ショパン本。 ショパン・コンクールが生んだ「怪物」マルタ・アルゲリッチ。彼女をヨーロッパへ導いた「運命の人」とは

3年後、確実にクラシック・ピアノが弾ける練習法 ショパン編

ショパン本

ショパンは音楽好きの父と母のもとに生まれ、幼少期からピアノやヴァイオリン、フルートなど様々な音楽に触れながら育ちました。 わずか7歳でポロネーズを作曲したり演奏会を開いたりと、その才能はモーツァルトやベートーベンに並ぶと評判になっていきます。 ショパンの出身地であるポーランドはこの時代、ロシアの支配下に置かれていたため武装蜂起が絶えずあり不安定でした。 青年期はパリで音楽活動をしていたショパンですが、祖国ポーランドのことはいつも心にありポーランド人であることに誇りを持っていました。 ショパンの代表曲でもあるポロネーズやマズルカはポーランドの民族舞踊です。 生涯にわたって書き続けていたため、やはりポーランドへの愛国心や平和を願う気持ちが強かったんですね。 ショパンの人生に良い意味でも悪い意味でも影響を与えたと言われているのが、10年ほど交際していたジョルジュ・サンドという女性です。 彼女はショパンより6歳年上で、フランスの小説家でした。 マリー・ダグー伯爵夫人(この人はリストの愛人だったとか!)のホームパーティーで2人は知り合いました。 サンドはショパンの音楽の才能に惚れ込んでいましたが、ショパンは男勝りなサンドに良い印象を受けませんでした。 サンドはショパンに自分の想いを手紙にしてアプローチしていました。 初めは断っていたショパンですが(当時プロポーズしていた女性がいたため)だんだんとサンドにも好意を抱くようになります。 今でいうと草食系男子のショパンと、肉食系女子のサンド。 いつのまにかお互い惹かれ合い、交際するようになりました。 サンドはショパンの病弱な体を気遣い、手料理を作ってあげたり看病したりとても尽くしていました。 ショパンにとっても心強い支えとなり、サンドのおかげで美しい曲がたくさん書けたのも事実でしょう。 しかし冬の間、温暖な場所へ療養のためにと思って出かけたマヨルカ島が、あまり良くなかったのです。 天候が悪化しショパンの病状は悪化してしまいます。 さらにサンドの2人の連れ子との関係が良くなく、ショパンを悩ませていたそうです。 マヨルカ島から帰ってからは、サンドはフランス革命に興味を持ち始め、ショパンは変わらず美しいノクターンやマズルカを作っていました。 サンドはショパンの看病にだんだん疲れてしまい、2人の心の距離はだんだん広がってしまうのです。 次のページではショパンの生涯について歴史年表でご紹介します。

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フレデリック・ショパン

ショパン本

〜ショパン・ピアノの本〜ピアニスト〜 ピアニスト ここでは、ショパンを演奏するピアニストに関する本、ピアニスト自身が書いた本などを紹介します。 表紙・タイトル 内容・感想 20世紀の大ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインの伝記です。 8年ぶりに懐妊した7人目の子で、一時は堕胎も考えたと言われる特殊な状況での出生、 ショパンと同じポーランドの出身、神童と言われた少年時代、練習嫌いながら天才的な演奏能力を発揮して音楽界の寵児として君臨しながらも、 無類の好色ぶりで人生を浪費する前半生、スペインで予定の30倍以上という120回の演奏会の後、帰国した時、「当時の私は女性のことしか考えていませんでした」と語る豪傑、 45歳まで続いたプレイボーイを終わらせたのは、ポーランド指揮者の娘、絶世の美女アニエラ・ムリナルスカ、その結婚に至るまでの感動秘話。 その後、ホロヴィッツを意識してフランス山奥での猛特訓の日々、その後の華麗な演奏活動・・・華やかな色彩に彩られたバラ色の人生。 そして「公園のベンチに座って人々を眺めているだけで幸せ」と感じてしまう大らかで楽天的な性格。 90歳になるまで現役バリバリで演奏活動を続けることができた健康・長寿の秘訣、衰えを知らないバイタリティの背景には、 ルービンシュタインのこうした性格、姿勢が深く関わっていると考えられます。 1982年に95歳で大往生を遂げた後、30年以上が経過した現在に至ってもなお、彼の演奏は多くの人に繰り返し聴かれていますが、 ルービンシュタインを聴くときに、こうした背景を知っていると、より深く聴けること請け合いです。 ルービンシュタインの伝記には「神に愛されたピアニスト」、「華麗なる旋律」という自伝がありますが、 こちらは一般的な伝記です。 ショパンコンクールのドキュメント満載の貴重な1冊で、僕が知る限り類書は存在しません。 ショパンコンクール開始に至った経緯、超黎明期からショパンコンクール第1回(1927年)から第11回(1985年)まで、 毎回、ショパンコンクールで勃発した事件、スキャンダルについて、事細かに書かれています。 著者はポズナニ音楽院の出身で、一時期はショパンコンクール出場も考えたことがあるほどの腕前で、 第5回から第8回までラジオ放送の記者を務めたこともあるそうです。 特記すべきエピソードとしては、 最初から論外のレベルの参加者には演奏途中に鈴を鳴らして中止させた、 作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィッチも参加したことがある、 会場に犬が紛れ込んで、ある演奏者の演奏中に吠え続けた、 日本の参加者、原智恵子さんが聴衆から大きな支持を得たが入賞しなかったことで暴動が起きて「聴衆賞」という特別賞を設けて授賞させた、 トップが同点で2人並んだ時、1位、2位を決めたのは、なんとくじ引きだった、などなど、 思わず、「へぇ〜」と言ってしまうエピソードが盛りだくさんです。 ハラシェヴィッチとアシュケナージの点差は0. 1ポイントで、ミケランジェリはアシュケナージの優勝、2位は田中希代子さんを推していたが、 アシュケナージが優勝できないと知るや、審査結果にサインを拒否。 ポリーニも聴衆の熱狂的な支持を受けていて、彼を優勝させなかったら間違いなく暴動が起きる状況だった、とか、 ツィマーマンは、著者が聴いても、1次予選から群を抜いていた、など。 ポゴレリチが予選落ちしたとき、審査員をしていたアルゲリッチが「彼は天才よ」と怒鳴り、審査員を脱退したこと、 ブーニンが優勝した際のことなど、毎回、ショパンコンクールを熱心に観戦してきた著者であるからこそ、 このような記述が可能となったのだと思います。 ショパンコンクールについて記述された書物は他にも少数ありますが、 コンクールをリアルタイムで観戦し、その時その時のエピソード、事件、スキャンダルをリアルタイムで見てきた人が書いたものは 少なくとも日本ではこれ以外、存在しないようです。 その意味で非常に貴重な書物ですが、何故か絶版となってしまい残念です。 これは僕自身の「お宝」の1つです。 プレミアムがつくことよりも、この本の再販を切に願います。

