脱獄鬼。 脱獄鬼

【約束のネバーランド】脱獄後つまらなすぎて失望!面白さも脱走中

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それは何と「ヘリコプターを使っての脱獄」という大胆すぎる脱獄事件だったからです。 脱獄囚の名はマルセイユ出身のパスカル・パイエという男で、強盗殺人の罪によって無期懲役を言い渡されていました。 実はパイエが脱獄を試みたのはこれが初めてではありません。 これまで二度脱獄を試みたことがあるのですが、いずれも方法はヘリコプターを使った方法でした。 その方法はいたって単純なものです。 まず、仲間が刑務所近くの空港でヘリコプターをハイジャックし刑務所の上空に向かいました。 そして刑務所屋上で待っていたパイエをヘリコプターに乗せ飛び去ったのです。 パイエは数ヶ月間逃走を続けましたが、再び逮捕され服役中です。 しかし、現地では「今度はホバークラフトで脱獄するのでは?」と予想されているとのことです。 そしてデリンジャーは逮捕されるたびに何度も刑務所からの脱獄を成功させました。 そんな彼は当時マスコミの注目の的となり、義賊として大衆にもてはやされていたそうです。 しかし、1934年3月にインディアナ州クラウンポイントにある当時最高のセキュリティを誇り「脱獄不可能」と言われる刑務所に収容されてしまいました。 ところがデリンジャーは、木片を靴墨で黒く染めた模造銃で看守を脅し、「脱獄不可能」な刑務所からの脱獄をあっさりと成功させてしまったのです。 当時のマスコミはむざむざ犯人を逃した保安官を嘲笑的に報じたそうです。 1934年6月、デリンジャー逮捕に躍起になっていたアメリカ連邦捜査局(FBI)は彼を『社会の敵ナンバーワン』に指名し、彼に最大20,000ドルの賞金をかけました。 その結果1934年7月にFBIはデリンジャーの顔馴染みだった売春婦から情報を得ることに成功したのです。 そして、FBIは売春婦にデリンジャーを誘い出すよう強要し、待ち伏せしていた映画館の出口で彼を射殺しました。 一説によると、銃を抜く動作をせず「撃たないでくれ! Gメン! 」と叫んだディリンジャーの背後から発砲したとも言われています。 その日、強盗の容疑で拘留されていたチョイ・ギャプボクは、独房にある食事の受け渡し用の小さな穴から抜け出しました。 その大きさはなんと紙幣程の大きさしかないと言うのです。 チョイ・ギャプボクは上半身は23年間続けていた「ヨガ」の技術で、看守がちょっと目を離した数十秒の間にこの穴を抜け出し、留置場を脱獄しました。 しかし、彼は脱獄の6日後に再逮捕されてしまいました。 「ヨガ」の技術で穴から抜け出すことは出来ても、警察の捜査の目を逃れることは出来なかったようですね。 強制収容所での生活はまさに地獄の様だったと言います。 収監から2年後の1944年春、そんな地獄の収容所生活からの脱獄を決意し、同郷のルドルフ・ヴルバと共に収容所の材木の下に身を潜めました。 当然収容所では大規模な捜索が行われたそうですが、運よく彼らは捜査の目を逃れることができました。 そして空腹に耐えながら捜査が収束するのを待つこと4日間。 遂にフェンスの下に掘った穴からの脱獄に成功したのです。 そして、近くの民家から背広を盗み、堂々と歩いてポーランドから立ち去ったのです。 戦時下にナチスの強制収容所からの脱獄という、まさに命を賭けた大脱出劇でしたが、彼らの行動はそれで終わりではありませんでした。 ポーランドから脱出した彼らは、すぐさま収容所での集団虐殺の真相を同盟軍の最高司令官に伝えたのです。 その結果、アウシュビッツに向かう列車を阻止することに成功し、列車に乗っていた12万人の命が救われました。 アウシュビッツ強制収容所は1945年1月27日にロシア軍によって開放され、山積みの死体とミイラのように衰弱した生存者が発見されました。 後の捜査によると100万人以上のユダヤ人がこの収容所で集団虐殺されたことが判明したそうです。 脱獄犯のクオンテ・アダムス(33歳)は、大麻密売の罪によって逮捕され、これまで収監されていた他の刑務所でも度々脱獄を試みていたことから「最も警戒するべき囚人」と見なされ、オールトンのハイテク刑務所に移送されることになりました。 