アベベ オリンピック。 1964年東京オリンピック

東京オリンピックと「コカ・コーラ」第3回 選手たちの“食”を支えた学生アルバイト: The Coca

アベベ オリンピック

実はそうなんだ。 途中でシューズを脱いで、『裸足のアベベ』になったんだぞ。 【雑学解説】アベベは途中でシューズを脱いで裸足で走った ローマオリンピック、マラソン競技。 スタートに立ったアベベは、 無名選手であり、ほかのランナーたちにとって、特別気にかける相手でもなかっただろう。 スタートして競技場を出るときにはシューズをはいて、最後方で走っていたというアベベ。 しかし、 15キロ地点をすぎたころには先頭集団に入っていたのだ。 しかも 裸足で…。 そして30キロ地点でトップに出たアベベは、そのまま優勝したのである。 ノーマークだった選手がいきなり優勝したことももちろんだが、裸足で走っていたことに当時の人々はおどろきと同時に興味津々だったであろう。 なぜ裸足なのか? と聞かれて、アベベはこう答えたそうだ。 「裸足のほうが走りやすそうだと思ったから」 このとき、アベベは 足が痛んでペースが落ちたそうで、オンニ・ニスカネンコーチと相談した結果、シューズを脱ぎ、 裸足でローマの石畳の上を走ったのである。 山を裸足で駆け回るような幼少期を過ごしていたアベベ…。 足の裏の皮膚は厚かったそうだ。 これが、「裸足のアベベ」が誕生した理由だったのか…。 おどろきの事実だった。 もともと裸足で参加したのだと思っていたが、 途中でシューズを脱ぎ捨てた結果だったのである。 アベベ選手はもう一人いた このローマオリンピックには、 もう一人「アベベ選手」がいた。 それは、 金メダリスト、 アベベ・ビキラのお兄さん、 ワミ・アベベ選手である。 ワミは、 7位でゴール。 兄弟2人ともオリンピックで入賞したのだ! といいたいところだが、当時は6位までが入賞だったそう。 8位までが入賞となる現在なら、ワミも入賞になっていたのだが…。 マラソンレースの招待状が届き、スポーツメーカーからは シューズを提案された。 スポーツメーカーにすれば、世界から注目される選手が製品を使えば、大きな宣伝になるものだ。 日本からも「毎日マラソン」に招待しており、 1964年に開催予定の東京オリンピックの下見もかねて、 1964年に来日している。 その際には、当時マラソンシューズの開発をしていた日本のスポーツメーカー 「オニツカ(のちのアシックス)」の創業者である鬼塚喜八郎が、アベベの宿泊先へ訪れて、 シューズを提案したそうだ。 最初アベベは、「シューズは必要ない」と断っていたそうだが、 日本の道路事情があまり整備されていないことや、 オンニ・ニスカネンコーチのすすめもあり、鬼塚が提供した 「オニツカタイガー」を履いて、毎日マラソンに参加した。 オニツカタイガーを履いて走ったアベベは、2位に10分以上の大差をつけて 優勝。 アベベは、 シューズのおかげだと、感謝したそうだ。 日本のメーカーの靴がアベベの優勝に貢献できたのは誇らしいな!。 「 アベベをサポートしたい。 ぜひこれを履いて優勝して欲しい」 そんな思いでシューズを提供した鬼塚にとって、次の東京オリンピックでも、ぜひ「オニツカタイガー」を履いて金メダルをとって欲しいと思っただろう。 しかし、 アベベが東京オリンピックで履いた靴は、オニツカタイガーではなかった…。 えーっ!? なにがあったのだろう…。 このときアベベは、 マラソン種目で世界初の二連覇を世界新記録で達成。 4年前のローマオリンピックで、裸足で走ったアベベは、今大会では しっかりとしたシューズを履いていたのだ。 そのメーカーは、 「プーマ」。