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3年後、確実にクラシック・ピアノが弾ける練習法 ショパン編

ショパン本

ショパンの生涯 フレデリック・ショパンは、フランス人の父ミコワイ・ショパンとポーランド人の母ユスティナ・クシジャノフスカの間に1810年3月1日に生まれた。 父は16歳のときにポーランドに渡り、スカルベック伯爵の家庭教師などをつとめる。 同家で小間使いをしていた同伯爵家の遠縁にあたるクシジャノフスカと知り合い、二人は1806年に結婚する。 ショパンの兄弟では、3歳年上の姉ルドヴィカのほかに、妹イザベラ(1811年生)、エミリア(1813年生)がいる。 姉ルドヴィカとは強い絆で結ばれ、彼女はショパンの死を見取った。 家庭は、父がアマチュアとしてヴァイオリンを愛し、母もピアノと声楽を嗜むなど音楽的な環境にあり、ショパンは4歳からこうした家庭の中でピアノに触れるようになる。 6歳のときに、ヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを師事する。 このジヴニーのもとでのピアノ教育がショパンの音楽性の土台を形成する。 彼からショパンが与えられた作品は、モーツァルト、バッハ、ハイドン、フンメルであった。 1817年、一家はカジミエシュ宮殿の一画に転居し、恵まれた生活環境が実現する。 ショパンが最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲するのはこの年で、スカルベックの援助で出版された。 翌年にはラジヴィウ宮殿でピアノ協奏曲を演奏し、卓越した才能は注目を浴びる。 この時期から、ポーランドの民族的な語法に鋭い感性を示した。 1821年、11歳のショパンは65歳を迎えた恩師ジヴニーの誕生日を祝うために「ポロネーズ 変イ長調」を作曲する。 この時期すでにショパンの演奏能力が卓抜な水準にあったことを示すのが、12歳のときに行ったフェルディナンド・リースのピアノ協奏曲の演奏である。 リースは19世紀前期の代表的なヴィルトゥオーソで知られた作曲家である。 この年にショパンはユゼフ・エルスネルから作曲の指導を受けるようになる。 1823年、13歳のショパンは高等学校に入学する。 このときの学友にその後、ショパンの遺作の出版などでも貢献するフォンタナがいた。 1826年に高等学校を卒業するまでの間、ショパンはロシア皇帝によるワルシャワ訪問の際に、指輪を拝領する栄誉に浴している。 高等学校を卒業すると、エルスネルが校長を務めるワルシャワ音楽院に入学する。 作曲家としてショパンがその個性を発揮するようになるのはこのころからで、「マヅルカ風ロンド」(作品5)、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)が作曲される。 エルスネルは、作曲やピアノ演奏においても、ショパンの繊細な感性を損なうことなく、個性を伸ばすことに腐心したといわれる。 1828年、ショパンは初めて外国に赴き、ベルリンでウェーバーの「魔弾の射手」などを見る。 この年、ショパンは「ピアノソナタ第1番」(作品4)に加えて、意欲的な作品、「ピアノ三重奏曲 ト短調」(作品8)、「ポーランド民謡による大幻想曲」(作品13)、「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」(作品14)を作曲している。 この最後の作品は、1829年にウィーンのケルントナートーア劇場で催した演奏会で、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)とともに演奏されて絶賛された。 ショパンのピアノと管弦楽のための協奏曲および協奏的作品はすべてこの初期の時代に集中している。 なお、「ピアノ三重奏曲 ト短調」は、ラジヴィウ公爵に献呈されているが、ショパンは公爵の娘たちのピアノの指導を行うほか、チェロをたしなむ同公爵のためにチェロとピアノのための「序奏と華麗なポロネーズ」(作品3)を作曲している。 1829年に高等学校を卒業したショパンはウィーンに赴き、上記の演奏会を行う。 この年に「ピアノ協奏曲第2番」(作品21)が作曲されている。 ショパンはこの時期に、コンスタンツヤ・グワトコフスカという女性に深く心を寄せており、「ワルツ」(作品70-3)は彼女のために作曲された作品である。 1830年3月17日、ワルシャワで上述のピアノ協奏曲2番を初演した後、ショパンは再びウィーンに向けて旅立つ。 10月11日、告別演奏会が催され、ピアノ協奏曲第1番(作品11 や作品13が演奏される。 ウィーンに到着するものの、ワルシャワでロシア支配に抵抗する11月革命が勃発し、事態は一変する。 ポーランド人は危険人物として官憲の監視下に置かれる。 1831年、ウィーンで演奏会を開催するものの、ウィーンに失望し、やっとパリ経由ロンドン行きのヴィザを取得してパリに向かうことになる。 そして9月にパリに到着する。 その途上、シュトゥットガルトでワルシャワ革命が制圧された知らせを受け取り、大いに絶望する。 この年に練習曲「革命」(作品10-12)が書かれ、そのほか歌曲がまとまって作曲されている。 パリに着いたショパンは、リストと知り合いになり、メンデルスゾーンと再会した。 パリに到着したショパンは、当時パリで評判のヴィルトゥオーソで、ピアノ教育者のカルクブレンナーの指導を望んだ。 しかし、エルスネルは、それがショパンの個性を損ねることになると判断して指導を受けることに反対する。 カルクブレンナーは、ギド・マンというピアノ教育機器を用いた指導法を行ったことでも知られる。 パリで出会ったもうひとりの重要な音楽家が、チェロ奏者のフランコムである。 このフランコムとの出会いから、「マイヤーベーアのオペラ《悪魔のロベール》の主題による大二重奏曲」が1831年に作曲されている。 ショパンはワルシャワを発つ前からフィールドのノクターンに接していたと思われ、1829年にホ短調(作品72-1)、1830年に嬰ハ短調(作品番号なし)が作曲されていた。 