アダムスが収監されていた独房は、施設の1階に位置し壁や天井は鉄鋼板で作られており、監視カメラによる24時間監視の他、看守による点検も30分毎に行われていました。 しかし、アダムスは金属切断用の弓のこ刃を忍ばせた書籍を、ほかの囚人から手に入れ、監視カメラの死角をついて天井に穴を空けてしまったのです。 更に驚くことにアダムスは、ニュースペーパーに「独身の黒人男性の方連絡をください」と広告を出していた40歳の白人女性に連絡を取り文通を開始しました。 そして、徐々にアダムスに夢中になっていた彼女に対して「出所するから車で迎えに来てほしい」と連絡を入れました。 こうして逃走手段を確保したアダムスは、脱獄を決行します。 屋根裏から通気シャフトを通って屋外に脱出したアダムスは、ロープを使って刑務所の塀をも乗り越え見事脱獄に成功したのです。 しかし、アダムスが「出所」ではなく「脱獄」したことに気づいた女性が不安になり警察に連絡を入れたため、潜伏先のモーテルであえなく逮捕されることになりました。 2009年、放火の罪で逮捕された彼はイギリスのペントンヴィル刑務所に護送されていました。 護送車が刑務所に到着し他の囚人達が建物に入っていく中、なんと彼は看守達の隙を見て、今乗ってきた護送車の影に隠れ、その底面に張り付いたのです。 護送車はそれに気づかずそのまま刑務所を出てしまい、ジュリアンは収監されることなく脱獄に成功したのです。 刑務所の職員達は彼がどうやって脱獄したのか全く見当がつきませんでしたが、監視カメラの映像をチェックしたところ護送車の下に写るジュリアンの影に気づいたそうです。 アルカトラズ等が連邦刑務所になった当時は、大恐慌や禁酒法により組織犯罪が激化しており、凶悪犯を収容する事が施設の目的とされました。 その為、刑務所の脱走対策は万全に施されているのに加え、島全体が海に囲まれていることから脱出不可能と言われていました。 しかし、脱獄不可能とされたアルカトラズ刑務所も約30年間の連邦刑務所時代に、計14回、36人の受刑者が脱獄事件を起こしています。 脱獄を試みた受刑者は23人が拘束、6人が射殺、2人が溺死、5名が行方不明とされています。 行方不明の5名も溺死したものと推測されているようですが、この内「本当に脱獄に成功したのでは?」と考えられているのがワシントンD. 生まれのフランク・モリスです。 フランク・モリスは幼い頃から里親に育てられ、10代の頃から何度も犯罪に手を染めていましたが、何とIQは133もあったと言われています。 1960年1月20日に強盗の罪によりアルカトラズ連邦刑務所に護送されました。 彼はアルカトラズに着いてすぐに仲間と共に脱獄を計画していたそうです。 彼らは2年もの歳月をかけて、海を渡るためのイカダと自分たちに似せた人形を作り、さらに仕事場から盗んだ道具を使って、監房のコンクリート壁を交代で掘り、通気口まで続く穴を掘ることに成功しました。 そして、1962年6月11日の夜、ついに3人は脱獄を決行しました。 彼らは用意しておいた人形をベッドに寝かせ、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出し、用意しておいたイカダで海に消えていきました。 看守がモリスらの脱獄に気づいたのは翌朝のことでした。 当然大規模な捜索が行われましたが、脱出に使われたイカダや防水バッグは発見されたものの、モリスらの遺体は見つかりませんでした。 その後、現在に至るまでモリスらの行方は分かっておらず、FBIは1979年に捜査を中止しています。 白鳥は手錠の鎖を引きちぎることができる程の超人的な腕力、1日に120kmもの距離を走る持久力、更には身体の関節を自由に外すことができる特殊体質を持っており、頭が入るスペースさへあれば簡単に抜け出すことが出来たと言われています。 白鳥は1933年に仲間数人と強盗殺人を犯し、その2年後に自首し投獄されました。 その際に収容された青森刑務所で劣悪な待遇について抗議したところ、過酷な懲罰を受けたことがきっかけとなり、その後、何度も脱獄と収監を繰り返す人生を歩むことになりました。 白鳥は26年もの服役生活の中で計4回の脱獄を成功させています。 