウはある意味でマネキン的な存在なのではというネガティブなレッテルを作中で纏うソウゴ君。 「役割としてのジオウをやるためのジオウのシナリオ」というメタな命題は、ともすれば「最後だからオールスターなんでしょ」と割り切ってしまう我々観客へのボールでもある。 そんな命題に自問自答するソウゴ君を諭すのがなんと 木梨憲武なのである。 木梨憲武扮する仮面ノリダーという懐かしのパロディーコントがここで飛んでくる。 やばい、本当にこの映画やばい。 かなり端折って意訳するが木梨は 「私と違いお前は本物のライダーだ」と諭すのである。 ノリダーが言うと重みが違う、 こんなメタ構造があっていいのかという革新的なシーンだ。 ソウゴ君は 「役割としてのジオウをやるためのジオウのシナリオ」というメタ文脈と「俺はなんのために戦っていたんだ」というソウゴ君本来の在り方と向き合っていく。 そして自分は王様になりたくて頑張っているんだという、「平成ライダーをまとめる役目のジオウ」ではなく 「20作品目の1本の作品内のジオウ」に辿り着き、オーマフォームへと進化する。 正直このくだりは本当に凄いと思った。 クォーツァーによる「平成をまとめてやるぜ」を「倒す」という全体軸がソウゴ君の中の「平成をまとめるというメタであるジオウ」から「自分の目的を見つめ直しジオウがジオウを定義する」という関係性にここでリンクする。 ジオウが「まとめタグ」ではなく「20番目のヒーロー」になった瞬間にまとめ役のシナリオをジオウがついに飛び出し、ISSAが否定した「ばらばらな平成ライダー」のばらばらさがポジティブなものとして最高潮に達する。 オーマフォームになったジオウは「ばらばらでめちゃくちゃな平成ライダーを認める象徴的な存在」=「王」になりかつてのライダー達とISSAを撃破する。 それは平成ライダーを取り巻く色んな評価を全て受け入れつつ 「平成ライダーってこういうもんでしょ、みんな違ってみんないい!」と声高に宣言する最高の見せ方だったと思う。 というわけで ジオウから「平成をまとめるメタタグ」としての性格が消え去る事は無いけど、ジオウが「王様になる」と言い続けジオウの物語を辞めないことでジオウは20番目のライダーになれる。 それを平成ライダー全体の肯定とセットで描き切ったOQは本当に良い映画だったなとシンプルに感じました。 そんな素敵なコンテキストを記事では全然触れなかった 映画前半部「コント:もしもゲイツが織田信長になったら」パートや「吸引力の落ちない平成を吸う穴」や「平成に寝取られるISSA」などとセットで描ききり、壮大なエンターテイメント作品に昇華させた本作は最高の夏映画です。 さああなたも映画館に行って平成を感じよう!.

次の

ジオウ夏映画感想(ネタバレあり)

