小田原 城 城主。 北条氏政とは~小田原城主・関東覇者への道のりとその最後

筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城の防御は弱かった?

小田原 城 城主

北条氏康から氏政の時代へ [ ] 戦国時代に新興大名として台頭したは進出を志向してで、やなどを排除し、の、のとのを背景に関東進出を本格化させるとを継承した越後のと対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じくにおいて上杉氏と対峙する武田氏とのにより連携して対抗した。 戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻()を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信とを結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。 信玄がの途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていたと、同じく養子で謙信の甥のの間でが勃発した。 は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。 なお、勝頼と景勝はを結び8年()、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。 氏政は氏直に家督を譲ってに隠居したあとも、 やなど有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。 [ ] 上杉氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、とも和睦を試みているが天正10年()に信長・は本格的なを開始し、後北条氏もこれに参加している。 この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏はや駿河における武田方の諸城を攻略したものの、時期を逸したものとなった。 しかし、同年末ので信長がの謀反によってした直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。 織田氏家臣のの軍を敗退させたを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間にが勃発した。 この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からもが援軍として甲斐に出兵していた。 また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された。 家康は北関東の、、、らと連携しながら北条氏打倒を目指した。 北条氏は一時は東信濃を支配下に置いたが、が離反。 後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、10月に織田信雄、織田信孝からの和睦勧告を受け入れ 、後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。 だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲の一つの割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった。 後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。 既に房総南部のを事実上の従属下に置いていた北条氏は、北関東に軍勢を集中させることとなった。 北条氏は翌天正11年 1月に早速を攻撃すると、3月には沼田にも攻め込んだ。 6月、北条氏と家康の間で婚姻が成立した。 この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条の後ろ盾になってくれることを期待していた北関東の領主たちに衝撃を与えた。 北関東の領主たちは家康から離れ、一斉に羽柴秀吉に書状を送り、秀吉に関東の無事の担い手になることを求めた。 秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの 、当時の政権内では東国についての優先度は低く 、10月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった。 それさえも翌天正12年 に小牧・長久手の戦いが始まると無形化してしまった。 天正11年11月末、が起こり北条氏と北関東の領主たちは全面戦争に突入した。 天正12年になると北条氏は宇都宮へ侵攻し、佐竹氏も小山を攻撃した。 両者は4月から7月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した。 天正13年 から15年 にかけて秀吉が西国計略を進める裏で関東の無事は放置され、北関東の領主たちは苦境に陥った。 北条氏は天正13年1月に佐野を攻撃し、当主の佐野宗綱を戦死させ氏政の六男・氏忠を当主に据えることに成功した。 また同月までにのを服属させた。 館林は南関東と北関東のに当たり 、館林攻略によって北条氏の北関東への侵攻が容易になった。 9月には真田領・沼田に侵攻し 、14年4月にも再度侵攻した。 北条氏は並行して皆川氏にも攻撃を加えた。 天正14年5月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した。 皆川氏は上杉氏の助力を得て撃退に成功するが、天正15年に講和し北条氏の支配下にはいった。 また、天正13年閏8月には家康が真田を攻撃し、翌14年 にも再度侵攻を計画したが、秀吉が間に入って未遂に終わった。 天正15年12月、秀吉は北関東の領主たちに北条氏の佐野支配を認めることを通知し 、現状を追認することを明らかにした。 天正16年 2月、北条氏直はを上洛させ沼田領の引き渡しを条件に 豊臣政権に従属を申し入れた。 「五畿内同前」と重要視していた 九州の平定を天正15年中に終えた秀吉は、天正16年4月、の行幸を行った。 北条氏に対して氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否した。 京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない• 今月中に兄弟衆を派遣する• 豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる 行幸には東国の領主たちも使者を派遣したが、北条氏は使者を派遣しなかった。 5月、東国取次の家康は北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め 、8月には氏政の弟の氏規が名代として上洛し、両勢力間の緊張は和らいだ。 また、12月に氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えた がこの約束は履行されなかった。 宇都宮周辺部ではおよびのがもともと親北条であり、宇都宮家の重臣で城主のも当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年()終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。 さらに常陸南部にも進出し、佐竹氏背後の奥州のと同盟を結ぶなど、関東制圧は目前に迫った。 劣勢となった佐竹義重、宇都宮国綱、ら反北条氏方は秀吉に近づくこととなる。 沼田城割譲 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2020年1月) 年が明けて天正17年2月、北条氏直家臣のが上洛し、秀吉は北条氏が従属の条件としていた(沼田領)の割譲について裁定を行った。 また、 来年春または夏頃の上洛を氏政が提示したが、豊臣氏側に拒否されている。 [ ] 当時、沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。 秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った。 また秀吉は、北条当主の上洛ののちに沼田を引き渡すとし、これに対し6月5日付で北条氏直より、氏政が12月初旬に上洛すると伝えた(岡本文書)。 この上洛の約束より先立つ形、つまりここでも秀吉は譲歩する形で7月、秀吉家臣のと、徳川家康家臣のの立ち合いの下、沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた。 秀吉は天正13年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことはすなわち天皇の意思に背くことをも意味した。 この時点では北条氏当主の 12月中の上洛は前向きに検討されており、費用の調達や調整が行われている。 ただし、以降は後述の名胡桃城事件が起こるまで、北条氏から豊臣氏への音信・交渉は途絶える。 [ ] 名胡桃城事件 [ ] 11月10日、秀吉は佐野房綱に対し、氏政の上洛が無い場合、北条氏討伐のために関東に出馬することを伝えた。 一方同年10月下旬、北条氏は真田領となった領分の拠点であるに沼田城代を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した。 この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えられた。 北条方からは弁明の使者としてが上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。 秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。 しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。 これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際にと婚姻しを人質とした上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。 また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。 しかし同時期、上野主であるが下野のを攻めており、これも秀吉の施策に反する行為である。 11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の 11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。 11月21日付でにも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している。 11月24日、秀吉が家康へ書状を送り、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。 また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津のに在番させ拠点地としての用意をさせること、北条からの使者は北条氏の返事次第で国境で処刑することも要請した。 このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。 また、 同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った。 この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。 秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。 その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。 何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。 所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し 、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。 氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。 開戦 [ ] 北条氏は小田原で籠城することを決定し、1月に軍事動員令を出している。 徳川家康は三男の長丸(後の)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた。 この人質は即座に送り返され、秀吉は徳川に対し領内の軍勢通過の際の便と、領内の諸城の使用を要求している。 徳川は2月中にかけて、大軍勢の領内駐留・通過の便宜を図るべく、領内の城や舟橋、茶屋の整備を行った。 2月中に、、徳川家康、、ら各大名が出陣し、徳川軍三万が24日にに着陣。 この長久保城は北条方の山中城と10kmも離れていない位置関係である。 24日に織田信雄が三枚橋城に到着、25日に徳川が着陣。 3月3日に豊臣秀次、の軍勢が到着。 2月20日、に、、、、、その他・らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。 2月27日、へ到着。 輸送としても、大軍勢と長期の合戦を想定して、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。 3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。 以降、西伊豆の防御が手薄と見た徳川水軍はが土肥高谷城、八木沢丸山城 を占拠し、とは安良里城と田子城 を、と西伊豆の諸城と重要港を落としながら伊豆半島を南下した。 北条方は伊豆の南端の下田城を防衛ラインとして水軍を集結させており、西伊豆の諸城砦には少数の陸戦部隊しか配置していなかった。 3月1日、秀吉はから北条氏の討伐を名目としてを賜り、から大軍を率いて東国に下向した。 北方()からはいわゆる北国勢(前田利家・・真田昌幸・)らが3月15日にへ進軍。 3月19日に秀吉が駿府城に入り、徳川がこれを迎えた。 27日、秀吉が三枚橋城に到着。 翌28日、秀吉は家康と共に北条方の拠点であるを視察して、長久保城に入った。 その他、の やの ら東国・東北の諸勢力も秀吉の下に参陣し、所領安堵を受けている。 翌28日、北方では攻めを開始。 29日にはで山中城が攻められ、一日で陥落した。 開戦までの経過 [ ] 後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にしたや、鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。 また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応しての拡大修築や、、などの築城を進めた。 また、それらにつながる城砦の整備も方面を中心に進んでいった。 一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。 また、陣触れ直後にに命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、1万枚で馬畜や穀物などを集めた。 や、らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送にあてがわせた。 には水軍を供出させたが、輝元当人には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。 豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。 を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である。 これに秀吉に恭順した、、、、、、、 の関東勢1万8千が加わった。 なお、天正18年3月当時の参戦した大名のうち、官位、石高などの上位者は以下の通りである。 豊臣秀吉 - 従一位関白太政大臣。 織田信雄 - 正二位内大臣。 100万石。 秀吉旧主の織田家の当主(扱い)。 徳川家康 - 従二位権大納言。 130万石。 小田原北条氏と親族。 羽柴秀次 - 従二位権中納言。 43万石(豊臣家領内)。 豊臣家後継者。 上杉景勝 - 従三位権中納言。 「豊臣景勝」。 50~90万石。 毛利輝元 - 従四位下参議。 「豊臣輝元」。 112万石(安国寺・小早川領除く)。 毛利水軍は参加したが輝元本人は京都留守居。 前田利家 - 正四位下参議。 「豊臣利家」。 80余万石。 秀吉の個人的知己。 各方面での「総大将」や、講和交渉の窓口担当などにあたるのは、およそこの力関係に拠ると推測される。 なお豊臣政権内部での序列二位の実力者と目されていた(従二位大納言。 100万石。 )は、当時病気がちであり、畿内の留守居となり参戦していない。 豊臣側の主だった将兵 主力:、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、(兵のみ)、、、、。 約17万。 水軍:、、、、、毛利水軍。 約1万。 北方隊:、、、、、、。 約3万5千。 関東勢:、、、、、。 1万8千。 推定総計約21万。 後北条側の主だった将• 小田原城:、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、()、、、、内藤直行(息)、、、、、、、、、、、、、、、、、• その他の城:(山中城)、(忍城)、(韮山城)、(松井田城)、(鉢形城)、(厩橋城)、(下田城) 豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、の三城を突破し、同時に水軍でをめぐって小田原に迫らせる方針であった。 一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も、支配下の諸将に小田原籠城を命じ、5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。 主力を小田原に引き抜かれた各城の留守居部隊には、徴兵した中年男子などを宛てたが、守備し切れることを想定されてはいない。 佐江戸城などは城が空になったため、豊臣方に無抵抗で接収されている。 各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。 氏邦、氏照、伊勢貞運らは野戦を主張したが、氏規や松田憲秀らは籠城策を主張した。 氏邦は領内ではなく駿河国に打って出て、富士川などで会戦を行いたいと主張したが、この野戦策が入れられないことに不満を持ち、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となった。 こうして最終的に小田原籠城戦略が採られる事となった。 にはが率いる数千の兵が、さらになどにも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、小田原・箱根西方だけではなくその他の諸拠点、特に北方からの侵入軍を迎え撃つ城にもある程度の備えは配置されていたといえる。 豊臣秀吉の東征 [ ] 東征軍の北条支城攻略 [ ] 天正18年()春頃から豊臣軍主力は、かつてが打倒の挙兵の際に兵を集めた周辺に集結した。 には秀吉自身が に到着し、29日に に向け進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛ててそれぞれ攻撃を開始した。 山中城 [ ] と山中城などの位置関係• 攻撃軍の編成 合計67800人• 右軍 計18300人( 2,500人、 2800人、 3,600人、 8,700人、 700人• 中軍 計19500人( 17,000人。 家老、、など。 