1936年 青森刑務所 - 針金で手製の合鍵を作り、開錠して脱獄。 1942年 秋田刑務所 - ブリキ板に釘で加工した手製の金工鋸で鉄格子を切断し、脱獄。 1944年 網走刑務所 - 味噌汁で手錠と視察孔を錆びさせ外し、関節を脱臼させ、監視口をくぐり抜けて脱獄。 1947年 札幌刑務所 - 床下からトンネルを掘り脱獄。 視線を上に向けてごまかしながら隠し持った金属片でノコギリを作り、床板を切断。 食器で穴を掘って逃走 1948年 府中刑務所に収監。 以後模範囚として過ごし、1961年に仮釈放。 また、白鳥は脱獄の際に看守に怪我をさせたり、人質を取ったりするようなことは一度もなく、当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評されました。 更に小説、漫画、ドラマなどのモデルとしても数多く描かれており、まさに脱獄王の名にふさわしい人物と言えます。 まとめ いかがでしたでしょうか? 今回は8つの歴史的脱獄事件についてご紹介しました。 脱獄事件は過去の話という訳ではなく、最新のセキュリティ設備に守られた現代の刑務所等でも発生することがあります。 どれだけ最新のシステムを導入しても、最終的には警備している人によって守られているという事ですね。

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脱獄ごっこのレビューと序盤攻略

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脱獄人生の始まりは? 日本の刑務所史上、最も多くの脱獄を成功させた人物と言えば、「五寸釘寅吉」です。 本名は西川寅吉、安政元年(1854年)の幕末期に、三重県多気郡御糸村に生まれました。 生まれながらに高い身体能力を持っていたことが、後の脱獄人生に大きく関わってきます。 貧しい農家の四男で、12歳の時に父親と死別。 後を継いだ長男を手伝って、農作業を行っていました。 家族関係については、長男と折り合いが悪く、かわいがってくれる叔父と親しかったようです。 寅吉の脱獄人生の始まりは、長男に暴行を加えたためとも、叔父の仇討ちしたためとも言われています。 叔父の仇討ち説 叔父の仇討ち説では、寅吉の牢獄入りは14歳のとき。 博打で叔父が殺され、仇の人物を刀で襲撃したのち、家に火を放ったとされています。 地元三重の監獄送りとなったものの、仇討ちという行為が受刑者に好意的に受け止められます。 しかし、叔父の仇が生きていたことを知り、周囲の受刑者の助けを借りて初の脱獄に成功するというものです。 長男への暴行説 長男への暴行説では、嫁を娶った21歳のときです。 長男と激しい口論となった末、暴行を加え、三重の監獄に送られます。 監獄帰りとなった寅吉は農業に身を入れることなく、ヤクザ仲間と強盗事件を起こし、監獄所を出たり入ったりの生活となります。 この場合、収監中に地主が妻子を虐げているという噂を聞き、横浜の監獄で初の脱獄をしています。 初の脱獄に関して違う説が存在するのは、幕末から明治初期という、動乱の時代の出来事であったためかもしれません。 異名の由来と脱獄記録 寅吉が成功させた脱獄回数は6回、日本最多の記録となります。 「五寸釘寅吉」の異名がつけられたのは、初回の脱獄を成功させた後のことです。 三重県松坂市の質屋に盗みに入ったところ、捜索中の警官に発見され、2階から飛び降り逃走。 しかし、ちょうど着地点に、 五寸釘が刺さった板がありました。 勢い良く踏み抜いた寅吉は、足に板を縫い付けたまま、十数キロも走り続けたと言います。 この出来事が 「五寸釘寅吉」の由来となったのです。 しかし、痛みをおして逃亡していたにも関わらず、数日後には賭博仲間の家に潜伏していたところを逮捕され監獄へ逆戻りとなります。 寅吉の刑期には、脱獄罪が加算され無期懲役になりますが、看守の隙をついて二度目の脱獄を行います。 このときの逃亡生活は長く続かず、すぐに逮捕され、北海道の空知収監所に送られます。 再度の脱獄を警戒され、鉄球の足かせを使用することを余儀なくされますが、炭鉱作業中に仲間が看守に暴行。 好機とばかりに、三度目の脱走に成功します。 