ジオウ 夏 映画 ネタバレ

前段として、『ジオウ』という作品には、大きくふたつの軸がある。 「ジオウの物語」と「平成ライダーの歴史」だ。 前者は、最低最悪の魔王になってしまうかもしれない主人公の、運命に抗うストーリー。 後者は、『クウガ』から『ビルド』までの平成ライダーをコンテンツとして物語に組み込んでいく構成を指す。 『ジオウ』は、このふたつの軸が時に混ざり合い、片方が光ったかと思えば、もう片方が色濃く見えてきたりする。 そのバランスや緩急が面白いのである。 もちろん、商業的な意味で、クウガからの平成ライダーを劇中に登場させる狙いも大きい。 しかしそれは同時に、「平成ライダーとは一体何だったのか」という問題提起を作り上げてしまう。 『ジオウ』はどこかで必ず、これにアンサーを示す必要があった。 先の記念作『ディケイド』は、それまで独立していた作品群をシリーズ化した意義が大きかったが、『ジオウ』に与えられた課題はそこから更に10年分も大きい。 「平成ライダーとは一体何だったのか」。 10年前には避けられたオリジナルキャストを怒涛の勢いで出演させながら、『ジオウ』は、この課題に対するアンサーを一年間かけて模索してきたのである。 当時、『ディケイド』が約半年間の放送だったことで、いわゆる「夏映画」のポジションは大きく変化した。 それまではシリーズの途中に公開時期が当たっていたため、大規模なパラレル設定を持ち込んだり、本編との連動を図ったりと、比較的「実験作」な性格が強かったのである。 それが、『ダブル』以降はTVシリーズ最終回間近となったため、そこに「集大成」の意味が込められるようになった。 その作品が持つテーマを総括しつつ、いくつかの要素をリプライズしていく。 それこそが、直近10年の「夏映画」なのだ。 以上の、「ジオウの物語」「平成ライダーの歴史」「平成ライダーとは一体何だったのか」「夏映画の集大成的な性格」、その全てを煮詰めて固めたものが、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』である。 スポンサーリンク 先の『平成ジェネレーションズFOREVER』が「平成ライダーを観てきたファンへの感謝」だとしたら、今回の『Over Quartzer』は「これこそが平成ライダーだ!」と言わんばかりの、コンテンツそのものの客演作と言えるだろう。 良く言えば奇跡的で挑戦的な一作であり、悪く言えば、ひどく露悪的で開き直った一作だ。 おそらくSNS等でも多彩な感想が飛び交い、紛糾することもあるだろう。 しかし私としては、「他のどのコンテンツも絶対に作れない、平成ライダーにしか出来ない映画」という意味で、驚くほど本作を気に入ってしまった。 というのも、このブログでも以前から何度も書いてきたように、平成ライダーの魅力は、「不揃いさ」に尽きるのである。 原則としてそれぞれが交わらない独立した作品群であり、作風も、モチーフも、テーマも、何もかもがバラバラ。 「仮面ライダー」という看板を掲げながら、実験的な作品を次々と繰り出し、それがいつした一時代を築いた。 この、「結果的にシリーズとして発展してきた」という部分が肝なのだ。 決して、計画的に、緻密に作られたシリーズではない。 その時その時で、「やれること」「やりたいこと」に雑食のように手を出していく。 なんの道筋もなく出来上がっていく、有象無象のキメラ。 それが結果として独特の魅力 (個性)を光らせていく、なんとも稀有なシリーズなのだ。 本作『Over Quartzer』は、その平成ライダーシリーズの「不揃いさ」こそを最大のメッセージとして取り扱い、更には、平成という一時代についても言及していく。 当初はファンが使用していたただの俗称としての「平成ライダー」を、いつしか公式が看板として掲げ、その最後の劇場版で平成という元号そのものを扱う。 平成ライダーを通して描く、平成という時代。 そして令和へのバトンタッチ。 こんな作品は、他のどのアニメも、漫画も、映画も、何もかもやれないのだろう。 こんな怪作を送り出せるのは、平成ライダーより他にない。 そこを一点突破していく作りは、なんとも白倉伸一郎プロデューサーらしいアプローチである。 以下、作品のネタバレに言及しつつ、感想を残す。 そう、「平成ライダー」は、何も『クウガ』から『ジオウ』までの20作だけではないのだ。 その時その時で様々な挑戦を重ねてきた結果、テレビ番組の枠に収まらない展開を無数に生み出してきたのである。 本作『Over Quartzer』は、その全てを総括し肯定しながら、「その時その時を懸命に生きる大切さ」というメッセージでコーティングしていく。 重ね重ね、唯一無二だ。 平成という時代には、沢山の出来事があった。 事件や事故、自然災害、スキャンダル。 インターネットの加速度的な発達もあわせ、経済も政治も教育も何もかも、日本社会はこの約30年で大きく変化した。 