2,500人)• 左軍 30,000人• 控え 、ら• その他、(中村一氏配下)、(木村重茲配下)、、など• 山中城守備軍 4,000人(城主 、援軍 、、、援軍 、、、、、、、、、、、等) の攻撃軍の大将として秀吉は、兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していたとする説がある。 北条方も西の関門であるこの城の重要性は重く考えていたようであり、武勇で知られた康郷ら松田兄弟のみではなく、一族の北条氏勝ら玉縄衆や間宮氏、蔭山氏らの援軍を、さらに諸家に命じて増援を割り当て、城に派遣している。 それでもなお、大要塞として構築してしまい、かつ開戦の直前までもなお工事が続けられ、豊臣氏に備えて足柄城などと共に増改築されていたが(岱崎出丸など)、故に未完であったともされる一大要塞である山中城を正しく完全守備するためには、4千人では全く人数が足りなかった、とも伝わる。 間宮康俊は前日に孫の直元を城から出し、小田原に送っている。 3月29日の朝8時半頃に豊臣方の攻撃が始まると、岱崎出丸(だいさきでまる)に攻め手が殺到した。 出丸守備の勢が銃撃などの猛烈な抵抗を行い、康俊は手勢を率いて突撃と退却を繰り返し奮戦、間宮衆は2時間ほど抵抗するが出丸は陥落した。 この際の一番乗りの戦功を挙げ、中村家の旗を掲げたのが渡辺勘兵衛(渡辺了)と伝わる。 攻め手は大手からの三の丸攻略の最中にが銃弾にてするなどの損害を出したものの、なお力攻めを続けた。 これについて、功を焦った豊臣秀次が無策にひたすら力攻めを命じたとも伝わるが、岱崎出丸と大手に猛攻を加えることで守備を集中させ、一方で徳川軍に西の丸を攻略させることで、城の欠点と守備兵の不足を上手く突いている。 豊臣方は総大将の秀吉が長久保城に到着する以前から、山中城周辺についても調査を行っており、その調査を基に軍議を重ねている。 これにより城の縄張りおよび攻略の糸口を掴んでいたとも推測される。 多数の損害を出しながらも諸将の活躍により郭は次々と陥落、西の丸が陥落した段階で本丸の松田康長は、兄弟や弟の松田康郷を逃した。 松田康長は手勢2百と共に本丸の建物に籠っていたが、「櫓を守っていた100人ほどの将兵が、怒涛の大軍に押し寄せられて敵味方一丸となって櫓ごと堀に転落」するような状況で守備方は壊滅し 、午前中のうちに城は陥落した。 松田以下、間宮兄弟、多米長定、長谷川近秀、追沼氏雅らは戦死し、北条方の戦死は約2千人とされる。 小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの山中城が、豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城した。 この事実は小田原北条氏陣営に深く重い衝撃となった。 秀次の力攻めの方針により豊臣方にも結構な損害が出たが、それを上回るダメージを敵に与えたと言える。 その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に を落とした。 徳川軍は鷹之巣城に入城し、短期間だが本拠とした。 同じく箱根越えの要衝であった は・が守備していたが、山中城の陥落を知ると守将は主な兵をまとめて城を退出、小田原城守備軍に合流したため、翌日に徳川麾下の隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、4月1日に落城した。 、 などを含め、山中・足柄城を中心とした小城砦のネットワーク(箱根十城)も全て陥落ないしは放棄され、小田原城以西は豊臣方の勢力圏となった。 経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。 一柳直末の戦死を聞いた秀吉は深く落胆し、三日ほど口をきかなかった、という話が伝わる。 韮山城 [ ] 韮山城の位置 天正18年()3月29日から6月24日まで続いた。 攻撃軍の編成 合計44,100人• 右軍 計8,400人 4,000人、 1,200人)• 中軍 計9,700人( 1,500人、 2,200人、 2,500人、 1,800人、 1,700人)• 左軍 計9,000人( 2,700人、 2,100人、 2,000人、・等 2,200人)• 旗本 17,000人• 韮山城守備軍 約3,640人(城主・、、、富永政家ら) では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。 そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。 籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康 を交渉役として派遣し、北条領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。 下田城 [ ] 下田港。 中央の岬が下田城址• 下田城攻撃軍の編成 約20,000人軍船1,000隻(水軍 、、、、、、、、毛利水軍(・・・・・など)、徳川水軍(、、など)• 下田城守備軍の編成 約600人(城主 、。 援将 、吉良氏広、) 伊豆半島南部に位置し、北条水軍の根拠地であった は、北条氏直から全任を受けた清水康英が守備した。 西伊豆の諸城から兵と船を引き上げ、防衛ラインとして下田城に全てを集中させた。 この用意は前年度中から既に始まっており、梶原景宗などが合流して兵2800にて防備する予定であったが、梶原ら主力は小田原城の海上防衛に当るために引き揚げた。 一説には清水と梶原による主導権争いにより、梶原が兵を引き連れて去り、これを小田原も容認した、とも伝わる。 大型の安宅船などを動員し、手薄であった西伊豆を3月以降の瞬く間に支配下に置いた豊臣方は、4月1日に下田城攻めを開始した。 西伊豆から上陸した部隊は陸路からも城に迫った。 この上陸部隊と交戦し、3月25日に岩殿寺城で清水英吉(康英弟)が戦死している。 加藤嘉明らは下田港に上陸し、街を焼いて出丸を占拠した。 4月1日に徳川勢の本多重次・向井正綱らが安良里砦・田子砦を落とした。 3月29日の山中城の落城により進軍速度が速まったこともあり、秀吉からは「水軍を速やかに小田原沖に展開し海上封鎖するように」との命が下った。 攻城側は長宗我部元親ら2500を残し、主力の羽柴秀長、宇喜多秀家などの残りの将兵は東伊豆を北上した。 清水康英は総兵600余で約20日に渡って籠城抵抗した。 長宗我部軍は海上から大砲を打ち込み、北条方に損害を与えた。 4月7日には江戸朝忠の叔父のが戦死した。 4月23日、脇坂安治とが降伏を勧告し、康英は起請文を交わし開城した。 康英は河津の林際寺に退去した。 後北条氏配下のの、最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、他の伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上封鎖に加わった。 先に山中城落城から脱した蔭山氏広は居城のに帰還していたが、子のらと共に戦わずに開城した。 以後は修善寺付近で蟄居した。 玉縄城 [ ] 玉縄城堀切 先に山中城の落城の際に脱出し落ち延びた北条氏勝は、これを恥じて自害しようとしたが、家臣のや弟の・らに説得され、手勢700騎を率いて居城の に逃げ戻り籠城した。 この際に小田原城の北を迂回するルートで玉縄に戻り、すなわち小田原城籠城軍に顔見せもなく合流することもなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。 その後、徳川麾下のらを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・)住職の良達による説得に応じ、4月21日に降伏開城。 開城後は徳川氏や、らが守備した。 以降氏勝は豊臣方として、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。 小田原城包囲 [ ] 蓮上院土塁 山中城と周辺の諸城を落とした秀吉本隊は、4月1日に箱根山に本陣を移した。 諸将は箱根を越えて小田原に進軍し、海からは伊豆を経由して九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治らの水軍が迫った。 4月4日、徳川家康や堀秀政らが小田原の包囲を開始した。 5日、秀吉は箱根湯本のを占拠し、当初この寺を本営とした。 この寺は小田原北条氏の家祖とも言えるに由来する、北条氏のであった。 8日、韮山城を包囲していた軍勢の内、織田信雄らが小田原包囲に加わるために移動。 韮山城は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らが継続した。 この包囲が成されていく間、城方からは抵抗らしい抵抗は無かった。 9日、小田原城中にいたが手勢100余と共に城を脱出し、の陣に投降した。 またこの頃、参陣命令を受けていた安房国のが、浦賀水道を渡って三浦半島に進軍した。 小田原包囲戦が始まると秀吉は小田原城を見通せる石垣山に を築き始めた。 また茶人のを主催とし大茶会などを連日開いた。 などの妻女も呼び寄せ、で温泉旅行などの娯楽に興じた。 皆川広照が投降した際、一緒に茶人のが投降してきた。 宗二は秀吉の勘気に触れて逃亡し、北条氏に世話になっていた身であった。 利休の執り成しにより秀吉はこれを許したが、茶席を儲けた際に不作法があり、宗二は処刑された。 5月27日、包囲の陣中にてが病死した。 予想以上の進軍速度のせいでもあったであろうが、小田原に駆けつけた北条氏側の兵の中には、攻城側の包囲が完成してしまった後に到着してしまった者もいた。 だが秀吉は当人の希望通り籠城できるよう、包囲を通してやった、との話が伝わる。 北方軍(北国勢・信州勢など) [ ] 北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木房頼(常林。 の子)、(元・佐久主 )をに潜入させ、佐久郡の で挙兵させたが 、これは徳川家からが派遣され即座に鎮圧され、伴野は敗死し相木は上野国方面に逃走している。 また北条方は に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。 