2年間の逃亡生活を経た後、明治22年1月25日に強盗・窃盗罪で逮捕されます。 罪を重ねすぎて、さすがに死刑は免れられないと考えた寅吉は、偽名をかたることに。 裁判所は、寅吉とは気づかないまま、横浜収監所送りとします。 ところが、寅吉の顔を知る刑務官が転勤してきたことから、寅吉であることが発覚してしまい、北海道の監獄所への送致が決まります。 北海道月形町にある樺戸監獄に入獄した寅吉は、ここで三度もの脱入獄を繰り返すことになります。 中でも有名なのが、 6. 5メートルの塀を囚人服一つで乗り越えた逃走劇です。 鉄球の足かせがつけられる瞬間に、看守を蹴り飛ばし気絶させると、着ていた囚人服に水を染み込ませました。 そして囚人服を塀の高いところに叩きつけ、僅かな吸着力を利用して塀を登りきったのです。 高い身体能力を持つ寅吉だからこそ、なせた技なのでしょう。 この脱獄から1年後に、新潟で再逮捕。 北海道の監獄へ戻されますが、この時を境に脱走を試みることは無くなりました。 このときの寅吉は40歳、体力の限界があったのかもしれません。 その後は、網走刑務所を最後に模範囚として服し、大正13年9月3日に刑期を短縮しての出所が認められるまでに至りました。 出所時の年齢は、71歳。 監獄生活を終えた後は、「五寸釘寅吉一座」を結成して全国巡業を行います。 大盛況の一座でしたが、時の流れとともに忘れさられ廃業、晩年は三重県多気郡で息子に面倒を見られながら過ごします。 昭和16年に87歳で永眠します。 五寸釘寅吉事件~日本の刑務所史上、最多の脱獄王~ まとめ 6回もの脱獄を成功させ、模範囚として出所した「五寸釘寅吉」。 死の直前に 「西に入る夕日の影のあるうちに罪の重荷を降ろせ旅人」という句を残しています。 脱獄王を呼ばれた人物ならではの言葉なのかもしれません。

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【約束のネバーランド】脱獄後つまらなすぎて失望!面白さも脱走中

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史上最恐の監獄・アルカトラズ刑務所を脱出した男!『フランク・モリス』(アメリカ) フランク・モリスは脱獄不可能と言われた監獄『アルカトラズ刑務所』唯一脱獄に成功したと言われる人物です。 アメリカのカリフォルニア沖に浮かぶアルカトラズ島は、灯台、軍事要塞、軍事監獄、そして1934年から1963年まで連邦刑務所として使用されていました。 アルカトラズ等が連邦刑務所になった当時は、大恐慌や禁酒法により組織犯罪が激化しており、凶悪犯を収容する事が施設の目的とし、刑務所の脱走対策は万全に施されているのに加え、島全体が海に囲まれていることから脱出不可能と言われていました。 しかし、脱獄不可能とされたアルカトラズ刑務所も約30年間の連邦刑務所時代に、計14回、36人の受刑者が脱獄事件を起こしています。 脱獄を試みた受刑者は23人が拘束、6人が射殺、2人が溺死、5名が行方不明とされています。 行方不明の5名も溺死したものと推測されているようですが、この内「本当に脱獄に成功したのでは?」と考えられているのがワシントンD. 生まれのフランク・モリスです。 ワシントンD. で生まれたフランク・モリスは幼い頃から里親に育てられ、13歳の頃から犯罪に手を染めるようになり、10代の後半に麻薬所持や強盗の罪などで逮捕されました。 何とIQは133もあったと言われています。 モリスは1960年1月20日にアルカトラズ連邦刑務所に護送されました。 彼はアルカトラズに着いてすぐに仲間と共に脱獄を計画していたそうです。 脱獄計画にはモリス以外にアレン・ウェストと、ジョンとクラレンスのエングリン兄弟が加わっていました。 計画はウェストの立案だったとされていますが、彼は脱獄決行時に独房内の換気口の格子を切断することが出来なかったことから脱獄には加わりませんでした。 彼らは2年もの歳月をかけて、海を渡るためのイカダと自分たちに似せた人形を作り、さらに仕事場から盗んだ道具を使ってコンクリート壁を交代で掘り、1962年3月にようやく独房の裏手まで続く穴を掘ることに成功しました。 