今回敵として登場する時の管理者・クォーツァーたちは、この平成という世を凸凹で不揃い、「綺麗でないもの」と断定し、自分たちの思うがままに作り直そうとする。 「結果として出来上がった不揃いな歴史」という意味で、平成という一時代と平成ライダーを重ねていく構成である。 そんな問いを登場させたのちに、「雑多なコンテンツに仕上がった平成ライダーは確かに不揃いだけど、それは、その時その時を懸命にやってきたからだ!」というアンサーで殴り返す。 「平成ライダーとは一体何だったのか」。 本作がそこに用意した解答は、「不揃いさ」だ。 しかし、それこそが良いんだと。 その時々の取り組みこそが、意図していなくても、綺麗でなくとも、結果として時代や歴史を作るのだと。 そういう、平成ライダーというシリーズの性格こそを作品テーマに持ち込んだ、奇妙な作品に仕上がっていくのである。 「春映画」的な文法で次々と登場するまさかのヒーローたち。 アイテムを使い、ベルトが光り、最強形態へ姿を変えていく平成ライダーたち。 これまでの20年の歴史で散々観てきた「やり方」ではあるが、本作は、それ自体が自分たちのアイデンティティなんだと、執拗にそれをアピールし続ける。 果てには、巨大化した敵が突然大きなプレートを使って攻撃してきたかと思えば、全平成ライダーが番組ロゴとなりキックを放ち、プレートに開いた穴が「平成」の二文字として完成する。 新元号が発表された際の、日本人なら誰もが見たことのある構図に寄せながら、「平成」の二文字が盛大に爆散していく。 こんな、こんな意地の悪い奇天烈な演出を、平成ライダー以外のどのコンテンツが作れるだろうか。 スポンサーリンク そういった、「平成ライダーとは一体何だったのか」というテーマは、最終的にシナリオにまで影響を及ぼしていく。 本作のラスト、死んだはずのウォズがしれっと登場したり、消えたはずのゲイツやツクヨミが普通にクジゴジ堂に戻っていたりする。 なぜそうなったのか、そこに理屈はあるのか。 登場人物も、物語も、そこに最後まで一切の解答を用意しない。 意図的に説明を行わない。 構成として不揃いだけど、凸凹だけど、綺麗じゃないけど、ウォズが死んでいくシーンは物語として盛り上がるし、ゲイツやツクヨミが消えるくだりも感傷を誘う。 「その時その時」は盛り上がる。 それが決して、整っていなくても。 そんな構造面でのメッセージを、なんとも自覚的に、シナリオのオチにまで組み込んでいく。 これは『ディケイド』におけるメタフィクションとの距離の取り方とも近い。 反面、そういった演出を「わざと」「開き直って」やることに、拒否反応を覚える人もいるだろう。 私も、その全てを盲目的に肯定しようとは思っていない。 本作『Over Quartzer』は、とても良い意味で「平成ライダーらしい映画」だし、同時に、とても悪い意味でも「平成ライダーらしい映画」だ。 こういったものを、ある種冷笑的に、露悪的に繰り出してくる辺りも、実に「平成ライダーらしい」。 「そういうのが苦手なんだよ」と言う人に、真正面から「そういうの」をぶつけるような、確信犯 (誤用)な物語構成だ。 よって、前述のように、この映画にNGを出してしまうファンも少なくはないだろう。 そして、それを制作サイドは誰よりも分かってやっているのだ。 一方、『ジオウ』単体の物語としては、タネを明かしつつ新たな謎を蒔いていく作りになっていた。 ISSAこそが本当の常磐SOUGOであり、我々が知るソウゴは、「オーマジオウにそれらしい過去 (物語)を付与するため」に作り上げられた、偽物の存在。 前半の織田信長のくだりを使って、「伝わっている歴史の数々は、所詮誰かによって紡がれた物語である」という構造を見せていく流れも面白い。 しかし、ソウゴがライドウォッチを集めきったのは、「オーマジオウだから」ではない。 「常磐ソウゴだから」である。 彼が、その時その時を懸命に生きたからこそ、レジェンドたちはライドウォッチを託してきたのだ。 だから、替え玉でも、偽物でも、そんなのは関係ない。 ・・・といった、先の「平成ライダーとは一体何だったのか」をソウゴにまで重ねてくる辺りも、とても重層的である。 総じて、何度も書いているように、実に「平成ライダーらしい映画」であった。 もうシンプルに、これに尽きてしまう。 こんな映画は平成ライダー以外には作れないし、ファンとの信頼関係の積み重ね方も、距離の取り方も、このシリーズだからこその線引きだ。 終わってみると、「平成ライダーを総括する作品の劇場版」としては、確かにこの解答しかなかったようにも思えてしまう。 まるで、針の穴に糸を通すかのように、一点だけを狙い、一点だけで突破する。 平成ライダーとは、「今」を懸命に生きたものの集合体であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。 だからこそ、平成という世が終わり、これから様々な苦楽が時代に降りかかろうと、それでも、我々個々人が「今」を懸命に生きるしかない。 道は、歴史は、歩いた後にしか出来ないのである。

