ウル 第 三 王朝。 古代メソポタミア文明~シュメール人・アッカド人の王朝の興亡まとめ

メソポタミア文明:ウル第三王朝③ 二代目シュルギ

ウル 第 三 王朝

現にある、ウル・ナンム治世下に建てられたと言われる「ウルの」()。 ジッグラト遺跡の中では最も保存状態がよい。 現在は2層が残り高さは20mだが、かつては3層であったとも言われる。 月神を祀る神殿が頂座に置かれた。 ウル第三王朝(ウルだい3おうちょう、 3rd dynasty of Ur)は、からにかけてを支配した王朝。 の軍事司令官であったが自立して、前22世紀末に ウル第三王朝が建てられた。 建国者のウル・ナンムは、の建築やの建設などを行うとともに、と称される法典を定めた。 この法典は、のちに古バビロニア王国でまとめられるに影響を与えたと考えられる。 第2代の時代までに行政機構が確立し、王権の神格化も進んでいった。 しかし、まもなくこの王朝はやの侵入に苦慮することとなった。 シュルギ王やのちの王は、彼らの侵入を防ぐために防壁を設けた。 (または)、シュ・シンの息子である王の時代にが侵攻するとウルは陥落。 エラム人によって王ははるか東方へ連行され、これをもってウル第三王朝は滅亡した。 その後 [編集 ] はの影響下に置かれ、にが誕生し、に第6代の王がメソポタミアを再び統一した。 一方、は、にのがのを破って新王に即位したが、の台頭に押された。 の時代には、当初はの勢力圏下に置かれたが、の治世にミタンニ王国の影響下を脱すると、を征服しての一大勢力となった。 歴代君主 [編集 ]• (前2113頃 - 前2096頃)• (前2095頃 - 前2048頃)• (前2047頃 - 前2038頃)• (前2037頃 - 前2030頃)• (前2029頃 - 前2006頃) 関連項目 [編集 ]• この項目は、に関連した 書きかけの項目です。

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ウル

ウル 第 三 王朝

「洪水が襲った。 洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。 王権はキシュにあった」 この大洪水はシュメール神話にもなっていて、聖書の「」のネタ元だ。 実際に大洪水が当時の全シュメールを一掃したわけではないらしいが、なにかしらの厄災があって、それを洪水になぞらえたのかもしれない。 王権を手にしたキシュは南の北部(のちに(地方)と呼ばれる)の都市だから南部(シュメール地方)にだけ厄災が起こったのかもしれない。 王名表の中からキシュ第1王朝と第1王朝を取り上げよう。 ウル第1王朝については別の記事記事「」で取り上げた。 キシュ第1王朝 キシュ王はその後 するが、この王朝をキシュ第一王朝と呼ぶ。 キシュは人(シュメール語とは別系統の語系言語を話す人々)が古くから住みついていた。 「Kish<英語版」によれば、前3100年ころから初期王朝時代にかけて強大な影響力を持っていた。 王名の前半はの動物名を当てているので、実際のは第13代にあたるエタナという説がある。 ただし考古学資料で確証されているわけではない(エタナの在位は1560年)。 王名表の中で実在が確定されている最初の人物はエンメバラゲシ。 エンメバラゲシとその息子で後継者のアッガについては記事「」で書いた。 第1王朝 王名表によれば、王権がキシュ第1王朝から第1王朝へ移ったとする。 しかしこれが史実だという証拠はない。 この王朝で比較的名の知られている王は2、3、5代の王すなわちエンメルカル、ルガルバンダ、で、彼らは英雄の物語に現れる。 これらの物語について書いてみる(この物語がどの程度史実に関係があるのかは分からない)。 アラッタという都市(国家?)はシュメール(南)から遠く離れた東方にあった。 ここはに代表される鉱物の供給地としてシュメール諸国としては重要な取引相手だった。 補足:アラッタではにはない瑠璃などの宝玉、貴金属に恵まれ、それらを細工する技術と職人も持ち、それらの製品交易によって経済力も確かなものだったと思われる。 エンメルカルはしばしばアラッタの君主と対決してきたが、今回の遠征目的はそんなアラッタの貴金属とそ加工技術、そして貿易路の確保と導入によっての発展に貢献することであった。 出典:ルガルバンダ< 『とインダスのあいだ』によれば、エンメルカルがアラッタの君主と対決する前に、キシュ第1王朝のエンメバラゲシがの首都スーサを崩壊させた。 当時はスーサが(シュメールから見た)東方からの物資が集中する供給拠点で首都の役割も持っていた。 スーサ陥落の後、の司令塔(首都)はアラッタに移った。 アラッタとの対決・交渉する王もキシュ王から王に移った。 物語は両者の和解が成立しシュメールへの物資供給が正常化し めでたしめでたしで終わる。 物語中のシュメール側の攻撃姿勢にもかかわらず、両者の関係は対等だったようだ。 エンメルカル、ルガルバンダ両王の実在性の確証はない。 は『』の主人公として王名表の中でも、初期王朝時代の人物でも最も有名な王だ。 ただし、彼の実在性を確証するものが出土していない。 英雄譚の中で、史実に関係がありそうなものの一つとして、『とアッガ』という物語がある(これは『』には含まれない)。 ここに登場するアッガはキシュ第1王朝の最後の王アッガだ。 物語では、アッガ王がを屈服させようとするが、王は屈服することを良しとせずに立ち向かい、を包囲していたアッガ王を捕らえることに成功した。 しかしはアッガを解放しキシュに返した。 「<<」では「がアッガに戦勝したことでに王権が移ったと伝えられている。 この背景を踏まえて物語を振り返ってみると、『とアッガ』が史料的・歴史的事実の反映を伝えているのは明らかである」と書いているが、これを史実とすると、上のエンメルカル、ルガルバンダ両王がシュメールの盟主だという仮説が怪しくなる。 の王権奪取説も仮説だが。 キシュ王エンメバラゲシ、エンメルカル、ルガルバンダとアラッタの対決・交渉をみると、この3王はシュメールの盟主(の王)となって、東方の王と対峙した、と考えることができるだろう。 古代で言えばの、現代でいえばアメリカの元首とおなじ役割を担っていたのだろう。