1962年6月11日の夜、ついに3人は脱獄を決行しました。 彼らは用意しておいた人形をベッドに寝かせ、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出し、用意しておいたイカダで海に消えていきました。 看守がモリスらの脱獄に気づいたのは翌朝のことでした。 当然大規模な捜索が行われましたが、脱出に使われたイカダや防水バッグは発見されたものの、モリスらの遺体は見つかりませんでした。 死体が見つかっていないにもかかわらず、FBIは1979年に捜索を中止しモリスとエングリン兄弟がサンフランシスコ湾で溺死したと断定。 その理由として、彼らが強盗などの常習犯であったにもかかわらず、その後一度も捕まっていないためとしています。 結局、現在でもモリスらの行方は分かっておりません。 なおこの脱獄事件は映画『アルカトラズからの脱出』のモデルとなっています。 日本最強!昭和の脱獄王『白鳥由栄』(日本) 白鳥由栄は収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし「昭和の脱獄王」と呼ばれた人物です。 白鳥は、40歳を過ぎてなお米俵を両手に持って手を水平にすることができる程の怪力の持ち主で、手錠の鎖も簡単に引きちぎってしまうほか、1日に120kmもの距離を走る持久力、更には身体の間接を自由に外すことができる特殊体質を持っており、頭が入るスペースさへあれば簡単に抜け出すことが出来たそうです。 青森県出身だった白鳥は、幼少期に豆腐屋の養子となってから徐々に素行が悪化。 1933年に仲間数人と強盗殺人を犯し、その2年後に自首し投獄されました。 その際に収容された青森刑務所の待遇が余りに劣悪だったため抗議したところ、過酷な懲罰を受けたことがきっかけとなり、1936年針金で手製の針金で手製の合鍵を作り開錠して脱獄に成功。 その後も収監と脱獄を繰り返しており、合計26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年に及んだそうです。 また、脱獄の際に看守に怪我をさせたり、人質を取ったりするような強行突破をしたことは一度もありませんでした。 1942年に秋田刑務所で、ブリキ板に釘で加工した手製の金工鋸で鉄格子を切断し、脱獄に成功。 1944年には日本最恐と恐れられる網走刑務所に収監されますが、特製の手錠と視察孔に味噌汁を吹きかけ続けて錆びさせ外し、関節を脱臼させ、監視口をくぐり抜けて脱獄に成功。 その後終戦まで逃亡生活を続けていましたが、終戦後、畑泥棒と間違えられ農家に袋だたきにされますが、逆に相手を殺害してしまい再び逮捕されました。 この時は無罪を主張した白鳥でしたが、札幌高裁からは死刑判決を言い渡され脱獄を決意したそうです。 1947年、収監された札幌刑務所で、看守6人1組で厳重に監視される中、視線を上に向けてごまかしながら隠し持った金属片でノコギリを作って床板を切断。 食器で穴を掘って床下にトンネルを掘り脱獄に成功しました。 再び逃亡生活を続けていましたが、ある時警官から当時貴重品だった煙草をもらった事がきっかけで、あっさり脱獄囚であることを明かし自首。 その後、白鳥の主張が一部認められ懲役20年の判決を言い渡されました。 1948年に府中刑務所に収監された後は模範囚として過ごし、1961年に仮釈放されました。 出所後は建設作業員として就労し、1979年に心筋梗塞で世を去っています。 当時、看守たちは、脱獄者を出すと職務怠慢で懲戒処分になってしまうため「脱獄するなら、自分が当直以外のときであって欲しい」と言っていたそうです。 更に漫画「ゴールデンカムイ」の白石、ドラマ化もされた小説「破獄」の佐久間などのモデルとして数多く描かれており、まさに脱獄王の名にふさわしい人物と言えます。 アニメ「ゴールデンカムイ」やビートたけし主演のドラマ破獄はAmazonプライムビデオで無料視聴できますよ。 IQ169!アメリカ犯罪史上最強の脱獄王『スティーブン・ラッセル』(アメリカ) スティーブン・ラッセルは、アメリカ犯罪史上最強の脱獄王と呼ばれる犯罪者です。 