次の

感想『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』 絶対に「平成ライダー」にしか作れない、奇跡的かつ露悪的な怪作

ジオウ 夏 映画 ネタバレ

これからジオウ夏映画を見る予定がある方はブラウザバックを強くお勧めします。 ジオウ夏映画を見た方か、ジオウは見てないけどオタクの叫びを見に来たという奇特な方のみ閲覧してください。 こんにちは。 ジオウ夏映画が始まるのを劇場で待機していたらバンドリのアフグロによる映画館での注意事項を紹介する映像が突如として流れシアター番号を間違えたかと戦々恐々としたしらたきくんです。 を許すな。 ニチアサオタクなのでジオウの夏映画を見てきました。 金が厳しいので正直迷いましたが初日時点での評判がめちゃくちゃよくあっさり折れました。 びっくりするほど狂気。 こんなものを作れる精神状態は到底正常とは思えない。 たまげたなあ……。 明らかにトンチキ映画なのにこちらの脳に異常を生じさせてくるので主題歌まで買ってしまった。 今現在リピート再生している。 頭がおかしくなりそう、いやなってる。 何が一番やばいって、狂気だけじゃなくて情報量も凄まじいところ。 ジオウにおいて未解決であった謎のいくつかを解消していった上に最終回でやりそうな展開を食い潰してしまったのは驚いた。 最終回どうするんですか? 頭にダイレクトアタックされておかしくなったところに情報詰め込むのやめて。 意味が分からない。 さて、ネタバレ込の感想行きます。 思考が纏まっていない状態での駄文ですので叫びの垂れ流しのようなものですがご了承ください。 ・ソウジャー ぼくは普段ソウジャーの時間までニチアサを見られないのでいつもだいたい毎回序盤だけ見てあとはで流れを追うくらいなのですが、今回の映画はめちゃくちゃ刺さりました。 なにこれ超性癖じゃ〜〜〜んなにこれ!?!?!?!!?!コウくんの顔が良……。 ソウジャーが騎士の誇り高き魂を見せるムーブメントがめちゃくちゃ好きなんですね。 で 役名を覚えろ の剣の切っ先を掴むコウくんめちゃくちゃ性癖です。 と一騎打ちするコウくん最高に戦士だよ……好き……。 やっぱり誰かを守り、戦うために生きる戦士の気迫は見てて興奮しますね。 ここはもうみんな興奮したと思うんですけど、コウくんがもう我慢できないって言ったあとの眼光鋭すぎて……カメラくん分かってる〜〜〜!!!!!!なんだこのアニメみたいな構図 ? は……たまげたなあ……。 直情型主人公とっっっってもすき。 でも騎士なのはコウくんだけじゃ!ないのです!!!!!!命懸けでも誰かを守ろうという意志、それもまた誇り高き騎士の魂! それを葛藤もなくさらっとやってのける彼ら、ほんと惚れる……最高……。 ソウ族たち、時折人間とは根本の倫理観や常識がズレているので色々やらかしますが正義を背負うヒーローとして大事なところはきちんと押さえているのでやっぱりすこだ……。 ケボーンダンスめちゃくちゃ面白いな。 隕石ドカッと落ちたような 物理 ケボーンダンスはやっぱり底抜けに明るいのでいいですね。 元気出る。 見る度にノリノリでケボーンダンス踊る朝加圭一郎がちらちら脳裏に過ぎるけど。 婚活戦士が婚活してて最高だとおもった こなみ ・ジオウ Q. これは何? A. 平成という概念を煮詰めた。 見た人間にをさせる映画。 平成という一つのシリーズに横たわる数多の世界を総括するメタ・フィクション。 平成という時代の締めくくりにの紡ぎ手たちが送る、ファンに直接届けるための掟破りのラブレター。 何好き勝手やっちゃってくれてるんですか!?!?!!!?!?!!??!!というのが感想です。 最高 に狂気 です。 実質のあたり悪ふざけが過ぎると思います。 映画で本編の最重要情報公開し過ぎでは?やべえよ情報が重要すぎるよ。 