1832年に作曲された「ノクターン」(作品9)は、名曲として知られるが、フィールドの書法との結びつきを感じさせる。 この作品はプレイエル夫人に献呈された。 ショパンがパリで知った重要な人物に、ピアノ製造業を営むプレイエルがいた。 ショパンが「香水のような香りがする」として絶賛したそのピアノは、ショパンの音楽の霊感の源泉となった。 当時のパリにはポーランドからの亡命者が数多く滞在していた。 ポーランドの革命を率いたチャルトリスキや詩人のミツキェヴィッチらも滞在していた。 そのなかでひときわ精彩を放っていたのがポトツカ伯爵夫人で、音楽や芸術の教養あふれる彼女のサロンには数多くの文化人が集った。 彼女はショパンがもっとも信頼を寄せた女性で、ショパンの死の床でショパンの求めに応じてアリアを歌った。 パリでのショパンの人生を一変させたのが、ロトシルド ロスチャイルド)男爵の知遇を得たことであった。 1832年、ショパンはラジヴィウ公爵に伴われて、大富豪で知られる同男爵のサロンを訪れる。 これがショパンの社交界デビューとなった。 男爵夫人はショパンの音楽才能に魅せられ、娘のシャルロットのピアノの指導を依頼する。 その後、貴族や資産家の人々がぞくぞくピアノ指導を求めるようになり、ショパンのパリでの生計は一気に好転する。 シャルロットは音楽の才能豊かな女性で、ショパンは彼女に「バラード第4番」やワルツを献呈している。 パリに住むショパンにとって大きな気がかりは家族のことであった。 彼が両親と再会するのは1835年8月、カールスバートにおいてである。 ここはボヘミアの温泉保養地で、ショパンはここで3週間を両親と共に過ごした。 帰路、ドレスデンに滞在していたヴォジニスキ家を訪問した。 フェリックス・ヴォジニスキとは彼は寄宿舎学校時代以来の友人であった。 この滞在先でショパンはフェリックスの妹のマリアと会い、美しく成長したマリアに彼は深く心をとらわれる。 そして彼女との別れ際に「ワルツ」を贈る。 これが有名な「別れのワルツ」(作品69-1)である。 10月にライプツィヒを訪れ、メンデルスゾーンと再会するほか、シューマン夫妻と会う。 シューマンは彼が編集する「音楽新報」で、ショパンの作品2を高く評価しており、「謝肉祭」にショパンを登場させるほか、後に「クライスレリアーナ」を彼に献呈している。 翌年7月、ヴォジニスキ家のマリアとマリーエンバートで再会する。 ここもボヘミアの温泉保養地である。 ショパンはパリのロシア大使館にヴィザの更新を行うことを潔しとせず、そのために、ロシア領となったポーランドに入国することは出来なくなっており、そのために国境近くのこうした町で再会することを余儀なくされたのである。 そして9月、ショパンはマリアに求婚する。 パリに戻ったショパンはマリー・ダグーのサロンでジョルジュ・サンドと会う。 1837年2月、ショパンはインフルエンザに罹り、健康状態が悪化する。 この出来事はヴォジニスキ家の両親の心象を悪くし、7月マリアから別離を告げる手紙を受け取り、ショパンが彼女に宛てた手紙が彼のもとに返送されてくる。 ショパンはその手紙の束をリボンで綴じて「私の悲しみ」と書き記して、終生手元に置いていた。 この年、「練習曲集」(作品25)や「ピアノソナタ第2番」が作曲された。 マリアとの別離もあり、ショパンはサンドとの交際を深めるようになる。 そして同年11月、ショパンはサンドとマヨルカ島に滞在する。 この滞在期間に「前奏曲集」の作曲を進める。 しかし、かねがね患っていた結核が悪化し、翌1839年2月フランスのマルセイユに戻り、サンドが別荘を持つノアンに落ち着く。 健康状態の悪化に見舞われたが、創作面では充実しており、「前奏曲集」のほかに、「即興曲第2番」「バラード第2番」「スケルツォ第3番」「ポロネーズ第4番」などの作品が完成を見ている。 このころから1846年まで、ショパンの生活と活動は、ノアンとパリのサロンを軸に行われることになり、ノアンには、ポリーヌ・ヴィアルドやドラクロワらも訪れた。 そのようななか、1842年友人のヤン・マトゥシニスキがショパンに見取られて亡くなる。 この死はショパンに強い衝撃を与えた。 1843年冬、ショパンの病状は悪化し始め、1844年初め再びインフルエンザに罹り、重態に陥る。 春になってやっと病状が回復するが、5月25日、父の死の知らせを受け取り、深い絶望に陥る。 サンドはショパンの母宛に弔いの言葉とショパンを思う心情を綴った手紙をしたためる。 そして7月、姉ルドヴィカがショパンを訪ねてパリを訪れる。 ショパンが姉と再会するのは14年ぶりのことであった。 しかし、サンドと二人の子供との間の屈折した関係の中にショパンも少しずつ巻き込まれていき、とくに娘のソランジュと母サンドとの対立の構図のなかでショパンは居場所を失っていく。 その渦中の1846年に傑作「舟歌」「幻想ポロネーズ」「チェロソナタ」などの作品が書かれる。 そして1847年、ソランジュの結婚に際して、ショパンが彼女に理解を示したことから、サンドとの間に亀裂が生まれ、ついに7月28日、サンドはショパンに別離を告げる。 この別離はショパンの人生の大きな節目となった。 孤独な身となったショパンは4月、招きに応じてロンドンに渡り、ジェーン・スターリングの指導を行う。 イギリスではヴィクトリア女王の隣席の場で演奏会を催すなどの栄誉はあったが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させた。 イギリスでは、ロンドンのほかに、マンチェスター、グラスゴー、エジンバラなどでも演奏会を催した。 11月にパリに戻ったショパンは病床に伏し、6月に大量の喀血をする。 姉ルドヴィカの再会を望むショパンの求めに応じて8月、ルドヴィカがパリに到着する。 10月17日、ポトツカ伯爵夫人、姉ルドヴィカに看取られて亡くなる。 葬儀は10月30日、聖マドレーヌ教会で行われた。 作品解題 「ピアノと管弦楽のための作品」 ピアノと管弦楽の編成の作品は初期に集中している。 このジャンルでショパンが最初に作曲した作品は1827年作曲の「モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》の《奥様お手をどうぞ(ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ)》の主題による変奏曲」(作品2)で、シューマンが「諸君脱帽したまえ、ここに天才がいる」という言葉によって絶賛したことで知られる。 