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東京オリンピック 1964年 マラソン アベベ

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第17回ローマ(1960年) 最終日に行われたマラソンで、レース前はまったくの無名だったアベベ(エチオピア)がはだしで走り、優勝をさらった。 古代ローマ時代の主要街道の一つであるアッピア街道を走る片道コース。 石畳のところもあり、並みの人間ならとてもはだしで走れるものではなかった。 優勝タイムは2時間15分16秒0の世界記録。 観衆はスーパースターの出現にど肝を抜かれた。 アベベは1964年東京大会で史上初の連覇を達成したが、1969年に交通事故を起こして下半身不随となり、その後遺症がもとで1973年に死去した。 男子体操で日本が初の団体総合優勝、その後の五輪と世界選手権で10連覇という輝かしい「体操ニッポン」のスタートとなった。 自転車ロードレースでデンマークの選手が競技中に死亡し、興奮剤を使用していたことが判明。 オリンピックでドーピング(薬物不正使用)が明るみに出た最初のケースで、この事件をきっかけにIOCはドーピング対策に乗り出し、第19回のメキシコ市大会からは具体的な薬物を示して規制をするようになった。 【その時世界は】 1月、日米新安全保障条約が調印された。 米国による日本防衛の見返りに、日本が米国の軍事体制に組み込まれることになったとして学生らが大規模抗議行動に。 6月、国会内に突入したデモ隊と警官隊が衝突、東大生の樺美智子さんが死亡した。 2年前に東京タワーが完成したこともあり本格的なテレビ時代に。 60年にはカラー放送も始まった。 米国では43歳のケネディ氏が大統領に当選。 初のテレビ討論が勝敗を分けたとされた。 〔主要参考資料〕近代オリンピック100年の歩み(ベースボールマガジン社)、最新スポーツ大事典(大修館書店)、オリンピックの事典(三省堂)、国際オリンピック委員会の百年(IOC)、日録20世紀(講談社)、JOCホームページ.

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裸足のアベベをご存知でしょうか?オリンピックで裸足でマラソンを完走して、金...