前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方軍は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻せんとした。 松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、与良が真田勢の先方の隊に打ち取られ、主力も真田軍と激戦になり、総兵力で圧倒的に劣勢であったこともあり、松井田城に退却し籠城した。 豊臣方は碓氷峠を越え、関東平野に侵入した。 松井田城 [ ] 松井田城の位置 天正18年()3月28日から4月20日まで続いた。 松井田城攻撃軍の編成 約35,000人• 西部(追手) 約10,000人• 東部(搦手)・ 約18,000人• 北部 約7,000人(・ 約4,000人、(・信繁) 約3,000人)• 松井田城守備軍 約2,000人(城主 ) 北方隊は 攻略に取り掛かった。 3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。 北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。 北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略してまわった。 一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。 焦った北方軍は攻城の勢いを増した。 守将の政繁は嫡子を脱出させ 、自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後のに終に降伏開城した。 以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。 北方隊の関東平野侵入、制圧 [ ] 前後して北方隊は4月17日頃に 、 の諸城、 (4月19日)、 (4月24日) 、 (5月15日) (5月22日)、その他 、 、 、 など上野・武蔵北西部の各城を開城または攻め落とした。 西牧城には72歳の多米周防守長宗なる将が武蔵国から派遣されていたが、攻め手の松平康国兄弟により城は陥落、多米は城近くの大岩の上で切腹したと伝わる。 ほとんどの各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。 松山城では当主のが主力を率いて小田原城にいたため、城代の以下、や、木呂子友則、若林直盛ら約2千300名が松山城に籠城したが、前田利家・真田昌幸・上杉景勝らに包囲攻撃されたために降伏開城した。 降軍の3千余騎が前田軍の先手に加わり、攻撃に参加した。 なお、この間に石倉城で松平康国が戦死している。 のも小田原に籠城しており、留守の城は母親のが守備していたが、妙印尼が国繁嫡男のを立てて桐生城を開城し、兵2千を集めて松井田城攻めに加わった。 これが評価され、戦後に妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ、は存続することとなった。 4月末に前田利家は、降伏した大道寺政繁父子を伴って小田原包囲中の秀吉の下へ参陣している。 5月1日に自軍へ帰還しているが、護衛の軍勢を引き連れていたとはいえこの時点で既に、上野から小田原間に、豊臣軍の通行の妨害となるものが少なかったことが窺える。 なおこの往路で大道寺政繁は自城の河越城に開城勧告を行っている。 歴戦の要害・要衝である の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子(養子)のが大道寺氏の留守守備部隊を指揮していたが、政繁の降伏を受ける形で河越城も降伏開城し前田軍が入城している。 以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。 武蔵国の平野部にある館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しい。 では当主の浅羽氏ら主力が小田原に籠城したため、生まれつき隻眼の姫や家老らで守備していたが、前田・上杉勢に攻められて落城し、姫は堀に身を投げた。 以来その堀跡の池では、魚は全て隻眼である、という伝説が残っている。 南方からの加勢 [ ] 牛久城 浅野長政や、徳川家臣(・・・榊原康政・戸田忠次・)、玉縄城の降将であり道案内および開城説得役の北条氏勝らで構成された下総方面軍は、 、 、の と 、の 、 、 (5月5日)、の拠点の (5月10日)、伝統ある武士団の本拠であった (5月18日)、 、両家の と (5月10日迄) 、の 、 、 、 、 、 、の など、諸城を次々と開城させた。 このあまりの急進撃に、浅野に対して秀吉からは敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で「房総諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られたほどであった。 ただし5月12日時点でも秀吉は浅野に対し、北方の鉢形城攻略軍に合流するよう指示を出していたため、相当な命令違反行動であり、5月20日には秀吉から浅野・木村両名へ、鉢形城へ向かわない件について長文の詰問状が送られ叱責されている。 つまらない城を二万の軍勢で請け取るのではなく、降城は二、三百人の使いを出して請け取ればいいから、早急に鉢形城に包囲軍に加われ、という旨が書かれている。 先の書状の20日時点での浅野らは、命に従い急ぎ軍を返して武蔵国方面に侵攻しており、 や後述するを攻め、時点で岩付の二の丸・三の丸を落とした、と秀吉に知らせている。 秀吉は「一人残らず討ち果たせ」「女子供は全て連れてこい」 と命じたが、浅野は開城条件として城兵の助命をしてしまっており、25日にこの件での再度叱責と、急いで鉢形城へ向かうように、との指示を受けている。 ただし浅野は降伏開城処理のため、6月1日迄岩付城に留まっている。 この軍は6月8日には北方軍の前田利家らと合流し 、忍城攻めに加わったのち、前田や上杉らとやっと鉢形城の攻略に向かっている。 これら房総・武蔵の諸城の異常ともいえる速さでの陥落の理由は、北方の諸城と同じである。 各城が本来動員出来得る兵力のほとんどは、小田原城の籠城戦のために動員されており、当主や城主自身も小田原城籠城に参加していたために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。 例を挙げると、下総の小金城のの動員軍事力は豊臣側が作成した『』には700騎と記されているが、実際には城主のら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されていた守備軍は200騎と軽卒300名であったとされる。 原氏の拠点のひとつ(北)生実城が攻略された際、城将のが酒井家次に討ち取られたとする説がある。 当主を失った原氏はしかし、嫡男のが小田原城に詰めていたため、原邦房を名代に立てて臼井城に立て籠もったが、上述の通り開城している。 本佐倉城の場合、北条氏からの養子であるも本来の血統の当主のも、共に小田原城に詰めていて留守であった。 北方戦線の箕輪城の場合、北条氏としては決して失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく中、その状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。 ただし決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていたや、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、それらの城を攻略する際は豊臣方にも相応の損失があり、進撃の速度は大幅に落ちている。 また、、を脱出し、で先に降伏した北条氏勝や重臣である大道寺政繁らの、元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の攻略時の案内、具体的に言えば城の弱点のリーク、という情報的有利さも影響している。 有名な話としては、八王子城攻略の際に、降将から進言された裏門からの攻略を行った件が挙げられる。 岩槻城(岩付城) [ ] 岩付城の位置 天正18年(1590年)5月19日から22日まで続いた。 攻撃軍の編成 計20,000人• 約3,000人• 2,300人• ・など徳川勢• 岩槻城守備軍(の留守部隊。 宿老の、、など) 約2,000人• 氏房の留守軍 は城主の氏房により、来たるべき豊臣軍の来襲に備えて城の防御力を上げるため、城を囲む長大な堀を新たに構築してあった。 しかし氏房以下の主力は小田原城に籠城したため戦力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが、彼我の戦力差は如何ともし難かった。 攻撃側は秀吉から、早々に鉢形城攻めに取り掛かるように、との再三の督促を受けていたため、城に対して持久戦ではなく火攻めと力攻めで圧した結果、籠城側は兵のほぼ半数である1千余人の死傷者を出したのち降伏した。 秀吉からは「岩付の兵は全て殺し、女子供は全て連行するように」との指示があったが、責任者の浅野は生き残った兵や女子供を助命し、つまりは秀吉の指令を無視した。 鉢形城 [ ] 鉢形城址 天正18年(1590年)5月14日から6月14日まで続いた。 攻撃軍の編成 約35,000人• 18,000人• 10,000人• 3,000人• (大道寺政繁)先に松井田城開城で降伏し、道案内となっていた。 3,000人(小田原陣から来た援軍)• 2,300人(小田原陣から来た援軍)• 、、(徳川氏家臣。 小田原陣から来た援軍)• 鉢形城守備軍() 約3,000人 城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。 小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立した。 氏邦は籠城より先に積極的な野戦迎撃を説き、駿河国に打って出ること、平野部での大規模な野戦を主張したが容れられなかった。 