続いて、1828年に「ポーランド民謡による大幻想曲」(作品13)が作曲された。 この作品は1830年10月11日の告別演奏会でピアノ協奏曲第1番と共に演奏された。 同年に「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」(作品14)が作曲され、1829年にウィーンで開催された演奏会で演奏され、高い評価を得ている。 クラコヴィアクは、ポーランドのクラクフ地方の舞曲をさす。 この年にピアノ協奏曲第2番ヘ短調(作品21)の作曲が開始され、1830年に完成を見ている。 とくに管楽器の用法などで想像力豊かなオーケストレーションが施されており、第3楽章では民族舞曲のオベレクの表現が取り入れられている。 続いてピアノ協奏曲第1番ホ短調(作品11)が完成する。 第2番よりも楽曲の構成は堅固で、演奏頻度も高い。 第1楽章ではマヅールおよびポロネーズのリズムが用いられ、第3楽章ではクラコヴィアクの表現が取り入れられている。 夢想的な第2楽章は非常に美しい。 これら2曲の協奏曲は、1830年にショパンのピアノ独奏で初演された。 ピアノと管弦楽のための作品でショパンの最後の作品は「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」(作品22)である。 作品は2部分からなり、1830年から35年にかけて作曲された「華麗な大ポロネーズ」に、1834年に作曲された「アンダンテ・スピアナート」が加えられた。 「室内楽曲」 ショパンの室内楽は、唯一のピアノ三重奏曲のほかは、チェロとピアノのための作品である。 「ピアノ三重奏曲 ト短調」(作品8)は1828年の作曲で、同年に作曲された「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」と同様、ピアノの協奏曲的な華麗な演奏が特徴的である。 演奏頻度は高くないが、重厚な佳作である。 「序奏と華麗なポロネーズ ハ長調」(作品3)は、チェロとピアノのための作品で、1829年から1830年にかけてラジヴィウ公爵のために作曲された。 チェロに対する関心は、パリに移り住んで以降、チェリストのフランコムとの親交を通して深められた。 「マイヤーベーアのオペラ《悪魔のロベール》の主題による大二重奏曲」(b-1、作品番号なし)は、フランコムの協力を得て作曲された作品である。 「チェロソナタ ト短調」(作品65)は1846年の作曲で、ショパンの晩年期の作品に属し、フランコムのために書かれた。 表現の深さと音楽の展開や構成などの点で、ショパンの作曲したソナタの最高峰に位置する作品といっても過言ではない。 「マヅルカ」 ショパンがポーランド民族とのアイデンティティをもっとも強く表現したジャンル。 マヅルカは特定の舞曲名ではなく、彼の作曲した「マヅルカ」にはマヅール、クヤヴィアック、オベレクなどの舞曲の表現が用いられている。 マヅールはポーランドの国歌となった「ドンブロスクのマヅール」にも見られるように、ポーランドの民族性を表す象徴的な舞曲であり、またこの舞曲のアクセントはポーランド語とも関連している。 ショパンは少年時代から最晩年までこのマヅルカを作曲し続け、作品番号をもたない作品や習作、異稿を含めて60曲以上が作曲された(作品番号が付与されているのは第49番まで)。 「ポロネーズ」 ポロネーズはポーランドの宮廷舞踏で、力強いリズムを特徴とするこの舞踏はバロック時代から舞曲として用いられていた。 19世紀になるとポーランドの過去の栄光という象徴を持つにいたる。 ポロネーズは、ショパンがもっとも早くから作曲を行ったジャンルで、7歳のときに作曲したト短調のポロネーズはスカルベック伯爵夫人に献呈されている。 このほかポーランド時代にすでに少なくとも9曲のポロネーズを作曲しているが、ショパン自身が作品番号が与えられた最初の作品は作品26の2曲のポロネーズである。 第3番「軍隊」(作品40-1)や、第6番「英雄」(作品53)、第7番「幻想」(作品61)が有名。 「ピアノソナタ」 3曲のピアノソナタが作曲された。 第1番(作品4)はワルシャワ音楽院時代の習作。 ポリフォニックが書法が特徴的である。 ショパンの最初の本格的なソナタは1839年作曲の第2番(作品35)で、この作品はシューマンに驚きと当惑を与えた。 第3楽章の「葬送行進曲」は、このソナタの作曲に先立って1837年に別個に作曲された。 第4楽章は駆け抜けるようなユニゾンは衝撃的である。 第3番(作品58)は重厚でモニュメンタルで壮大な楽想のソナタで、1844年の作曲。 「スケルツォ」 スケルツォは、これまではソナタの中間楽章の一つに用いられていたが、単独の作品ジャンルへと高めたのはショパンである。 4曲作曲され、第1番(作品20)は、中間部にポーランドのクリスマス・キャロルの旋律が引用されている。 第2番(作品31)はもっとも有名。 第4番(作品54)は全4曲の中の唯一の長調。 「ノクターン」 フィールドの創始したノクターンに芸術的な生命を与えたのはショパンである。 遺作を含めて21曲のノクターンが作曲された。 夢想的でゆったりと流れる音楽は、ロマン派の音楽の新しい表現世界を切り開くもので、その後この語法は特にピアノのための性格小品に応用された。 「前奏曲集」 バロック時代においてとくにオルガン音楽で盛んに行われたジャンルであった。 単独の小品として作曲するだけではなく、これに19世紀の新たな生命を与えたのはショパンである。 24のすべての長短調を用いて作曲したのは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」からの影響を示している。 作曲は1838年から39年にかけて行われた。 作品10はリストに、作品25はマリー・ダグー伯爵夫人に献呈された。 演奏会用練習曲という新しい世界を開拓しただけではなく、ピアノの演奏技術を大きく変革した作品集である。 作品10はおそらくすべての長短調を網羅することを意図したと思われる。 同じ発想はリストやフンメルももっていた。 「即興曲」 ロマン派で愛好されたジャンルで、ショパン以前ではシューベルトが有名である。 ショパンは4曲の即興曲を作曲している。 第1番変イ長調(作品29)は1837年作曲、第2番嬰ヘ長調(作品36)は1839年作曲、第3番変ト長調(作品51)は1842年の作曲。 もっとも有名な「幻想即興曲」(作品66)は、1834年の作曲であるが生前は出版されず、死後の刊行。 「ロンド」 ロンドはほとんどが初期の作品である。 