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ウル第3王朝

ウル 第 三 王朝

ウル第三王朝の特徴として挙げられるもののほとんどはシュルギの治世に創設・整備された制度である。 諸制度の創設・整備と同時並行して、シュルギは外征を繰り返して最大版図を築きあげた。 つまりウル第三王朝の代表的な版図もシュルギの時代のものだ。 諸制度の創設・整備 ウル第三王朝第二代のシュルギ王は有能な王であった。 彼の48年にわたる長い治世は「年名」からたどることができ、治世20年頃に諸改革をおこなっている。 出土した行済文書の多数は治世の後半以降に書かれ、中央、地方を問わず行政組織が整えられた。 各都市の文書の形式、用語も統一され、度量衡も統一された。 治世20年の「年名」に「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」があって、この年にが作られたようだ。 20年以降に外征についての「年名」が増え、なかでもフリ人征伐に力を注いでいる。 出典:/シュメル//2005/p201• フリ人(フルリ人)とは(からまで東西に走る山脈)を故郷として北に移ってきた人びと。 ウル第三王朝の頃はまだ国家を形成するほどの民族ではなかった。 (フルリ人<参照)。 シュルギの治世に創設・整備された制度を幾つか箇条書きにしてみる。 (上の『シュメル』と前田徹著『初期史の研究』(p138-139)を参照)• 文書による行政。 文書の形式、用語の統一。 度量衡の統一。 貢納制。 統一的会計システム。 ウルナンム法典もシュルギの治世にできたと主張する学者もいるそうだ。 ちなみに裁判制度については何時出来上がったのかは分からないが、中央集権的なものではなく、各都市で整備され、専門の裁判官を任命した(前掲書/p180)。 版図と支配体系 出典:前田徹/初期史の研究/出版部/2017/p140• 上の上図はにある地図の2017年バージョン。 上の図は前田氏とシュタインケラー氏の考える2つの案である。 シュタインケラー氏の案(steinkeller 1987)は、前田氏によれば通説化しているという(ちなみに「Third Dynasty of Ur<英語版」にこの図が載っていた)。 前田氏の案は、まず大きく中心地域と周辺地域に分けて、周辺地域を国地域と軍政地域に分けている。 いっぽう、シュタインケラー氏の方は、CORE(中心地域)とPERIPHERY(周辺地域)とVASSAL STATES(半独立的な臣従国)の3区分を採用している。 上の本では、シュタインケラー氏の主張と対比させながら前田氏が持論を展開している(p139-152)。 中心地域 まず、中心地域とは、シュメール・地方のことだ。 この地域は王朝以前のの体制を維持しながら、彼らに「バル義務」を課した。 バル義務とは、主要な都市の支配者に輪番で月ごとににおいてエンリルをはじめとする神々に奉仕すること(前掲書/p142)。 これに対して、氏は、「シュメールや地方の諸都市は、交替でウル王権にたいしてなどの貢納を負担した」と手短かに書いてある。 これはおそらく「Bala taxation<英語版」と対応しており、通説に近いかもしれない。 Bala taxationはようするに徴税システムのことだ。 ただ、前田氏のバル義務はこれとは別の義務なのかもしれないが、よく分からない。 前田氏の挙げるバル義務を課された主要な都市は、その多くは初期王朝時代から続く都市だが、興味深いのはイシンやスサもこの義務に加わっている。 イシン(シュメール地方の北部の都市)とはウル第三王朝末期に独立したイシン第一王朝が興った都市だ。 スサは中心地域ですらないが、地方の中心都市ということでバル義務を課された(ただし一度だけ)。 シュルギ治世から最後の王イッビシンまでを通して見ると、バル義務を課された都市は、地方ではバビロンなど10都市を数えシュメール地方のその数を遥かに凌駕する。 シュメール地方よりも地方の優位性が際立っている。 ウル第三王朝時代よりも前からシュメール地方は塩化に悩まされ続けていたが、他地域より際立って肥沃な大地だったシュメール地方はついにその優位性を失ったようだ。 