鵯 越え の 逆 落とし。 源義経が逆落としをしたのは本当なのか

戦国の騎馬は農耕馬?

鵯 越え の 逆 落とし

「平家物語」覚一本の記述 いわゆる「鵯越えの逆落とし」といわれる場面は、「」の標準的なテキストであるにはこんなふうに出ています。 御曹司是をみて「馬どもはぬしぬしが心得ておとさうには、損ずまじいぞ。 くはおとせ、義経を手本にせよ」とて、まづ卅騎ばかり、まッさきかけて落されけり。 大勢みな続いておとす。 後陣におとす人々のあぶみの鼻は、先陣の鎧甲にあたるほどなり。 (義経はこれを見て、「馬達は乗るものがそれぞれ注意して坂を落とせば傷つくことはないだろう。 さあ、落とせ。 私義経を手本にしろ。 」と言って、まず30騎ほどを連れて、先頭をかけて馬を攻め落とした。 たくさんの軍勢がみな続いて馬で駆けおりる。 後ろ側の陣でくだる人々のあぶみの先は、先陣の鎧甲にぶつかるくらいである。 ) 兵ども、みなつづいておとす。 ゑいゑい声をしのびにして、馬にちからをつけておとす。 あまりのいぶせさに、目をふさいでぞおとしける。 おほかた人のしわざとは見えず。 ただ鬼神の所為とぞ見えたりける。 (武士達はみな続いて馬で駆け下りた。 えいえいという声をひそやかにかけて、馬を力づけながら落としていく。 あまりの恐怖に目をふせいで馬を落とした。 まったく人間のすることとは思われない。 ただ鬼神のなすわざだと見えた。 ) 巻九「 坂落」の記述です。 この奇襲を受けて平家の陣は壊滅的被害を受けます。 この「鵯越えの逆落とし」といわれる場面は「」で登場します。 「一の谷の合戦」とは? では、そもそも「一の谷の合戦とはどういう戦いだったのでしょうか。 が京に入ったのに伴って、平家は京を離れて、地方で勢力を立て直すことを目指します。 平家はを連れて、四国の屋島に辿り着きます。 一方でその木曾義仲も都でうまくいかないままに、結局同じ源氏の義経らの軍勢に討たれてしまいます。 その間に徐々に勢力を取り戻した平家は、讃岐の屋島から出て、福原に移り、一の谷に要塞を築き、京を再び伺う姿勢を見せています。 源範頼、義経は後白河法皇から、平家に持ち去られたままになっている三種の神器を取り戻すよう命じられ戦いに挑む、というのが一の谷合戦の構図です。 源範頼は大手(正面側)の将軍として、義経は搦め手(背後側)の将軍として京を出発します。 途中で義経は一万騎の軍勢を二手に分けて、七千騎を土肥次郎に任せて一の谷の西にさしむけ、自らは三千騎を率いて「一の谷の後ろ」とされる「鵯越」に向かいます。 一方、大手の源範頼は、生田の森に五万騎を率いて構えています。 ですから、一口に「一の谷の合戦」と言っても戦場となった場所を大きく3つに分けて考える必要があります。 A 生田の森(大手) 平知盛・重衡ら VS 源範頼ら B1 一の谷の西側(搦め手の正規部隊)平忠度・敦盛ら VS 土肥次郎実平ら B2 一の谷の北側(搦め手の奇襲部隊)平教経・通盛ら VS 源義経ら ちなみにこのA・B1・B2が現在どこに当たるのかは諸説があります。 Aは現在の 神戸三ノ宮駅付近の生田神社のある辺りとされます。 Bについては須磨浦公園の付近一帯とし、B1を 塩屋とし、「逆落としの行われたとされるB2は、須磨浦公園からロープウェイでのぼることのできる位置にある「」とする見方が主流です。 (B2を現在でも地名として残っている「鵯越」と考える説も主張されています。 ) この辺りを詳しく検証していきます。 須磨浦公園駅の背後にある鉢伏山 「平家物語」の異本(バージョン違いの本)のひとつである「 長門本」には、義経軍が坂落としをする直前に、 こんな記載があります。 九郎義経一の谷の上、鉢伏と蟻のとと云ふ所へ打上りて見れば、軍は真盛りと見えたり、下を見おろせば、或は十町ばかりの谷もあり、或は廿町ばかりの岩もあり、人も馬も通ふべき様もなし。 これと近い記述が平家物語の諸本にも見られることから、義経がいわゆる逆落としをした場所として有力視されているのが、須磨浦公園駅の背後にあるです。 現地に行って確かめて来ました。 確かにここで逆落としの奇襲が行われたらドラマティックですね。 大河ドラマの映像も確かにこういう感じの雰囲気でした。 ところが、広がる歴史ロマンなイメージを覆すような記録も残されているのです。 「玉葉」の記述や、鵯越の場所について この合戦の当時に生きていた貴族、の日記である「」は当時の歴史的事実を知るための重要な歴史資料のひとつです。 この玉葉にこんな記事があるのです。 どうもこの部分を見ると、山の方から攻め寄せた人物は 義経ではなく、「」ということになりそうです。 さらにこういう事実もあります。 実は上でも述べたように今でも現地には 鵯越という場所が存在します。 