「ロンド ハ短調」(作品1)は1825年の作曲で、同年ワルシャワで刊行されたが、そこでは作品番号は与えられていない。 1835年にベルリンで再販されたときにこの番号が与えられた。 「マヅルカ風ロンド」(作品5)は1826年の作曲で、主題にマヅルカを用いている。 「ロンド 変ホ長調」(作品16)は1833年の作曲。 「ロンド ハ長調」(作品73)は2台ピアノ用作品。 1828年にピアノ独奏用に作曲されたが、二台ピアのように編曲され、死後に出版。 「変奏曲」 作品番号をもつのは、エロールのオペラ「リュドヴィク」のアリアの主題による「華麗な変奏曲 変ロ長調」(作品12)のみで、1833年の作曲。 作品番号を持たない作品として、「ドイツ民謡の主題による序奏と変奏曲 ホ長調」(1824年作曲)や、連弾用の「変奏曲 ニ長調」(1826年作曲)、「パガニーニの思い出 イ長調」(1829年作曲)がある。 ベッリーニのオペラ「清教徒」の行進曲の主題による共作変奏曲「ヘクサメロン」の第6曲を作曲。 これはリスト、タールベルク、ピクシス、ヘルツ、チェルニーらとの共作である。 「単独作品」 「コンセール・アレグロ イ長調」(作品46)は、元来、ピアノ協奏曲の第1楽章として1841年に作曲されたが、その後ピアノ協奏曲の完成を断念し、独奏曲として出版された。 この作品はほかの作曲家の手でピアノ協奏曲に編曲されている。 「幻想曲 ヘ短調」(作品49)も1841年の作曲で、重々しい下行動機で開始する作品で、全体の構成はソナタ形式的で、劇的な内容の作品である。 「子守歌 変ニ長調」(作品57)は1844年の作曲で、作品は変奏曲である。 右手の主題が、転調を含まず全部で10回反復され、装飾によって彩られる。 「舟歌 嬰ヘ長調」(作品60)はショパンの晩年期の1846年作曲の作品である。 8分の12拍子のゆったりと揺れるような左手の分散和音にのって繊細な表現される。 その他、「ボレロ」(作品19)、「タランテラ」(作品43)、「葬送行進曲」(作品72-2)、「3つのエコセーズ」(作品72-3)のほかに、作品番号を持たない小品がある。 「歌曲」 1827年から晩年の47年までの間に作曲され、1857年に「17のポーランドの歌」曲(作品74)として刊行された。 ショパンとピアノ ワルシャワ時代のショパンが用いていたピアノの製造者は明らかではないが、間違いなくウィーン・アクションのピアノであった。 ベートーヴェンは、イギリス・アクションのエラールやブロードウッドのピアノを用いた時期があるが、当時のオーストリアやドイツ地域、さらにポーランドなどで主に用いられていたのは、伝統的なウィーン・アクションのピアノである。 彼が1829年、ウィーンで催した演奏会で用いたピアノは間違いなくウィーン・アクションのピアノである。 パリでショパンを魅了したのはプレイエルのピアノである。 このプレイエルのピアノはイギリス・アクション、つまり現在のピアノの打弦方式によるピアノであるが、そのアクションは同じイギリス・アクションのエラールとは異なっていた。 エラールはダブル・エスケープメントを開発して、急速な打鍵の可能なピアノを製造していた。 それに対してプレイエルは、ウィーン・アクションで一般的であった伝統的なシングル・エスケープメントの打弦方法を用いていた。 急速な打鍵は容易ではないが、自然で薫り高いこの楽器の音色を彼はこよなく愛したのである。 ショパンの語った言葉、「調子のよいときはプレイエルを弾き、そうではないときはエラールを用いる」は有名である。 エディションの問題 ショパンの楽譜で常に大きな問題となるのがエディションである。 現在、いわゆるナショナル・エディションとしてエキエル版が刊行されて、これが標準的な楽譜として用いられている。 しかし、このエキエル版によってショパンのエディション問題が氷解したわけではない。 ショパンは、自筆譜のほかに、イギリスとドイツ、フランスでそれぞれに楽譜を出版した。 これは国際著作権が確立していない当時にあっては、違法な海賊版から守るための止むを得ない方法であった。 しかし、この3つの版がそれぞれ異なっているために、ショパンの最終的な意思が特定することができなくなってしまったのである。 エキエル版以前は、同じくナショナル・エディションとしてパデレフスキー版が広く用いられていた。 ピアニストであったパデレフスキーの経験を踏まえた版として広く親しまれてきている。 そのほか、コルトー編のコルトー版も今日においても価値ある版として通用している。 歴史的な版としては、ブラームス校訂やドビュッシー校訂の楽譜も編まれた ピアノ音楽史におけるショパン ショパンのピアノ作品はきわめて個性的であるが、同時に19世紀ピアノ音楽のさまざまな音楽傾向と結びつきを持っている。 ワルシャワ時代にショパンが師のジヴニーのもとでモーツァルトやフンメルの作品を学び、ポーランド人作曲家の作品としてマリア・シマノフスカやユゼフ・エルスネル、ヴァイオリニストでシューマンの尊敬を得ていたカロル・クルピニスキらの作品に加えて、オギニスキなどの作曲家の作品に接していた。 ワルシャワ時代にショパンがポーランド人の作曲家の作品に広く接していたのは間違いない。 オギニスキのポロネーズ「さらば祖国」は、ショパンのポロネーズの共通の語法である。 また、エルネルの作品はロシア支配に対するナショナリズムを反映している。 ショパンの作風の基盤を形成した作曲家として注目されるのが、ネポムク・フンメルである。 晩年のモーツァルトに師事し、その後ハイドンやサリエリに学んだこの作曲家の語法は、間違いなくショパンの作風の源流の一つである。 フンメルは緩徐楽章における豊かな装飾表現をモーツァルトから受け継いだ。 旋律を、きらびやかなパッセージによって華麗に変奏する表現は、ショパンに受け継がれている。 1816年頃に作曲されたフンメルの「ピアノ協奏曲 イ短調」(作品85)は、その後のショパンの創作を予感させる。 ショパンが「練習曲」(作品10)を作曲したときにすべての長短調を網羅する発想を抱いたと思われ、その思想はその後「前奏曲集」で結実する。 すべての長短調を用いるという思想は、フンメルも試みている。 ショパンの上記の練習曲集の作曲後の1833年に刊行された「24の練習曲」(作品125)はすべての長短調を用いた練習曲集である。 ショパンがワルシャワ時代に影響を受けた作曲家にアイルランド出身のジョン・フィールドもいる。 ペテルブルクで活躍したフィールドの創始したノクターンはワルシャワでも広まっていたことは確かで、ショパンの初期のノクターンははっきりとフィールドからの影響を示している。 