このため、小田原ではなく自城に帰還して籠城した。 後詰めもなく、彼我の差は10倍以上であったが、家臣らと籠城戦を戦った。 秀吉は鉢形城の動静を気にしていたらしく、小田原陣から分離した援軍の浅野軍に対し、北方軍と合流して早急に鉢形城を攻略するよう、何度も何度も指示を出している。 6月13日、忍城攻略を行っていた北方軍と浅野軍が分かれ、鉢形城の本格攻略に向かった。 浅野軍であった本多忠勝が近隣の山に大砲を運び上げ、城に向かって打ち込み始めると被害は甚大となり、城兵の助命と引き換えに守将の氏邦は開城した。 鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許された。 身柄は前田の預かりとなり、前田領内の津向(現在の)に知行1000石を得た。 浅野長政と真田昌幸は忍城へ向かい、包囲軍に戻った。 館林城 [ ]• 館林城攻撃軍の編成• 関東諸侯• 忍・館林を攻略するよう命じられた石田三成・長束正家らは、下野方面の関東諸侯と合流し、を攻めた。 5月29日に館林城を攻略し、忍城の攻略に移動した。 この落城の際、次のような話が伝わる。 館林城は築城時の狐伝説が残る城であるが、この城は沼地に囲まれた天然の要害であったため、数日間をかけて攻めるも効果が少なかった。 このため豊臣方は近隣の山から木材を伐採し、一日をかけて城の周辺に木道を構築して城攻めの道を作った。 翌朝から本格的な攻勢を行うつもりであったが、朝になるとこの木道はひとつ残らず消え失せていた。 警備の兵も誰も、異常に気がつかなかった。 忍城の戦い [ ] が布陣した 石田三成・長束正家らは館林城を攻略したのち軍を返し、6月4日頃から忍城に取り掛かった。 の成田氏当主の成田氏長と弟のが小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。 当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。 当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢からなる浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城はやをとして効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。 秀吉からは利根川を利用した水攻めの指示があったが、石田三成は秀吉に対し、もっと積極的な攻勢をかけるべきではという伺いを行った。 しかし6月12日の秀吉からの返信では、三成に対し改めて水攻めの注意点を事細かに指示している。 翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し攻めに向かった。 攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの()に置いて忍城を包囲し、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤()の築堤が進められた。 現在残る しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であり、水攻めの効果は薄かった。 その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。 結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。 鉢形城を落としたや真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。 その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城が先に開城してしまった。 小田原で降伏した氏長の説得により、忍城は開城した。 城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に、秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。 八王子城の戦い [ ] 曳橋(推定復元)と御主殿石垣(一部復元) 天正18年(1590年)6月23日。 攻撃軍の編成 総勢15,000人• (など)• 元・北条降将• 松山城降将(上田氏、山田直安、、、木呂子友則、若林直盛など)• 小幡衆(当主は小田原城籠城中)• 八王子城守備軍(の配下)および領民 総勢3,000人 攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。 当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の、家臣の、、、および近隣の農民・婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる。 先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。 秀吉軍は前夜のうちから城の大手と搦手の双方から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。 その後は激戦となり攻め手も1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいたの家臣の平井無心がこの周辺の地理に詳しく、抜け道を案内した。 絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。 氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。 金子氏は城内にも、攻め手にも金子氏がいたため、同族が戦うこととなった。 城代の横地監物以下の残兵は、さらに奥地であるの守る を目指しに脱出した。 獲られた将兵の首は本来の城主である氏照も籠る小田原に運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城の城門近くに晒すなどして、八王子落城の現実を小田原城守備兵に見せ付けることで、豊臣方は小田原城の早期開城を迫った [ ]。 八王子よりさらに山間部にある檜原城にて平山氏重以下は奮戦したが、前田利家や上杉景勝らの軍勢に敵わず、7月12日に落城し、氏重ら平山一族は城下で自刃した。 この時、小田原城は既に開城となっていた。 以降、前田利家と上杉景勝は八王子城に在陣した。 伊達政宗騎馬像 北方のと対立していた佐竹氏は、早くから中央の織田氏や豊臣氏と連絡を取っていた。 伊達氏は佐竹氏を挟む形で小田原北条氏と同盟関係にあり、佐竹氏は伊達氏を挟む形で上杉景勝と友誼を深めていた。 一方、北関東の小諸侯はその動静として、小田原の傘下となるか、あくまで逆らい滅亡の道を辿るかの選択を迫られていた。 佐竹氏はそのような諸侯を庇護し、あるいは縁戚となることで、反北条氏の連合を形成していた。 前年の天正17年(1589年)、の結果、の次男のは伊達政宗に破れ蘆名氏は勢力を失い、南奥州の諸侯が伊達氏の傘下に下った。 ただしこれはに違反しており、豊臣氏の出兵理由ともなっている。 これにより南北を伊達と北条に挟まれた佐竹氏は、存続の危機に陥っていた。 下野国でも北条氏の圧迫は強まり、傘下に降る勢力も多くなっていた。 抗戦した宇都宮氏は天正17年(1589年)9月に北条氏邦に や を攻められ、家臣にも北条氏へ下る者 が現れる中、本拠を要害の に移し徹底抗戦の構えを見せるも、風前の灯と言ってよい状況であった。 なおこの宇都宮攻めも豊臣氏の総無事令に違反しており、北条氏征伐の名目の一つとなっている。 このような状況の中、豊臣氏による小田原征伐が号令された。 常陸国と下野国 [ ] 小山秀綱 当初、南奥州にて佐竹義重の嫡男は伊達政宗と対陣していたため 、身動きが取れなかった。 一方下野や常陸の北条方の諸侯は皆、兵力を従えて小田原城籠城に加わることを義務付けられていたため、これらの手薄となった北条方の城は4月下旬から5月にかけて、佐竹氏を中心とする反北条氏の諸侯によって次々と陥落させられた。 と は の と近藤実方 の を5月半ば迄に奪い、佐竹勢と や・はが留守の や に4月16日に攻撃を開始し、29日に占拠した。 が留守の も開城された。 しかし北条氏に屈服して数年来、宇都宮氏や佐竹氏と抗争してはいたが、もともと豊臣側と誼を通じていた皆川広照は、4月8日に小田原城を脱して包囲する豊臣側の陣所に投降していたため、皆川氏に城は返還され、徳川氏の附属として本領安堵された。 さらに義宣は宇都宮国綱らと共に兵1万を伴って豊臣方に参陣し、5月24日に、結城晴朝と、5月27日に佐竹義宣と宇都宮国綱、結城朝勝らが小田原にて秀吉と面会を果たした。 そのまま忍城攻めに加わり、戦後は奥州仕置などにも従った。 元々豊臣氏の幕下に加わっていた上に、これらの戦功が認められ、佐竹氏は8月1日に常陸一国の采配を任された。 これにより、や・・など、旧国人系の勢力が正式に佐竹氏の家臣となることとなった。 南常陸には反北条勢力として のや のがいたが、この両者はお互いを牽制し、小田原に参陣することができなかった。 この両者は参陣できない件について佐竹氏に執り成しを依頼しているが、佐竹氏はこれを黙殺した。 このため江戸氏と大掾氏の領土は安堵されず、同年12月、豊臣政権を後ろ盾に佐竹氏は両者を攻め落とした。 佐竹氏と長年死闘を繰り広げていた北条方のも領地を没収され、翌天正19年()2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡のと称されるなど一族の領主を、佐竹氏本拠の に招いて一度に謀殺した。 さらに同年、江戸氏支族の抗争に乗じ、 の を攻め、秀吉からの退城勧告を突きつけた。 額田小野崎氏は下野のを頼って落ちて行き、さらに日光に逃れ、伊達氏の庇護を得た。 こうして豊臣政権を後ろ盾として佐竹氏は常陸一国を統一した。 元は岩付城主であったと親子は、北条氏との幾多の抗争の後、佐竹氏に客将扱いで庇護されていた。 親子は秀吉に謁見し、翌年の江戸氏・大掾氏攻略にも功績を挙げたが、旧領岩付帰還は叶えられなかった。 資武はのちに結城氏の招きに応じて結城家臣となった。 