そして、この周辺には、この合戦で亡くなった平家の公達らの墓も多くあります。 例えば、湊川公園駅から歩いていけるところにある「 願成寺」には、と妻のの比翼塚があります。 平通盛は B2の地域で戦っていたわけですが、塚は現在でも鵯越と呼ばれる方面にあるわけです。 そのような事情もあって、実際に義経が戦ったのもこの現在でも鵯越と呼ばれている辺りであって、須磨浦公園の方ではないと考える説もあります。 その立場を取ると、この一の谷の戦い自体が、もう少しコンパクトな範囲で行われた戦いであった可能性も考えられます。 吉川英治の解釈 こんなふうに歴史的事実にいろいろな可能性があるものについては、小説化したり、ドラマ化したりする際には、充分な考証と、作り手側の判断というものが必要になっていきます。 国民的歴史小説作家であるは「」で、この「一の谷の合戦」を描くにあたって綿密な現地取材を行っています。 その結果、 義経勢が南下して来た道は、現在の鵯越え遊園墓地から、明泉寺、長田を駆けおり、妙法寺川に沿って、戦い戦い、輪田岬の西方の海浜、すなわち駒ヶ林附近へ出てきたものであったろう。 — なぜならば、平家方の主将の戦死跡がその線を描いているし、もっと重要なことは、駒ヶ林の浜に平家の軍船が集まっていたことである。 安徳天皇もそこの船中におられ、また一ノ谷や生田方面から落ちてきた平家の将士は、すべて、船上へ逃げ移ろうと、そこの一点へ争い集まってきたものと思われるからだ。 」 と述べて、いわゆる「逆落とし」については 否定的な立場を取り、実際の小説もいわゆる「逆落とし」はなく「 坂を下りる」だけの記述になっています。 明泉寺の縁起にも書かれています。 学会では吉川英治「新・平家物語」は、それが書かれた頃の最新の学説を踏まえているという点で興味深い、と言われることがあります。 とはいえ、「逆落としの無い一の谷合戦」には、少し物足りなさも感じてしまいます。 歴史小説やドラマの描写について 1993年〜95年のNHK人形劇「平家物語」の原作は吉川英治「新・平家物語」です。 こちらでは「鵯越」の場面(第四部流転・第6話『和議の使者』)を、決戦場所こそ「明泉寺」に設定しています。 ですが、切り立った崖を馬で駆け下りるイメージは、古典の平家物語の描写をそのまま踏襲しているような映像作りになっています。 最初に述べた2005年大河も同じく。 歴史的事実は別として、どうも我々日本人は「 義経に逆落としをしてもらいたい」という強い深層意識があるように思われます。 「history(歴史)は「story(物語)」と語源を同じくすると言われます。 納得感のある物語を、歴史として楽しみたいという願望に、人はなかなか抗えないものです。 この辺りの心理と歴史的資料の折り合いをどうつけるかが、歴史小説や歴史ドラマを作る方々の腕の見せどころだと思います。 最近手に入れた本に、 増田祐美さんの「」という歴史小説があります。 地元神戸市生まれの作家さんの作品で、こちらの作品も、この一の谷合戦について、綿密な検証と、独自の解釈が書かれていました。 興味を持った方は是非読んでみてください。 スポンサードリンク 関連記事: あんまり歴史詳しくないただのネット情報ですが義経さんが崖から平家を襲い勝った戦は、本当は後白河法皇から平家に「源氏と戦わないように」と命令されていたので平家は義経さんに無抵抗で逃げて負けたとか。 もちろん源氏に強い武将が多かったので平家が負けたのでしょうけど義経さん漫画と平家漫画から、有名な戦争には武将に戦争を指示する人が必ずいるようでどんな強い武将も戦争が起きてから必ず翻弄されてしまう世界に引きずりだされていたのが現実ではないでしょうか。 ちなみに昔、本当かどうか知らないけど古代は宮殿のようなお屋敷に住んでいた有名権力者の子孫がいてあの日本史への怒りようから同じように翻弄されていたのかもしれませんし日本史漫画や日本史読みまくってあの怒りは人間として普通の感情ではあるということはわかったしいろいろ歴史書で傷ついたのは理解できるけど原因も理解してほしいし有名権力者や子孫を嫌って傷つけた表現をしたのではなく想像以上に難しいことが表現され傷ついたことばどうりではなく歴史学者がむしろ気が動転するぐらいの思いで権力者子孫のことを思い歴史書いたことを知ってほしいとは思った。 日本史は宇宙で一番難しいから。 後白河法皇も権力の大きさに舌を巻くだけですが三十三間堂は後白河法皇が一人で休みたいからと作ったとか。 あれも難しいわ。 まだ日本の方 カテゴリー• 128• 379• 368• 1,431• 150• 816• 594• 173• 100• 180• 145• 135• 109• 567•