影響が明確なのは作品9の3曲で、その後のノクターンではショパンの独自の作風を発揮している。 ショパンがフィールドから得た影響はノクターンだけではない。 フィールドは全部で7曲のピアノ協奏曲を作曲したが、オーケストラ伴奏で演奏する協奏曲のほかに、彼はピアノを含む室内楽版やピアノ独奏版も編曲している。 フィールドのノクターンの何曲からはピアノ協奏曲の緩徐楽章の編曲である。 ピアノ協奏曲を、ピアノを含む室内楽版で演奏する習慣は、モーツァルトの時代から行われていたが、フィールドの書法は19世紀における創作の一つの模範となった。 これらの編曲を前提としているために、ピアノ協奏曲のオーケストラは、ピアノ独奏の部分では非常に薄い書法が用いられている。 ショパンもこの書法を受け継いでいる。 また、ショパンの2曲のピアノ協奏曲も、ピアノを含む室内楽版でも演奏されていた。 ショパンの「コンセール・アレグロ」(作品46)はピアノ独奏曲として出版されたが、本来はピアノ協奏曲の第1楽章で、ピアノ協奏曲のピアノ独奏版とも解することが出来る。 ショパンは、同時代のシューマンやメンデルスゾーン、リストとは異なった形で19世紀の歴史主義を受け止めている。 メンデルスゾーンが「前奏曲とフーガ」を作曲し、シューマンやリストがペダルフリューゲルやオルガン用の作品でバッハの書法を受容した。 それに対して、ショパンは、すべての長短調を用いた「前奏曲集」を作曲することで、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の精神を19世紀音楽にもたらしている。 ショパンは、ワルシャワ音楽院時代に作曲の科目として対位法やフーガを学んでおり、その痕跡は「ピアノソナタ第1番」に示されている。 彼が自身の創作にこの対位法を生かしたのは、1840年代に入ってからである。 とくに「マヅルカ」(作品56-3)は、複雑な対位法の書法を用いて書かれており、19世紀の歴史主義を反映している。 ショパンは3曲のピアノソナタを作曲している。 シューマンはショパンがピアノソナタ第2番を作曲したときに、批評の筆を執っている。 その作品批評は皮肉を込めた肯定的なものではないが、ピアノソナタをこの時代にあえて作曲したことに驚きを隠さない。 ソナタとソナタ形式は、作曲の教養と学識の象徴となり、作曲家が創造性を発揮する場ではなくなっていったなかで、ショパンのとくに第2番と第3番はピアノソナタの歴史の中で画期的な価値を有している。 このソナタ形式の原理は、3曲のピアノソナタやチェロソナタだけではなく、スケルツォやバラードの創作の土台ともなっている。 これらは一般に3部形式として論じられる場合が多いが、むしろソナタ形式が基礎となっていると考えられる。 ショパンの生涯 フレデリック・ショパンは、フランス人の父ミコワイ・ショパンとポーランド人の母ユスティナ・クシジャノフスカの間に1810年3月1日に生まれた。 父は16歳のときにポーランドに渡り、スカルベック伯爵の家庭教師などをつとめる。 同家で小間使いをしていた同伯爵家の遠縁にあたるクシジャノフスカと知り合い、二人は1806年に結婚する。 ショパンの兄弟では、3歳年上の姉ルドヴィカのほかに、妹イザベラ(1811年生)、エミリア(1813年生)がいる。 姉ルドヴィカとは強い絆で結ばれ、彼女はショパンの死を見取った。 家庭は、父がアマチュアとしてヴァイオリンを愛し、母もピアノと声楽を嗜むなど音楽的な環境にあり、ショパンは4歳からこうした家庭の中でピアノに触れるようになる。 6歳のときに、ヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを師事する。 このジヴニーのもとでのピアノ教育がショパンの音楽性の土台を形成する。 彼からショパンが与えられた作品は、モーツァルト、バッハ、ハイドン、フンメルであった。 1817年、一家はカジミエシュ宮殿の一画に転居し、恵まれた生活環境が実現する。 ショパンが最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲するのはこの年で、スカルベックの援助で出版された。 翌年にはラジヴィウ宮殿でピアノ協奏曲を演奏し、卓越した才能は注目を浴びる。 この時期から、ポーランドの民族的な語法に鋭い感性を示した。 1821年、11歳のショパンは65歳を迎えた恩師ジヴニーの誕生日を祝うために「ポロネーズ 変イ長調」を作曲する。 この時期すでにショパンの演奏能力が卓抜な水準にあったことを示すのが、12歳のときに行ったフェルディナンド・リースのピアノ協奏曲の演奏である。 リースは19世紀前期の代表的なヴィルトゥオーソで知られた作曲家である。 この年にショパンはユゼフ・エルスネルから作曲の指導を受けるようになる。 1823年、13歳のショパンは高等学校に入学する。 このときの学友にその後、ショパンの遺作の出版などでも貢献するフォンタナがいた。 1826年に高等学校を卒業するまでの間、ショパンはロシア皇帝によるワルシャワ訪問の際に、指輪を拝領する栄誉に浴している。 高等学校を卒業すると、エルスネルが校長を務めるワルシャワ音楽院に入学する。 作曲家としてショパンがその個性を発揮するようになるのはこのころからで、「マヅルカ風ロンド」(作品5)、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)が作曲される。 エルスネルは、作曲やピアノ演奏においても、ショパンの繊細な感性を損なうことなく、個性を伸ばすことに腐心したといわれる。 1828年、ショパンは初めて外国に赴き、ベルリンでウェーバーの「魔弾の射手」などを見る。 この年、ショパンは「ピアノソナタ第1番」(作品4)に加えて、意欲的な作品、「ピアノ三重奏曲 ト短調」(作品8)、「ポーランド民謡による大幻想曲」(作品13)、「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」(作品14)を作曲している。 この最後の作品は、1829年にウィーンのケルントナートーア劇場で催した演奏会で、「モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のアリア《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ》(作品2)とともに演奏されて絶賛された。 ショパンのピアノと管弦楽のための協奏曲および協奏的作品はすべてこの初期の時代に集中している。 