スティーブンは1957年9月14日、アメリカ合衆国 ノースカロライナ州で生まれました。 両親はスティーブンが産まれる前に離婚しており、スティーブンは母親に育てられていましたが、母子家庭は貧困を極め、養子に出されることになりました。 その後、成長したスティーブンは市民を守る警察官になり、警察署長の秘書と結婚し、子供にも恵まれました。 誰の目にも順風満帆な人生を送っていた彼には秘密がありました。 実はスティーブンには愛人がいました。 しかもそれはジェームス・ケンペルという男性でした。 子どもの頃から、なんとなく男性が好きだったスティーブンは、愛人ジェームスのために、いくらでもお金を使ううちにカードの返済が滞りはじめ、生活費に困るようになりました。 すると彼は、保険金詐欺をはじめました。 わざとビルの床を濡らし、転んで怪我をし、保険金として4万5千ドルを受け取ったのです。 保険金詐欺を何度か繰り返していた時、愛人ジェームスがHIVを発症。 しかも既に末期の状態でした。 スティーブンは仕事を辞め、妻と離婚し、毎日つきっきりで看病しました。 しかし、そんな生活は長くは続きませんでした。 まもなくしてスティーブンは保険金詐欺で逮捕され、懲役6ヶ月となり刑務所に収監されました。 そしてスティーブンは、いつ死んでしまうか分からない状態の恋人ジェームスに一目逢うために脱獄を決意しました。 しかし、刑務所は高い壁に囲われており、ライフル銃をもった看守に24時間監視されています。 そこで、スティーブンは毎日看守の動きを観察し続け、 「看守がタバコを吸いに外に行ったとき、看守部屋が無人になること」 「警官が無線機で刑務所の出入口をノックすると看守が扉を開けていること」 を発見しました。 そして、1993年5月13日ついに脱獄を実行しました。 スティーブンは、看守がタバコを吸いに行ったのを確認すると、あらかじめ盗んでおいた女性物の服を着て、看守部屋から無線機を奪い、刑務所の出入口を無線機でノックして堂々と刑務所の正面から脱獄することに成功したのです。 何とこの刑務所の出入り口にいた看守は、無線機を持っている人物はみな私服の警官だと認識していたのでした。 大胆不敵で鮮やかな手口で脱獄に成功したスティーブンですが、逃亡生活は長くは続かず一週間後に恋人といるところをあっけなく逮捕され、脱獄の罪も加わり懲役3年となって再び刑務所に収監され、3週間後に恋人ジェームスは他界しました。 それから2年後の1995年12月。 出所したスティーブンは、医療コンサルタントとして大手企業に就職し、なんと年収8万5千ドル(約850万円)という高額な報酬を得て豪邸に住み、新しい恋人 男 のフィリップ・モリスと優雅な生活を楽しんでいました。 前科者のスティーブンがなぜそのような地位を手に入れることが出来たのかと言うと… 恋人が他界し、脱獄する理由がなくなったスティーブンは模範囚として19ヶ月服役したところで仮出所しました。 出所後すぐに新聞に架空の会社の求人広告を出し、送られてきた大量の履歴書から他人の経歴を引用し、完璧な履歴書を作り上げました。 それを大企業に送り、面接を受け入社。 大企業の経理部門のトップになることに成功したのです。 しかし、会社のお金を横領していたスティーブンは再び逮捕され、恋人のフィリップも共犯の容疑で逮捕されてしましました。 何も知らないフィリップは激怒しましたが、逮捕直前にお金を引き出しておいたスティーブンが保釈金4万ドル(約400万円)を払うことで仲直りすることが出来ました。 ところが裁判の結果スティーブンの保釈金は90万ドル(約9000万円)と、準備していたお金ではとても払える金額ではありませんでした。 そこでスティーブンは保釈指示書を隅から隅まで暗記し、保釈金を4万5千ドル(約450万円)に変えて紙に書き写し、友人に郵送してパソコンで打ち込んでもらいました。 こうして作り上げた偽の保釈指示書を、裁判所の床にわざと落とし、事務員に拾わせ、判事になりすまして電話し、偽の保釈指示書の金額をコンピューターに入力するよう指示し保釈金を大幅に引き下げることに成功。 保釈金を支払い、出所(脱獄)した彼は恋人が待つ豪邸に戻りました。 しかし、翌日、早くも書類の偽造が発覚し、恋人と一緒にいた所を再び逮捕されてしまいました。 