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鵯 越え の 逆 落とし

「平家物語」覚一本の記述 いわゆる「鵯越えの逆落とし」といわれる場面は、「」の標準的なテキストであるにはこんなふうに出ています。 御曹司是をみて「馬どもはぬしぬしが心得ておとさうには、損ずまじいぞ。 くはおとせ、義経を手本にせよ」とて、まづ卅騎ばかり、まッさきかけて落されけり。 大勢みな続いておとす。 後陣におとす人々のあぶみの鼻は、先陣の鎧甲にあたるほどなり。 (義経はこれを見て、「馬達は乗るものがそれぞれ注意して坂を落とせば傷つくことはないだろう。 さあ、落とせ。 私義経を手本にしろ。 」と言って、まず30騎ほどを連れて、先頭をかけて馬を攻め落とした。 たくさんの軍勢がみな続いて馬で駆けおりる。 後ろ側の陣でくだる人々のあぶみの先は、先陣の鎧甲にぶつかるくらいである。 ) 兵ども、みなつづいておとす。 ゑいゑい声をしのびにして、馬にちからをつけておとす。 あまりのいぶせさに、目をふさいでぞおとしける。 おほかた人のしわざとは見えず。 ただ鬼神の所為とぞ見えたりける。 (武士達はみな続いて馬で駆け下りた。 えいえいという声をひそやかにかけて、馬を力づけながら落としていく。 あまりの恐怖に目をふせいで馬を落とした。 まったく人間のすることとは思われない。 ただ鬼神のなすわざだと見えた。 ) 巻九「 坂落」の記述です。 この奇襲を受けて平家の陣は壊滅的被害を受けます。 この「鵯越えの逆落とし」といわれる場面は「」で登場します。 「一の谷の合戦」とは? では、そもそも「一の谷の合戦とはどういう戦いだったのでしょうか。 が京に入ったのに伴って、平家は京を離れて、地方で勢力を立て直すことを目指します。 平家はを連れて、四国の屋島に辿り着きます。 一方でその木曾義仲も都でうまくいかないままに、結局同じ源氏の義経らの軍勢に討たれてしまいます。 その間に徐々に勢力を取り戻した平家は、讃岐の屋島から出て、福原に移り、一の谷に要塞を築き、京を再び伺う姿勢を見せています。 源範頼、義経は後白河法皇から、平家に持ち去られたままになっている三種の神器を取り戻すよう命じられ戦いに挑む、というのが一の谷合戦の構図です。 源範頼は大手(正面側)の将軍として、義経は搦め手(背後側)の将軍として京を出発します。 途中で義経は一万騎の軍勢を二手に分けて、七千騎を土肥次郎に任せて一の谷の西にさしむけ、自らは三千騎を率いて「一の谷の後ろ」とされる「鵯越」に向かいます。 一方、大手の源範頼は、生田の森に五万騎を率いて構えています。 ですから、一口に「一の谷の合戦」と言っても戦場となった場所を大きく3つに分けて考える必要があります。 A 生田の森(大手) 平知盛・重衡ら VS 源範頼ら B1 一の谷の西側(搦め手の正規部隊)平忠度・敦盛ら VS 土肥次郎実平ら B2 一の谷の北側(搦め手の奇襲部隊)平教経・通盛ら VS 源義経ら ちなみにこのA・B1・B2が現在どこに当たるのかは諸説があります。 Aは現在の 神戸三ノ宮駅付近の生田神社のある辺りとされます。 Bについては須磨浦公園の付近一帯とし、B1を 塩屋とし、「逆落としの行われたとされるB2は、須磨浦公園からロープウェイでのぼることのできる位置にある「」とする見方が主流です。 (B2を現在でも地名として残っている「鵯越」と考える説も主張されています。 ) この辺りを詳しく検証していきます。 