王朝は都市から軍事権を取り上げることには成功した(p150)。 そして王朝は各地で神殿を建設したが、祭儀権までは取り上げられなかった。 の伝統を受け継ぐ有力都市は従来の祭りを行うとともに暦についても従来のごとく独自のものを使用した。 王朝はこれらに介入を試みたが、従来の形態を壊すことはなかった(p169~)。 王朝と有力都市の関係は連邦制国家に近い。 有力都市には支配者(エンシ)がいて内政を支配していた。 ちなみにこの記事の最初の方で「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」という徴兵についての「年名」を引用したが、諸都市に対しての徴兵はできなかった。 ウルの王は「王直属の軍事組織を創設し、フリ系などの異民族出身者などを将軍とした」(p160)。 国地域 前田氏の主張では国地域は周辺地域にの下に置かれる。 国地域は西は地中海東岸から東は地方のアンシャン、南は地域のマガンまで広範に亘る。 各地より定期的もしくは臨時にが為されるが、家畜以外にあらゆる物資が中央へ送られた。 この貢納をグナ貢納という(p145)。 興味深い貢物の一つとしてシリア地方エブラからは杉が送られる。 杉は建材や船材として良質で歴史を通じてオリエントで使われていた。 東西の国地域の差 同じ国地域であっても、西と東の地域では様相が異なる。 国地域の西半分、マリの上流部とを遡り東地中海岸に至る地域では、そこから派遣されてきた使節たちにウルの王は贈り物を与え優遇した。 加えて、臨時のグナ貢納あったとしても、マリを含めてシリア地方の都市からの恒常的な貢納持参の記録がない。 ウル第三王朝の直接支配を受けないで、むしろ両者は独立王国間の外交的関係で結ばれていた。 出典:初期史の研究/p146 これに対して東の地方は王朝成立時の敵であり、頻繁に遠征を実施された常時要警戒の地域だった。 王朝は、年単位の貢納・降嫁そして遠征を駆使して地方の諸の分断・孤立化政策をとった(p147-148)。 ここはからの侵入口の一つで、特に防備を厚くしなければならない地域だった。 軍政地域は「周辺地域」の一部ではあるが、国地域とは軍事面と貢納により違いが生じている。 軍事面では中央から将軍(シャギナ)が率いる軍隊が駐留した。 民政は在地が行うが将軍が軍民両政を握ることもあった(p149)。 この地域の貢納は「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」(軍隊の経費に充てられた?)であり、・恭順を示すグナ貢納とは違う、というのが前田氏の主張。 この貢納はシュシン治世3年にグナ・マダ貢納と名称変更された。 これに対してシュタインケラー氏はグナ貢納とグナ・マダ貢納の区別をせず、両方とも「重要な地点に駐屯する軍隊に課せられた税」と捉えた。 * * * 以上が中心地域と周辺地域の支配の模様となる。 「ウルの王が、支配領域の全域・全十味人に対する収奪、土地台帳を基礎にした地税と、戸籍をもとにしてを課すという一円支配を目指すことはなかった」(p152)。 四方世界の王 「四方世界の王」という王号は王朝の絶頂期を築いたナラムシンが使用したものだ。 ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」を名乗ったが、シュルギは治世20年、外征を始める前にこれを名乗った。 当時のシュルギは、ナラムシンに憧れて彼と同等の最大版図を築き上げようという大志を表明したのかもしれない。 ナラムシンの後継はこの王号を受け継がなかったが、シュルギの後継は継承した。 (p138) 王の神格化 これもナラムシンがやったこと。 ナラムシンがなった神は市の守護神(市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位)だったが、シュルギがなったのも大いなる神々の下位における支配領域の安寧を保証する守護神という地位だった。 王の神格化も継承された(p154-155)。

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