宇都宮仕置を経て、下野国内ではやの所領が没収された。 小山秀綱 は実弟の結城晴朝の下に身を寄せた。 結城晴朝は11万石の所領を安堵され、結城家臣のや・らも所領を安堵され、結城氏の与力大名となった。 宇都宮氏は18万石の所領を安堵されたが、最盛期よりは所領は小さくなった。 前年から上方の豊臣氏に臣従していたも所領は安堵された。 ただし秀吉からは「佐竹、宇都宮ならびに家来のものども多賀谷、 」に対して、不要な城を破却するように、との命が出され、領内の小城や砦が破却された。 伊達政宗に対しては浅野長政らが説得命令を続けた結果、彼我の差を鑑みた伊達氏主従は4月15日に会津 を一旦出立した。 政宗母親のによる実弟の擁立および政宗毒殺未遂、政宗による政道謀殺などの話が残るのはこの時期である。 順当に考えれば会津から下野国方面へ出るのが小田原への最速最短の行路であるが、戦場となっている北条領や佐竹氏らと出会う可能性があるためルートを変更せねばならず、一旦黒川に帰還したのち5月9日に再度出立、米沢から小国を経て日本海側に至り、上杉景勝の所領である越後国から信濃国~甲斐国を経由して、5月27日に甲府に到達した。 ここで伊達氏との取次窓口となっていたが関東平定に出陣していた浅野長政に対し、小田原に帰陣していて欲しいと連絡している。 6月5日に小田原へ到着している。 惣無事令違反を問われたが、を滅ぼしたのは親の敵討ちである、と弁明した。 伊達氏は本領を安堵されたものの、やを経て、前年に獲得した会津すなわち旧蘆名領は没収された。 下野諸侯の動静 [ ] 唐沢山城 下野国 のは、先代のが天正13年(1585年)元旦に戦死した後、北条氏からを迎え当主とした。 佐竹氏から養子を迎えることを画策していたやは不満を持ち、上洛して豊臣秀吉に裁可を訴えていたが、北条氏はこれを無視した。 このため反北条氏の家臣らは出奔し、房綱や山上らは上方で豊臣氏に仕えていた。 小田原征伐が構想されると房綱らに対し、関東地方の絵図面の作成が命じられ、房綱は山上道及らに依頼し関東諸国の山河、城、街道を詳細に色分けして描き、に提出した。 東征が始まると房綱と道及は佐野家に対して集結を呼びかけたが、思ったより少数の兵しか集まらず秀吉に落胆されたと伝わる。 ただしこの頃佐野氏の主軍は他の諸勢力と同様に、北条一門である佐野氏忠に率いられて小田原籠城に加わっていたため、集まりが悪い理由も推測できる。 房綱らは碓氷峠を越えて来た北方軍に加わっており、道案内も務めていた。 天下の要害ではあるが寡兵の守る唐沢山城は4月28日に開城となり、北条氏の勢力は一掃され、佐野房綱が城を受け取り佐野氏の当主として認められ、本領安堵された。 那須氏の本拠であった烏山城 下野のは、周辺の宇都宮氏や結城氏、佐竹氏と抗争していたため、北条氏や伊達氏と組むことが多かった。 このため豊臣氏が東国に干渉してくるようになった際も敵対的な態度を取っていた。 秀吉の参陣の命にも従わなかったため、戦後所領は没収された。 しかし重臣のがの際に歓待を行い、資晴の子のを連れて面会し陳謝したため、資景に5千石が与えられた。 大田原晴清のは主家とは逆に早くから豊臣氏に接近しており、天正16年(1588年)には父の名代という形で弟のを上洛させ、謁見に成功していた。 晴清自身も秀吉が駿河国沼津に着いた頃に早々に謁見に成功しており、秀吉の覚えが良かった。 大田原氏は忍城の戦いなどにも参加した。 同じく那須家臣のも早々に主家を見限り秀吉に参陣し、所領安堵されている。 主家や他の()が所領を失い、あるいは減らす中、大田原氏と大関氏は時流を読み、上手に立ち回ることに成功した。 那須氏が没収された には、この小田原征伐後に100万石余を没収されて改易された織田信雄が入り、流罪とも蟄居処分とも言われるが、2ヶ月ほど城主であった。 その後、北条方であったが娘のの縁で取り立てられた成田氏長が封じられた。 上野国 [ ] 上野国の北条支配下の諸侯も、小田原に籠城することを義務付けられていたため、籠城中に北方軍に城を攻略され本領を失う例が多かった。 との兄弟も小田原に籠城しており、国繁の留守のは母親のが守備していた。 この齢70を越えた妙印尼が主導し国繁嫡男のを立てて兵2千を集め、前田利家を通じてを開城し、松井田城攻めに加わった。 これが評価され、戦後に由良国繁と長尾顕長は助命された。 さらに妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ、これを国繁が相続した。 国替えとはなったが、由良氏は存続に成功した。 のは上杉景勝を介して投降し、所領は失ったが助命され上杉氏のの家臣となっている。 安房里見氏の侵攻 [ ] 奥沢城址 世田谷のもまた、小田原北条氏と数代に渡る縁戚関係となっていた。 古河公方同様に、北条氏は権威ある家を自身の権力基盤の支えとして利用していたようであるが、独立性は保たれ完全な臣従関係ではなかった。 ただしや氏朝などは、北条氏から一字拝領する力関係となっていた。 当主のは小田原に籠城したため、戦後は所領を没収され、 (現・)や 、 (現・)などの支城も廃城となった。 氏朝は菩提寺に住んだが、のち関東入府した徳川家の家臣となった。 の本拠であった は、当主のが北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮したらが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。 戦後、深谷上杉氏は所領を失った。 氏憲は上杉景勝の領する信濃国更級郡に逼塞し、死去した。 子孫は池田氏に招かれ、士となった。 氏憲の従兄弟の吉次の子孫は500石の旗本となり江戸幕府に仕えた()。 相模国のは北条氏に臣従していた。 臣従とはいえ「宅間殿」と扱われる家格であった。 小田原征伐の際、宅間規富は北条方に与したため、戦後に所領を失った。 のち徳川家の旗本となった(宅間氏)。 はが若い頃から徳川家康に仕えており、徳川家が関東に移封されると武蔵・相模国内に3千石を領し、数代後には万石を超え、一旦大名となっている。 白井城本丸跡 は前田利家や上杉景勝らの北方軍によって白井城を攻められた。 は抗戦したが、本丸以外を落とされ開城した。 ・政景兄弟は前田利家に預けられたが、のち同族である上杉景勝の家臣となった。 の長尾顕長は小田原に籠城し、本拠も陥落しているが、前述のように実母妙印尼の活躍により助命され、子孫は徳川家臣のに仕えて家老職となった。 「」と言われた諸侯の、小田原征伐後の状態は、以下のようになる。 宇都宮氏 所領安堵。 豊臣の権威を背景にした佐竹氏により追放。 小山氏 所領没収。 佐竹氏 常陸国統一。 所領没収。 (これ以前に本家は勢力を失っていた)支流の皆川氏が本領安堵。 那須氏 所領没収となる所を家臣の嘆願により存続。 本家分家共に所領削減。 結城氏 所領安堵。 小田原開城へ [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2020年1月) 5月9日、後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州のが、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった。 これにより、小田原城の外に北条氏を支援する勢力は無くなった。 開城への勧告は5月下旬頃から始められており 、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。 6月に入る頃、小田原を囲む豊臣軍主力の陣中の風紀が乱れ始め、乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。 この包囲中、戦らしい戦と言えば、7月2日に配下の広沢重信 が・勢に夜襲をかけ、広沢と蒲生が一騎打ちを行ったのが後北条氏側唯一と言える攻勢であり、囲む方は、が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。 それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。 そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。 4月9日、小田原城に在陣中のが豊臣軍に投降し 、6月初旬には家康の働きかけによって、上野の家中と箕輪城家中 が城外に退去している。 この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、親族の徳川家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。 後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉がに命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。 6月7日、織田信雄家臣の岡田利世が小田原城へ入り、氏直単独と二日間面談し、内容を徳川家康に報告している。 城中では講和開城の噂が流れていて、警戒が緩んでいたようであり、12日には氏直から小幡信貞に対し、城内の綱紀粛正の命が出ている。 同12日に氏政の母であると、継室の鳳翔院が同日に死去しているが、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。 、北条氏重臣であったの長子のが、数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを、政晴の弟のが氏直に報告することで発覚し、政晴は氏直により成敗された。 、小田原城の篠曲輪を夜半の雨中に徳川家中のが攻撃し、占拠した。 に落城したから守備隊だった者たちの多数の首と、将兵の妻子が城外で晒し者にされたことは、後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。 残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城はに守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城もまたに開城し、北条氏規は秀吉の元に出仕した。 