見てよかった。 危ない危ない。 でも、確かにジオウの物語はこのためにあったのだと思えた映画でした。 全てこの時のため、を、ひとつの時代の幕を下ろすための物語。 随分前に平成は終わっているのに、この映画を見終わった時に平成がついに終わったなあ、と思いました。 もう終わっています。 さよならライドヘイセイバー。 \ヘイ! / とんでもない狂気の映画ですが悔しいことに泣いてしまいました。 泣いたのはくんとウォズくんの一騎打ちシーンです。 因縁のある二人の戦いだけれど、彼らにとってはもはや因縁なんて瑣末な問題。 基本的にいつも飄々としてて何考えてるか全く分からないウォズくんが感情を剥き出しにしてくんの言葉を否定するのが苦しくて仕方なくて、戦いに勝ったのはウォズくんで地に伏したのはくんなのに、ウォズくんのほうがとても痛々しく見えて、ウッつらい……。 あのシーンのウォズくんの声がいつもみたいな芝居がかったねっとりボイスではなく、少し上擦った普通の青年の声だったのもまたつらくて仕方なかった。 つまりウォズくんはあの場所に筋書きに従って振る舞う舞台装置、クォーツァーとしてではなく、ひとりの人間、偽りなざらる自分として立っていたわけだ。 苦しいなあ……。 クォーツァーの使命と誇りよりもソウゴくんを、編纂されて整然とした歴史よりも人々が生きてきた軌跡そのままの血の通った混沌の歴史を愛することに決めたウォズくんの晴れやかな顔を見た時の安堵感は半端なかった。 つらそうなウォズくんを見るのはつらいので。 ソウゴくんが牢屋にぶち込まれたときのそうなるように私が導いたとか言ってソウゴくんのせいじゃないんだとフォローしたり、ソウゴくんを我が魔王と呼ぶの嫌いじゃなかったとかなんかもう臣下……圧倒的臣下。。 そもそもソウゴくんのこと本当にただの王の代わりとか思ってたら編のときのあの祝え暴走いらなかったもんな〜〜〜お前な〜〜〜!!!!!!!!!!ウォズくんすき 話変わりますが、クォーツァーという存在そのものがメタ・フィクションに近いものなんだよなあ。 ウォズくんもやたらこっちに向けて話しかけてくるし。 複数の世界に跨るの物語をひとつ上の位相から観測し、またそれを観測する物語世界の外側の存在 わたしたち を知覚することもできるあたりかなり上位存在なんだろうけど……。 もし彼らによる平成のやり直しが成されたならばたちの正義と覚悟の記憶を犠牲にして、幸せになれる人もいるのかもしれないなあとか少し考えてしまった。 に選ばれていることで不幸被ってる人とか絶対いるもん……。 でもそうやって不幸被ってきたひとだって自分が戦って掴んだものを不揃いだからって無に帰されるの看過出来るわけないのよな。 だって人生は一回、たとえ醜くて、不格好で、上手くいかないところがあっても解いてもう一度なんて許されない。 そういえば思い出したんだが、あのがあった場所、どう見ても古墳的形状してたのやはりジオウは平成という過ぎ去った時代の墓なんだなって……。 ていうか!!!!!貴虎さん!!!!!!!!!!!!!!!貴虎さんの!!!!!!!!!!斬月の勇姿見ました!?!?!??!?!?!?かっこいい……。 最後、特に理由もわからないけれどくんもちゃんもウォズくんも復活して大団円を迎えたのは普通ならどうかとは思うんだけど主題歌の歌詞に「どんなミルも起き放題」があるから妙に納得してしまった。 そうだよな、平成最後なんだからどんなミルも起き放題だっていいじゃない!これは平成を見送り新たな時代を祝うための盛大な宴の映画。 そしてインド映画。 カレー食ってたし間違いない。 楽しい大団円だし踊れる主題歌だしこれはインド映画ですわ。 ジオウはインド映画。 ゼロワンくんの冬映画めちゃくちゃ気になるけど受験あるし12月とか見れるわけ……やっぱつれえわ。 siratakimon.

次の