なお、「ピアノ三重奏曲 ト短調」は、ラジヴィウ公爵に献呈されているが、ショパンは公爵の娘たちのピアノの指導を行うほか、チェロをたしなむ同公爵のためにチェロとピアノのための「序奏と華麗なポロネーズ」(作品3)を作曲している。 1829年に高等学校を卒業したショパンはウィーンに赴き、上記の演奏会を行う。 この年に「ピアノ協奏曲第2番」(作品21)が作曲されている。 ショパンはこの時期に、コンスタンツヤ・グワトコフスカという女性に深く心を寄せており、「ワルツ」(作品70-3)は彼女のために作曲された作品である。 1830年3月17日、ワルシャワで上述のピアノ協奏曲2番を初演した後、ショパンは再びウィーンに向けて旅立つ。 10月11日、告別演奏会が催され、ピアノ協奏曲第1番(作品11 や作品13が演奏される。 ウィーンに到着するものの、ワルシャワでロシア支配に抵抗する11月革命が勃発し、事態は一変する。 ポーランド人は危険人物として官憲の監視下に置かれる。 1831年、ウィーンで演奏会を開催するものの、ウィーンに失望し、やっとパリ経由ロンドン行きのヴィザを取得してパリに向かうことになる。 そして9月にパリに到着する。 その途上、シュトゥットガルトでワルシャワ革命が制圧された知らせを受け取り、大いに絶望する。 この年に練習曲「革命」(作品10-12)が書かれ、そのほか歌曲がまとまって作曲されている。 パリに着いたショパンは、リストと知り合いになり、メンデルスゾーンと再会した。 パリに到着したショパンは、当時パリで評判のヴィルトゥオーソで、ピアノ教育者のカルクブレンナーの指導を望んだ。 しかし、エルスネルは、それがショパンの個性を損ねることになると判断して指導を受けることに反対する。 カルクブレンナーは、ギド・マンというピアノ教育機器を用いた指導法を行ったことでも知られる。 パリで出会ったもうひとりの重要な音楽家が、チェロ奏者のフランコムである。 このフランコムとの出会いから、「マイヤーベーアのオペラ《悪魔のロベール》の主題による大二重奏曲」が1831年に作曲されている。 ショパンはワルシャワを発つ前からフィールドのノクターンに接していたと思われ、1829年にホ短調(作品72-1)、1830年に嬰ハ短調(作品番号なし)が作曲されていた。 1832年に作曲された「ノクターン」(作品9)は、名曲として知られるが、フィールドの書法との結びつきを感じさせる。 この作品はプレイエル夫人に献呈された。 ショパンがパリで知った重要な人物に、ピアノ製造業を営むプレイエルがいた。 ショパンが「香水のような香りがする」として絶賛したそのピアノは、ショパンの音楽の霊感の源泉となった。 当時のパリにはポーランドからの亡命者が数多く滞在していた。 ポーランドの革命を率いたチャルトリスキや詩人のミツキェヴィッチらも滞在していた。 そのなかでひときわ精彩を放っていたのがポトツカ伯爵夫人で、音楽や芸術の教養あふれる彼女のサロンには数多くの文化人が集った。 彼女はショパンがもっとも信頼を寄せた女性で、ショパンの死の床でショパンの求めに応じてアリアを歌った。 パリでのショパンの人生を一変させたのが、ロトシルド ロスチャイルド)男爵の知遇を得たことであった。 1832年、ショパンはラジヴィウ公爵に伴われて、大富豪で知られる同男爵のサロンを訪れる。 これがショパンの社交界デビューとなった。 男爵夫人はショパンの音楽才能に魅せられ、娘のシャルロットのピアノの指導を依頼する。 その後、貴族や資産家の人々がぞくぞくピアノ指導を求めるようになり、ショパンのパリでの生計は一気に好転する。 シャルロットは音楽の才能豊かな女性で、ショパンは彼女に「バラード第4番」やワルツを献呈している。 パリに住むショパンにとって大きな気がかりは家族のことであった。 彼が両親と再会するのは1835年8月、カールスバートにおいてである。 ここはボヘミアの温泉保養地で、ショパンはここで3週間を両親と共に過ごした。 帰路、ドレスデンに滞在していたヴォジニスキ家を訪問した。 フェリックス・ヴォジニスキとは彼は寄宿舎学校時代以来の友人であった。 この滞在先でショパンはフェリックスの妹のマリアと会い、美しく成長したマリアに彼は深く心をとらわれる。 そして彼女との別れ際に「ワルツ」を贈る。 これが有名な「別れのワルツ」(作品69-1)である。 10月にライプツィヒを訪れ、メンデルスゾーンと再会するほか、シューマン夫妻と会う。 シューマンは彼が編集する「音楽新報」で、ショパンの作品2を高く評価しており、「謝肉祭」にショパンを登場させるほか、後に「クライスレリアーナ」を彼に献呈している。 翌年7月、ヴォジニスキ家のマリアとマリーエンバートで再会する。 ここもボヘミアの温泉保養地である。 ショパンはパリのロシア大使館にヴィザの更新を行うことを潔しとせず、そのために、ロシア領となったポーランドに入国することは出来なくなっており、そのために国境近くのこうした町で再会することを余儀なくされたのである。 そして9月、ショパンはマリアに求婚する。 パリに戻ったショパンはマリー・ダグーのサロンでジョルジュ・サンドと会う。 1837年2月、ショパンはインフルエンザに罹り、健康状態が悪化する。 この出来事はヴォジニスキ家の両親の心象を悪くし、7月マリアから別離を告げる手紙を受け取り、ショパンが彼女に宛てた手紙が彼のもとに返送されてくる。 ショパンはその手紙の束をリボンで綴じて「私の悲しみ」と書き記して、終生手元に置いていた。 この年、「練習曲集」(作品25)や「ピアノソナタ第2番」が作曲された。 マリアとの別離もあり、ショパンはサンドとの交際を深めるようになる。 そして同年11月、ショパンはサンドとマヨルカ島に滞在する。 この滞在期間に「前奏曲集」の作曲を進める。 しかし、かねがね患っていた結核が悪化し、翌1839年2月フランスのマルセイユに戻り、サンドが別荘を持つノアンに落ち着く。 健康状態の悪化に見舞われたが、創作面では充実しており、「前奏曲集」のほかに、「即興曲第2番」「バラード第2番」「スケルツォ第3番」「ポロネーズ第4番」などの作品が完成を見ている。 このころから1846年まで、ショパンの生活と活動は、ノアンとパリのサロンを軸に行われることになり、ノアンには、ポリーヌ・ヴィアルドやドラクロワらも訪れた。 そのようななか、1842年友人のヤン・マトゥシニスキがショパンに見取られて亡くなる。 この死はショパンに強い衝撃を与えた。 1843年冬、ショパンの病状は悪化し始め、1844年初め再びインフルエンザに罹り、重態に陥る。 