八王子城の落城に続いて も開城した。 、黒田孝高と共に織田信雄の家臣が小田原城に入り、降伏勧告を行った。 先に降伏した氏規も小田原城に入り、降伏を説得している。 石垣山一夜城から望む小田原城 、小田原城を見下ろすに、関東初の近世城郭の威容を誇った「一夜城()」が完成したことも、後北条氏側に打撃をもたらした。 城中では後北条氏の一族・重臣が、豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く議論が紛糾した。 この印象が後世に強くなり、本来は「平時に月2回ほど行われていた、後北条氏における定例の施政方針重臣会議」を指すものであった「」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。 また豊臣方はこの頃、城方を精神的に追い詰めるため、夜中に包囲軍全軍で城に向かって鉄砲の一斉射撃をやっていたとする話も残る。 、太田氏房勢が蒲生氏郷・関一政と織田信雄の陣に夜襲をかけた。 最後の意地とも言えるこの攻撃を予想していなかった蒲生陣は一旦取り乱すが、自ら槍を取った氏郷やら主従は奮戦し、これを退けた。 、氏直と太田氏房は滝川雄利の陣に向かい、滝川と黒田孝高を通して、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。 戦後処理 [ ] 7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は、自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、赦免はともかく切腹は見送られた。 当初の開城・降伏の条件は• 北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。 氏直に上洛をさせる。 であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁 に開戦の責があるものとして、この四者に切腹を命じた。 から9日にかけてと、の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。 、氏政と氏照は小田原城を出て徳川の陣所に入った。 、城下の医師の屋敷にて、・・・・榊原康政の検視役が見守る中、兄弟の氏規の介錯により切腹した。 氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった、とも伝わる。 氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、に蟄居を命じられた。 7月21日、氏直は家臣ら30名ほどを連れて出立し 、8月12日に高野山に入った。 翌年2月には早くも徳川家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、5月上旬には大坂で旧織田信雄邸 を与えられ、8月に1万石が与えられた。 しかし、11月に病死した。 北条氏は氏規の子孫が紆余曲折の後に・の大名として豊臣・徳川期と存続した。 氏政と氏照の首は16日に京に送られ、聚楽第の橋に晒された。 一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城に対し、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、に開城した。 その後、氏長の娘のが秀吉の側室となって寵愛を受けたため、氏長に2万石が与えられた。 の本拠であったは、当主のが北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮したらが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。 戦後、深谷上杉氏は所領を失ったが、秋元長朝は関東へ入封した徳川氏に仕え、での投降を促した功により大名となり、後に子孫から()を輩出した。 北条方に加わって豊臣軍と戦った者が江戸時代にになった唯一の事例である。 7月12日には檜原城が落城し、八王子城の残党やらが自刃しているが、彼らに小田原開城が伝わっていたかは不明である。 7月13日、秀吉が小田原城に入った。 この日、徳川氏の関東転封が公表された。 ただしそれ以前からこの方針は伝えられていたようであり、徳川家臣のの日記『家忠日記』の6月20日条に「国替わり近日の由」と記されている。 翌8月1日には徳川家康が江戸城に入り、9月には家臣らに知行が割り当てられている。 8月1日は豊臣軍は宇都宮に駐屯し、以降は奥州へ向かったため、徳川は宇都宮まで同行しそこから戻ってきたと考えられる。 に関しては4月中に徳川氏に与えられている。 7月16日、秀吉が小田原城を出発。 秀吉はその後、を平定したに倣って、の政庁があったに入りに奉幣、19日に江戸城着、20日に出発。 7月26日、同じく頼朝に倣ってに奉幣してへ入城し1週間ほど滞在、および奥州の諸大名の措置を下した()。 その後、豊臣家の大軍勢は伊達政宗の案内により、北上しへ向かった。 後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなったが、空いた徳川旧領へのを秀吉に命じられた織田信雄は、この命令を拒んだたためされ下野国に蟄居させられた。 この改易により、秀吉の旧主家の織田氏は勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼした上で国持ちの大名であり正二位内大臣の旧主家であろうとも改易できる秀吉の実権力が確定し、同時に官位・所領の両面において、徳川家康が豊臣政権の大名として一の実力者と確定した。 また前述の秀吉の裁定で、真田氏が北条氏に譲っていたは真田に返還された。 秀吉の怒りを買ったは、徳川家康が執り成したこともあり、一国は安堵された。 しかしの所領は没収されて徳川氏に与えられた。 は一国がに与えられた。 この豊臣政権の御墨付きを後ろ盾として、佐竹氏は常陸中部のやを滅ぼし、さらに天正19年()2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡のと称されるなど一族の領主をに招いて謀殺するなどして常陸国内を統一を達成した。 8月中のなどを経て9月1日、豊臣秀吉は京に帰還した。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 北条氏邦は沼田城および猪俣邦憲を采配する立場でもあり、のちに豊臣方との開戦が決まった際は駿河国への先制侵攻、または関東平野での大規模な野戦を主張したが、この意見は小田原の本家に退けられた、とされる。 のちに北条氏に代わり関東の領主となった徳川家康は、松田康長の子のや、間宮直元ら間宮康俊の孫を家臣として召し抱えている。 北条氏勝・繁広兄弟も家臣とした。 間宮康俊の娘は家康の側室となっている。 蔭山氏広の義娘のも側室となっている。 江戸城主の遠山景政が守備していたが、徳川勢に攻められ30余名の戦死者を出して落城• 家康と氏規は幼少時期、共にの大名の下で人質生活を送っており、その頃の旧知であるとする説がある• 宗二が北条氏に義理立てした、とも伝わる。 孫を脱出させた、とも。 長男はこの時、小田原城にいた。 またこの脱出を真田昌幸が見て見ぬふりをした、との話が伝わる。 どちらも小幡氏の城であり、当主のは小田原籠城中。 国峯城を落としたのは上杉景勝麾下の。 垪和氏・内藤直矩が戦わずに開城し、真田昌幸が入城した。 城主のは小田原城に行き不在• 富岡氏の先代が守備• 城主は小田原に籠城• 石倉城守将の寺尾左馬助から康国への申し入れにより一旦は開城となったが、開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った左馬助が康国を殺害、康国弟のが左馬助を討ち取った、という話が伝わる• 城主の猿渡盛正は八王子城に籠城し、討死。 の弟のが1000人で守備していたが、浅野長政や徳川麾下の、らが攻め寄せたため開城降伏• 遠山氏が守備していたが、周辺諸城が開城する中で唯一抗戦の姿勢を見せたため、戸田忠次ら徳川勢が攻め落とした• 城主のは小田原籠城中であったが、叔父の戦死と豊臣の圧倒的な大群に衝撃を受け、密かに城に使いを送って開城を命じ、浅野長政に降伏させた。 父のが100騎を率いて小田原籠城中に、不仲の子のが徳川に通じて5月中に開城。 戦後、秀胤に本領安堵。 東金酒井政辰が150騎、土気酒井康治は3百騎を率いて小田原城に籠城しており、当主不在。 さらに里見氏の北上に備えて各支城にも兵を配していたと推測される。 城主で当主の真里谷信高は徳川勢に開城し、那須氏に亡命した。 城主で当主のは日和見的な態度であったため、徳川軍の本多忠勝により落城• は小田原籠城中で留守• 本多忠勝により攻略と伝わる。 のち本多はこの地を領する。 発掘調査で火災跡が見つかっている。 と長男は小田原籠城。 次男は落城時に脱出し伯父のに匿われた。。 この間、6月5日に小田原に参陣した奥州会津のの詰問を行う為、浅野長政と前田利家は軍を置き、自身らは小田原包囲陣に入っている。 6月9日に伊達政宗と秀吉の会見があったため、それ以降に自軍に戻ったと考えられる。 上杉景勝は相続時の因縁から、小田原北条氏とは仇敵である。 芳賀高継。 戦後すぐに帰参を許されている。 この二者は従兄弟。 実兄は宇都宮国綱であり、国綱・朝勝・の三兄弟は、佐竹義宣・蘆名義広らと従兄弟。 結城晴朝の実兄• 八王子城に籠城し、戦死。 正室は佐竹義重養女• 壬生義雄の妹婿• 江戸重通は縁者の結城晴朝の下へ逃れ、大掾清幹は自刃。 小田原には義宣と共に参陣している。 小野崎昭通(照通)は伊達政宗の娘と家康六男のの婚姻に伊達家から付属し、忠輝家中となり士となるが、忠輝改易により浪人。 その後の仲介によりのに仕え、常陸に復帰している。 のちに佐竹氏の重臣となる元・小山家臣のはこの時浪人し、佐竹氏に登用された。 のちに資晴も許され、別に所領が与えられた。 ただし国繁と顕長の間にもう一人、という兄弟がいたことも考慮すべきである。 繁詮は当初兄弟と同じく北条傘下であったがのち離れ、上方に出て豊臣家に仕え、豊臣秀次の重臣となっていた。 