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オリンピズムは肉体と意思と精神のすべての資質を高め、バランスよく統合させる生き方の哲学である-。 オリンピック憲章にある根本原則の冒頭の言葉だ。 同じように「人間の身体能力と精神の限界を超えていく挑戦」を、世界中の自然を相手に体現し続けている人がいる。 世界最高齢の80歳でエベレスト登頂を果たし、さらなる挑戦を続ける登山家でプロスキーヤーの三浦雄一郎氏(86)だ。 来年1月に、南米最高峰アコンカグア(6962メートル)の登頂とスキー滑走に出発する三浦氏に、五輪への思いを聞いた。 【清水優】 2020年東京五輪についてインタビューに臨む登山家の三浦雄一郎氏(撮影・小沢裕) 新国立競技場にほど近い渋谷区内の自宅兼事務所。 遠征準備に忙しい三浦氏を訪ねると、笑顔で迎えてくれた。 「国立競技場がすぐそこですからね。 設計した隈研吾さんに言わせると、最上階の外側に木を植えた遊歩道『空の杜』ができる。 歩くのが今から楽しみですよ」。 2020年大会の足音を間近で感じている。 特に、20年東京五輪では五輪初の新種目スポーツクライミングが導入される。 「ボルダリングは仲間の平山ユージくん(日本山岳・スポーツクライミング協会副会長)のところに遊びに行った程度ですが、岩登りは学生時代からやっていました。 日本選手が世界トップの活躍をしている。 大いに期待しています」。 ボルダリング、スピード、リードの複合競技は、スピードが課題の日本人には不利とも言われるが、10月のブエノスアイレスユース五輪では土居圭太(18)が金メダル、田中修太(18)が銀メダルを獲得した。 三浦氏も「やる気でやれば大丈夫」と声援を送る。 楽しみにしている2020年大会の前に、三浦氏には大きな挑戦が控えている。 南米最高峰アコンカグアの登頂とポーランド氷河でのスキー滑走だ。 アコンカグアは7大陸最高峰のスキー滑走の集大成の山として85年に行って以来だ。 「前回、53歳の時も高山病になりながらえらい苦しんだ。 86歳になって、果たしてできるかできないか。 挑戦したい」。 標高は6962メートルだが、非常に風も強く、ヒマラヤの8000メートル級の厳しさがあると言われる。 「登頂率30%。 7割が失敗する。 その平均年齢も40代の数字です。 私には1万メートル級の山に感じると思います。 そこに登り、滑りたいんです」。 1964年東京五輪のマラソンで優勝したエチオピアのアベベ・ビキラ 世界中を渡り歩く冒険家の三浦氏だが、五輪との縁は浅からぬものがある。 94年リレハンメル五輪、98年長野五輪出場の次男豪太氏(49)を始め、長野五輪金メダルの里谷多英氏(42)も三浦氏のスキースクール出身だ。 校長を務めるクラーク国際高校の卒業生にも、14年ソチ五輪スノボ女子の銀メダリストの竹内智香(34)や06年トリノ五輪、10年バンクーバー五輪出場の家根谷依里(34)らがいる。 「チャレンジすることの素晴らしさを若い世代に伝えたい」というのも、挑戦を続ける理由の1つだ。 三浦氏自身も、五輪を目指したことがあった。 北大の研究職を辞め、スキーで60年スコーバレー五輪を狙った。 しかし、58年の全日本選手権の出場枠をめぐる意見対立から、アマチュアスキー界を永久追放された。 それでも挑戦はやめず、プロスキーヤーに転身したのが、冒険家としての出発点だった。 62年世界プロスキー選手権に東洋初のプロとして出場。 「(56年コルティナダンペッツォ五輪男子スキー3冠王)トニー・ザイラーたちと滑って最高3位でした」。 64年は、7月にスピードを競うキロメーターランセ(イタリア)で当時世界最速の時速172・084キロを記録した。 プロスキーヤーとして世界に認知され始めたこの年の10月、東京五輪が開催された。 五輪はテレビにかじりついて見た。 「戦争に負け、復興しかけてはいても、さほど世界で認知されていない日本の選手がどんどん活躍した。 これから伸びる日本を象徴しているような気持ちにさせられた」。 ただ、最も強烈印象に残ったのは、男子マラソン金メダルのアベベだ。 「黙々と瞑想(めいそう)するように走る姿は、人間の原点のように見えた」。 大きな刺激を受けた三浦氏の挑戦は、より困難な目標に向かった。 66年に富士山直滑降に成功。 その後、エベレスト初登頂者のエドマンド・ヒラリーを訪ね、エベレストのサウスコル(8000メートル)の写真を見た。 「スキーで滑りたい」と言うと、ヒラリーは「人間は不可能に挑戦し、越えてきた。 私もその1人だ」と応援してくれたという。 70年、エベレストのサウスコルからの世界最高地点からのスキー滑降に成功し、記録映画はアカデミー賞を受賞。 83年には南極のビンソン・マシフ滑降に成功。 85年までにセブンサミッツ滑降を達成した。 03年の70歳、08年の75歳、13年の80歳で3度のエベレスト登頂に成功し、世界最高齢記録を樹立した。 「自分の限界を超えていく。 人間のまさに身体能力、精神を含めた限界を新しい時代に向けて広げていきたいんです」。 80歳の登頂時には、2020年東京五輪の招致の旗も振った。 五輪の精神も、三浦氏の挑戦の気持ちも、「一緒だ」と考えているからだ。 今は、目前の挑戦に向けた準備に全力を傾けている。 「五輪は、帰ってきてからゆっくり楽しもうと思っています」。 三浦氏は来年1月2日に南米へ向け、出発する。 三浦氏もこれらの種目について「今までの五輪種目とは違う、もっと自由度の高い、チャレンジ精神のあるスポーツ。 ショーアップもされていて、危険度は高いものもありますけど、世界中、地球レベルで遊び回れる魅力がある」と語った。 三浦氏のキロメーターランセ、富士山直滑降やサウスコル滑走の挑戦も、エクストリームスポーツに分類が可能。 三浦氏自体が、日本のエクストリームスポーツの元祖とも言える。 富士山とサウスコルで、必要に迫られてエアブレーキとして使用したパラシュートが「パラグライダー」の元になったとの逸話もあり、「はるかなる元祖みたいに言われています」と笑う。 スポーツクライミングを始め、BMXでもスケートボードでも、日本人選手が世界的な活躍を見せており、三浦氏も「楽しみです」としている。 64年に直滑降のスピードを競うイタリア・キロメーターランセで時速172・084キロの世界記録(当時)を樹立。 70年はエベレストの8000メートル地点からスキーで滑降、ギネス認定。 当時の記録映画は米アカデミー賞(長編記録映画部門)を獲得した。 85年には世界7大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。 エベレストには70、75、80歳の3回登頂。 家族は妻と2男1女。 次男豪太氏はモーグルでリレハンメル、長野五輪代表。 164センチ、85キロ。 五輪 正しく恐れ、正しく行動できれば五輪は開催できる []• テニス [6月27日 17:47]• 東京オリンピック2020 [6月27日 6:01]• 東京オリンピック2020 [6月26日 22:44]• 東京オリンピック2020 [6月26日 20:45]• ラグビー [6月26日 15:08]• 東京オリンピック2020 [6月26日 13:50]• 東京オリンピック2020 [6月26日 8:19]• パラリンピック 欠端瑛子らゴールボール東京パラ内定を維持 []• パラスポーツ [6月24日 13:43]• パラスポーツ [6月22日 17:51]• パラスポーツ [6月20日 17:50]• パラスポーツ [6月14日 17:05]• パラスポーツ [6月11日 13:44]• パラスポーツ [6月10日 13:48]• パラスポーツ [6月9日 10:41]• パラスポーツ [6月8日 13:19]• パラスポーツ [6月5日 12:04]• パラスポーツ [6月3日 12:23]• リオ五輪 バド金の高橋&松友「うれしい」銅の奥原「重い」 []• スポーツ [8月25日22:18]• スポーツ [8月25日21:27]• 五輪一般 [8月25日12:30]• 五輪一般 [8月25日11:41]• 五輪一般 [8月25日9:38]• 日本代表 [8月25日7:52]• 五輪一般 [8月24日20:23]• ラグビー [8月24日9:53]• ラグビー [8月24日9:45]• J1 [8月24日7:53]•

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