春になってやっと病状が回復するが、5月25日、父の死の知らせを受け取り、深い絶望に陥る。 サンドはショパンの母宛に弔いの言葉とショパンを思う心情を綴った手紙をしたためる。 そして7月、姉ルドヴィカがショパンを訪ねてパリを訪れる。 ショパンが姉と再会するのは14年ぶりのことであった。 しかし、サンドと二人の子供との間の屈折した関係の中にショパンも少しずつ巻き込まれていき、とくに娘のソランジュと母サンドとの対立の構図のなかでショパンは居場所を失っていく。 その渦中の1846年に傑作「舟歌」「幻想ポロネーズ」「チェロソナタ」などの作品が書かれる。 そして1847年、ソランジュの結婚に際して、ショパンが彼女に理解を示したことから、サンドとの間に亀裂が生まれ、ついに7月28日、サンドはショパンに別離を告げる。 この別離はショパンの人生の大きな節目となった。 孤独な身となったショパンは4月、招きに応じてロンドンに渡り、ジェーン・スターリングの指導を行う。 イギリスではヴィクトリア女王の隣席の場で演奏会を催すなどの栄誉はあったが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させた。 イギリスでは、ロンドンのほかに、マンチェスター、グラスゴー、エジンバラなどでも演奏会を催した。 11月にパリに戻ったショパンは病床に伏し、6月に大量の喀血をする。 姉ルドヴィカの再会を望むショパンの求めに応じて8月、ルドヴィカがパリに到着する。 10月17日、ポトツカ伯爵夫人、姉ルドヴィカに看取られて亡くなる。 葬儀は10月30日、聖マドレーヌ教会で行われた。 ピアノ音楽史におけるショパン ショパンのピアノ作品はきわめて個性的であるが、同時に19世紀ピアノ音楽のさまざまな音楽傾向と結びつきを持っている。 ワルシャワ時代にショパンが師のジヴニーのもとでモーツァルトやフンメルの作品を学び、ポーランド人作曲家の作品としてマリア・シマノフスカやユゼフ・エルスネル、ヴァイオリニストでシューマンの尊敬を得ていたカロル・クルピニスキらの作品に加えて、オギニスキなどの作曲家の作品に接していた。 ワルシャワ時代にショパンがポーランド人の作曲家の作品に広く接していたのは間違いない。 オギニスキのポロネーズ「さらば祖国」は、ショパンのポロネーズの共通の語法である。 また、エルネルの作品はロシア支配に対するナショナリズムを反映している。 ショパンの作風の基盤を形成した作曲家として注目されるのが、ネポムク・フンメルである。 晩年のモーツァルトに師事し、その後ハイドンやサリエリに学んだこの作曲家の語法は、間違いなくショパンの作風の源流の一つである。 フンメルは緩徐楽章における豊かな装飾表現をモーツァルトから受け継いだ。 旋律を、きらびやかなパッセージによって華麗に変奏する表現は、ショパンに受け継がれている。 1816年頃に作曲されたフンメルの「ピアノ協奏曲 イ短調」(作品85)は、その後のショパンの創作を予感させる。 ショパンが「練習曲」(作品10)を作曲したときにすべての長短調を網羅する発想を抱いたと思われ、その思想はその後「前奏曲集」で結実する。 すべての長短調を用いるという思想は、フンメルも試みている。 ショパンの上記の練習曲集の作曲後の1833年に刊行された「24の練習曲」(作品125)はすべての長短調を用いた練習曲集である。 ショパンがワルシャワ時代に影響を受けた作曲家にアイルランド出身のジョン・フィールドもいる。 ペテルブルクで活躍したフィールドの創始したノクターンはワルシャワでも広まっていたことは確かで、ショパンの初期のノクターンははっきりとフィールドからの影響を示している。 影響が明確なのは作品9の3曲で、その後のノクターンではショパンの独自の作風を発揮している。 ショパンがフィールドから得た影響はノクターンだけではない。 フィールドは全部で7曲のピアノ協奏曲を作曲したが、オーケストラ伴奏で演奏する協奏曲のほかに、彼はピアノを含む室内楽版やピアノ独奏版も編曲している。 フィールドのノクターンの何曲からはピアノ協奏曲の緩徐楽章の編曲である。 ピアノ協奏曲を、ピアノを含む室内楽版で演奏する習慣は、モーツァルトの時代から行われていたが、フィールドの書法は19世紀における創作の一つの模範となった。 これらの編曲を前提としているために、ピアノ協奏曲のオーケストラは、ピアノ独奏の部分では非常に薄い書法が用いられている。 ショパンもこの書法を受け継いでいる。 また、ショパンの2曲のピアノ協奏曲も、ピアノを含む室内楽版でも演奏されていた。 ショパンの「コンセール・アレグロ」(作品46)はピアノ独奏曲として出版されたが、本来はピアノ協奏曲の第1楽章で、ピアノ協奏曲のピアノ独奏版とも解することが出来る。 ショパンは、同時代のシューマンやメンデルスゾーン、リストとは異なった形で19世紀の歴史主義を受け止めている。 メンデルスゾーンが「前奏曲とフーガ」を作曲し、シューマンやリストがペダルフリューゲルやオルガン用の作品でバッハの書法を受容した。 それに対して、ショパンは、すべての長短調を用いた「前奏曲集」を作曲することで、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の精神を19世紀音楽にもたらしている。 ショパンは、ワルシャワ音楽院時代に作曲の科目として対位法やフーガを学んでおり、その痕跡は「ピアノソナタ第1番」に示されている。 彼が自身の創作にこの対位法を生かしたのは、1840年代に入ってからである。 とくに「マヅルカ」(作品56-3)は、複雑な対位法の書法を用いて書かれており、19世紀の歴史主義を反映している。 ショパンは3曲のピアノソナタを作曲している。 シューマンはショパンがピアノソナタ第2番を作曲したときに、批評の筆を執っている。 その作品批評は皮肉を込めた肯定的なものではないが、ピアノソナタをこの時代にあえて作曲したことに驚きを隠さない。 ソナタとソナタ形式は、作曲の教養と学識の象徴となり、作曲家が創造性を発揮する場ではなくなっていったなかで、ショパンのとくに第2番と第3番はピアノソナタの歴史の中で画期的な価値を有している。 このソナタ形式の原理は、3曲のピアノソナタやチェロソナタだけではなく、スケルツォやバラードの創作の土台ともなっている。 これらは一般に3部形式として論じられる場合が多いが、むしろソナタ形式が基礎となっていると考えられる。

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