氏姫の母も祖母も北条氏の娘。 箕輪城主の北条氏邦(藤田氏邦)は小田原籠城に反対し、大規模な野戦を主張したが採用されず、領内の鉢形城に籠城して10倍の北方軍と対峙、6月初旬に既に開城している。 嫡男で松田憲秀娘婿のは小田原に詰めていたため、と老臣ら150名で防戦。 津久井衆を率いて、4月に中郡白根に駐屯する豊臣勢に攻撃している。 6月に徳川勢の、、、、ら1万1千余の攻撃を受けた。 大道寺政繁は早期に降伏し、以降は豊臣方として他の城の攻城や開城交渉に働いていた。 後述するが、この時点までに織田信雄は改易されている。 出典 [ ]• 伊達家文書「小田原征伐陣立書」• 岡本良一 「天下人」 『国民の歴史』 第12巻 文英堂、1969年、 [ ]。 長谷川成一 「」『白い国の詩』 569号、東北電力株式会社広報・地域交流部、2004年、p. 91-96。 池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六『戦国合戦大事典(二)』(新人物往来社、1989年)• 黒田基樹「織田政権と関東」『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館、2013年、pp005-016。 原田正記 「」、『史苑』 51巻1号、立教大学、1991年、p. 宮川展夫 「」 駒沢史学会 『駒沢史学』78巻, 2012年, p. 19-37 23 ,。 谷口央 「」『人文学報』445号、 東京都立大学人文学部 首都大学東京都市教養学部人文・社会系 、谷口、2011年、p. 丸島和洋、『戦国大名の「外交」』、講談社、2013年、p. 244。 宮川、2012、p. 谷口、2011年、p. 谷口、2011、p. 丸島和洋 「」『国文学研究資料館紀要』11号、国文学研究資料館 、2015年、p. 谷口、2011、p. 宮川、2012、p. 谷口、2011、p. 15-18。 谷口、2011、p. 宮川、2012、p. 谷口、2011、p. 7-8。 谷口、2011、p. 粟野俊之 「」『駒澤史学』 39,40号、1988年、p. 106。 田中信司 「」『青山史学』 28号、2010年、p. 富澤一弘, 佐藤雄太 「」『高崎経済大学論集』54号、高崎経済大学経済学会 、2012年、p. 富澤、佐藤、2012年、p. 高橋博 「」『弘前大学國史研究』 93号、1992年、p. 30-31。 富澤 、砂糖、2012、p. 37-38。 粟野、1988、p. 109• 丸島和洋『戦国大名の「外交」』、講談社、2013年、p. 250。 中野等、「」『九州文化史研究所紀要』58号、九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門 、2015年。 139。 小竹文生、「」、『駒沢史学』55号、2000年、p. 123。 中野、2015、p. 140。 中野、2015、p. 144。 中野、2015、p. 140。 中野、2015、p. 154。 高橋六右衛門氏所蔵文書• 中野、2015、p. 156。 『武家事紀』• 宮川、2012、p. 110。 中野、2015、p. 157。 『真田文書』• 粟野、1988、p. 110。 桑田忠親 編 、『豊臣秀吉のすべて』、新人物往来社、1981年、p. 191。 粟野、1988、p. 110。 『家忠日記』• 富永山随• 城主の山本常任は討死• 獅子浜城はの1200。 安良里城に、田子城は山本正次• 『北奥羽の大名と民衆』 清文堂、2008年、p. 『家忠日記』• 総勢10名で旅をし、3月10日に島田で謁見。 所領安堵を受け、中村一氏配下として参戦。 家臣18騎のみで仇敵の南部領を迂回し、27日に三枚橋城で謁見。 対立するは1千騎を連れてしかし遅れて翌月小田原に参陣したため、津軽氏の言い分が通ることになり、津軽氏は南部氏から独立した。 ただし南部宣直も自身の家中での惣領権の確立に、秀吉の権威を利用している。 ただし戦後に減封されている。 『渡辺水庵覚書』• 現・佐久市 伴野城跡 城山公園• 平山優「真田三代: 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」、PHP新書、2011年• 『戸田家伝』国立公文書館所蔵。 [ ]• 5月20日付「浅野家文書 [ ]• 『平岩文書』 [ ]• 『小金城主高城家之由来』 [ ]• 常陸のらは結城氏の親族で家臣。 小田原征伐後は独立大名として4万7,000石を安堵された上で結城氏寄騎。 戦後、弟の関根勝直と共にに仕える。 で追放。 牢人であったが活躍し、秀吉の勘気が溶けたという話が残る。 『伊達家文書』• 高橋、1992、p. 小幡文書• 『家忠日記』• 『兼見卿記』• 家忠日記 参考文献 [ ]• 『小田原合戦-豊臣秀吉の天下統一』〈角川選書〉、1996年。 『小田原合戦と北条氏』〈敗者の日本史 10〉、2013年1月。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 小田原市公式ホームページ・デジタルアーカイブ.

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小田原藩

小田原 城 城主

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台 八幡山 に築いた山城でした。 城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。 15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。 小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。 しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。 その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。 貞享3年 1686 に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。 小田原城は、明治3年 1870 に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。 後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。 しかし、大正12年 1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。 その後、昭和9年 1934)に隅櫓が再建され、昭和35年 1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。 続いて昭和46年 1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。 小田原城は、昭和13年 1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年 1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

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筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城の防御は弱かった?

小田原 城 城主

【有馬城】 の家臣で御馬廻衆である 窪田又五郎の築城と伝わっております。 年代は定かではありませんが、 窪田又五郎に関する記述があり、 天文3年(1534年)2月22日に鶴岡八幡宮造営につき 伊豆番匠奉行の一人に命じられたとのことです。 従って、其の頃の築城となるかもしれません。 徒歩5分程度。 武蔵小机有馬に十貫六百十八文を領していたとの事です。 扇谷上杉家との戦いや里見氏の攻撃で焼失した 鶴岡八幡宮の再建指揮のために が と を往復して政務をみた時期がありました。 其の頃に伊豆番匠奉行の一人に命じられた可能性があります。 【玉縄衆】 市玉縄にあった玉縄城の家臣団です。 玉縄城は、永正10年(1513年)、 (伊勢盛時)により築かれたとされていますが、 それ以前から砦か 小城があった可能性も考えられてるそうです。 城の外堀が柏尾川と直結し、 相模湾まで舟を繰り出すことが可能であったことから 玉縄城主は北条水軍を率いて 軍事行動を起こすこともあったそうです。 そうしたこともあり、 北条氏時代には、 一門の重要人物が城主として置かれていました。 【有馬神明神社】 有馬城山にほど近い場所にあります。 普段は静かですが、 大晦日からお正月、例大祭の頃には 多くの人々でにぎわうそうです。 またこの神社のお神輿が大きいことが有名との事です。 創建は不詳ですが、現存する記述文などから 文政6年(1823年)以前との事です。 付近の神明社や杉山神社と明治に入って合祀されたとのことです。 従って、有馬城山とはあまり関係がないかもしれません。 ですが、合祀された「杉山神社」は、 特定地域のみに分布している不思議な神社でもあるそうです。 杉山神社は、 多摩川鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、 多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在していますが、 多摩川を超えた領域には存在していません。 歴史は古く、 平安時代の貞観11年(869年)に編纂された 「続日本後紀」では 「枌山神社」と記述される古社です。 承和5年 (838年)2月に官幣を賜り、 また承和15年(848年)5月には 従五位下を授かった旨が記されているとのことです。 けれどもその本社は比定されておらず、 未だ多くの論社が存在しています。 なお、横浜市にある4社が最有力とされており、 その中には古墳が存在している地域もあります。

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