須磨浦公園駅の背後にある鉢伏山 「平家物語」の異本(バージョン違いの本)のひとつである「 長門本」には、義経軍が坂落としをする直前に、 こんな記載があります。 九郎義経一の谷の上、鉢伏と蟻のとと云ふ所へ打上りて見れば、軍は真盛りと見えたり、下を見おろせば、或は十町ばかりの谷もあり、或は廿町ばかりの岩もあり、人も馬も通ふべき様もなし。 これと近い記述が平家物語の諸本にも見られることから、義経がいわゆる逆落としをした場所として有力視されているのが、須磨浦公園駅の背後にあるです。 現地に行って確かめて来ました。 確かにここで逆落としの奇襲が行われたらドラマティックですね。 大河ドラマの映像も確かにこういう感じの雰囲気でした。 ところが、広がる歴史ロマンなイメージを覆すような記録も残されているのです。 「玉葉」の記述や、鵯越の場所について この合戦の当時に生きていた貴族、の日記である「」は当時の歴史的事実を知るための重要な歴史資料のひとつです。 この玉葉にこんな記事があるのです。 どうもこの部分を見ると、山の方から攻め寄せた人物は 義経ではなく、「」ということになりそうです。 さらにこういう事実もあります。 実は上でも述べたように今でも現地には 鵯越という場所が存在します。 そして、この周辺には、この合戦で亡くなった平家の公達らの墓も多くあります。 例えば、湊川公園駅から歩いていけるところにある「 願成寺」には、と妻のの比翼塚があります。 平通盛は B2の地域で戦っていたわけですが、塚は現在でも鵯越と呼ばれる方面にあるわけです。 そのような事情もあって、実際に義経が戦ったのもこの現在でも鵯越と呼ばれている辺りであって、須磨浦公園の方ではないと考える説もあります。 その立場を取ると、この一の谷の戦い自体が、もう少しコンパクトな範囲で行われた戦いであった可能性も考えられます。 吉川英治の解釈 こんなふうに歴史的事実にいろいろな可能性があるものについては、小説化したり、ドラマ化したりする際には、充分な考証と、作り手側の判断というものが必要になっていきます。 国民的歴史小説作家であるは「」で、この「一の谷の合戦」を描くにあたって綿密な現地取材を行っています。 その結果、 義経勢が南下して来た道は、現在の鵯越え遊園墓地から、明泉寺、長田を駆けおり、妙法寺川に沿って、戦い戦い、輪田岬の西方の海浜、すなわち駒ヶ林附近へ出てきたものであったろう。 — なぜならば、平家方の主将の戦死跡がその線を描いているし、もっと重要なことは、駒ヶ林の浜に平家の軍船が集まっていたことである。 安徳天皇もそこの船中におられ、また一ノ谷や生田方面から落ちてきた平家の将士は、すべて、船上へ逃げ移ろうと、そこの一点へ争い集まってきたものと思われるからだ。 」 と述べて、いわゆる「逆落とし」については 否定的な立場を取り、実際の小説もいわゆる「逆落とし」はなく「 坂を下りる」だけの記述になっています。 明泉寺の縁起にも書かれています。 学会では吉川英治「新・平家物語」は、それが書かれた頃の最新の学説を踏まえているという点で興味深い、と言われることがあります。 とはいえ、「逆落としの無い一の谷合戦」には、少し物足りなさも感じてしまいます。 歴史小説やドラマの描写について 1993年〜95年のNHK人形劇「平家物語」の原作は吉川英治「新・平家物語」です。 こちらでは「鵯越」の場面(第四部流転・第6話『和議の使者』)を、決戦場所こそ「明泉寺」に設定しています。 ですが、切り立った崖を馬で駆け下りるイメージは、古典の平家物語の描写をそのまま踏襲しているような映像作りになっています。 最初に述べた2005年大河も同じく。 