懲役45年を言い渡されたスティーブンは、テキサス州で最もセキュリティレベルが高い刑務所と言われるエステルユニット刑務所に収監されました。 そして、恋人に会いたいスティーブンは収監された時から脱獄を決めていました。 さっそくスティーブンは、囚人対象の美術講座に申し込むと緑のペンを使って木を描きました。 4ヶ月たってもスティーブンは緑のペンで草や木や森を書いていました。 スティーブンは緑のペンばかり使うので、すぐに緑のペンばかり無くなることに看守は気づいていましたが、特に問題になることはなく、彼に緑のペンを与えていました。 その間、彼は緑のペンをひそかに集め続けていました。 4ヶ月間で集めた数は110本。 スティーブンは110本の緑のペンのインクを貯めた水の中に全て入れ、緑色になった水で、余分に手に入れておいた白い囚人服を緑色に染めました。 実は、この刑務所を自由に出入りしているのは、刑務官と、緑色の制服を着た医療スタッフだけでした。 スティーブンは緑色の制服を着て医療スタッフに化けると、急患が運ばれてきたから早く開けてくれと看守に言い次々と扉を通過。 またも堂々と脱獄に成功し、恋人フィリップの元へと向かいました。 しかし、この3度目の脱獄は『囚人服を緑に染めて脱獄』と新聞にも大きく掲載され全米で話題になりました。 スティーブンとフィリップは2人で一緒に逃亡しますが、指名手配後すぐに逮捕され、今度は2人別々の刑務所に収監されました。 それから7ヶ月…、恋人フィリップの元にとんでもない知らせが届きました。 弁護士が見せてくれたスティーブンの医療記録にはHIVに感染と記載されていました。 スティーブンがHIVに感染し、HIV感染治療の専門家から治験を受けるためヒューストンの病院に入院する知らせだったのです。 そして、それからしばらくしてフィリップの元にスティーブン死亡の知らせが届きました。 スティーブン死亡の知らせを聞いたフィリップは、頭の整理ができないまま、詳しい話を聞くために担当弁護士との面会に向かいました。 面会室の扉を開けると、弁護士が「フィリップ君だね、初めまして」と話しかけてきました。 スティーブンはとても驚きました。 なんと弁護士として面会室にいたのは死亡したはずのスティーブンだったからです! スティーブンは4度目の逮捕にもめげずに、再び脱獄することを考えていました。 そしてHIV患者になりすまして脱獄する計画を考えました。 手始めに、日々の食事の量を減らして体重を落とすと、看守の見ている前で、頭痛や吐き気など本に書いてあったHIV感染症の症状を真似ました。 次にカルテを偽造し、検査結果を差し替えて、HIV患者として病院に入院すると、HIV感染症の治験を引き受けてくれる病院を探して電話をかけ続けました。 治験を引き受けてくれる病院を見つけたスティーブンは、今度は自分の入院している病院に治験者を探していると電話をしました。 こうして、両方の病院の担当者に成りすまして転院を決めると、移送中に抜け出して、両方の病院に、容体が急変して自分が死んだと報告しました。 そして、弁護士ライセンスを偽造し、愛するフィリップを助ける為に刑務所にやってきたのでした。 しかし、すぐに弁護士ライセンスの偽造がバレ、またもあっけなく逮捕されました。 四度の脱獄を重要視され、スティーブンは懲役144年の刑を言い渡されました。 スティーブンはインタビューに対して、次のように答えています。 「脱獄はもう考えていない。 フィリップと別れて、脱獄する理由がなくなったんだ。 」 このスティーブン・ラッセルの脱獄劇も2009年にジム・キャリーとユアン・マクレガー主演で映画化されています。 興味がある方は是非見てみてくださいね。 まとめ 今回は歴史に名を刻む3人の脱獄王をご紹介しました。 いづれの人物もユニークな方法を思いつく発想力と、それを実行してしまう行動力、そして、何度失敗しても諦めない力を持っていて、もうちょっと違う分野で頑張れば普通に成功できたのでは?と思ってしまいます。 どんなに頭がよくても、使い方を間違えてしまっては意味がありませんね。

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