歴史的事実は別として、どうも我々日本人は「 義経に逆落としをしてもらいたい」という強い深層意識があるように思われます。 「history(歴史)は「story(物語)」と語源を同じくすると言われます。 納得感のある物語を、歴史として楽しみたいという願望に、人はなかなか抗えないものです。 この辺りの心理と歴史的資料の折り合いをどうつけるかが、歴史小説や歴史ドラマを作る方々の腕の見せどころだと思います。 最近手に入れた本に、 増田祐美さんの「」という歴史小説があります。 地元神戸市生まれの作家さんの作品で、こちらの作品も、この一の谷合戦について、綿密な検証と、独自の解釈が書かれていました。 興味を持った方は是非読んでみてください。 スポンサードリンク 関連記事: あんまり歴史詳しくないただのネット情報ですが義経さんが崖から平家を襲い勝った戦は、本当は後白河法皇から平家に「源氏と戦わないように」と命令されていたので平家は義経さんに無抵抗で逃げて負けたとか。 もちろん源氏に強い武将が多かったので平家が負けたのでしょうけど義経さん漫画と平家漫画から、有名な戦争には武将に戦争を指示する人が必ずいるようでどんな強い武将も戦争が起きてから必ず翻弄されてしまう世界に引きずりだされていたのが現実ではないでしょうか。 ちなみに昔、本当かどうか知らないけど古代は宮殿のようなお屋敷に住んでいた有名権力者の子孫がいてあの日本史への怒りようから同じように翻弄されていたのかもしれませんし日本史漫画や日本史読みまくってあの怒りは人間として普通の感情ではあるということはわかったしいろいろ歴史書で傷ついたのは理解できるけど原因も理解してほしいし有名権力者や子孫を嫌って傷つけた表現をしたのではなく想像以上に難しいことが表現され傷ついたことばどうりではなく歴史学者がむしろ気が動転するぐらいの思いで権力者子孫のことを思い歴史書いたことを知ってほしいとは思った。 日本史は宇宙で一番難しいから。 後白河法皇も権力の大きさに舌を巻くだけですが三十三間堂は後白河法皇が一人で休みたいからと作ったとか。 あれも難しいわ。 まだ日本の方 カテゴリー• 128• 379• 368• 1,431• 150• 816• 594• 173• 100• 180• 145• 135• 109• 567•

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源平ゆかりの古刹 ~敦盛の好んだ青葉の笛~ 「須磨寺」

鵯 越え の 逆 落とし

きのうお話したように、 最近は、都心でもよく見かける ですが、 むかしは、山奥にすむ野鳥として知られていました。 そして、 ヒヨドリといえば、その名をつけた 断崖絶壁の「 ひよどり越え」が、歴史的に有名です。 急降下する ヒヨドリくらいしか通れない 難所の 屏風(びょうぶ)を立てたような急坂の、 ひよどり越え(地名です)…。 その戦いの要所(ポイント)に立つ、若き 義経。 「 絶望」しない…… 発想の転換をします。 そして、名ぜりふをはきます。 鹿は四足(よつあし) 、馬も四足 鹿が通って、 馬が通れぬはずはない。 あれは、あれ」という 「固まった マニュアル」を「ゼロ=0」にしてみると、 新鮮なアイディアがひらめいてくるものです。 「煮詰まっているかた」は、ぜひ、おためしあれ… たとえば、下のヤントラの変化のように。 イメージ豊かでパワフルな、〔 内藤景代・作 ヤントラ〕です。

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